徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

タグ:建築土木

織陣

 

織陣(おりじん)2010年1月17日訪問 織陣Ⅰ 昭和56年(1981)竣工  宝暦・明和事件の背景とその影響を記すために、藤井右門邸跡から始まり、その2、その3、その4、その5までと、思ってもいなかった程の長文になってしまった。この明和事件の発生した明和4年(1767)は、幕末維新の100年前に当たる。まだ幕府の基盤も安定していた時期であり、尊王の意識はあったものの、実際に倒幕が可能だという見通しは藤井らにとっても無かったと思われる。現在から250年前に発生した小さな事件が、幕末維新の大きなうねりに繋がっていくためには、まだまだ多くの人々の登場を待たねばならなかった。 明田鉄男氏の「幕… ►続きを読む

 

京都府立鴨沂高等学校 その2

 

京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきんこうとうがっこう)その2 2010年1月17日訪問 鴨沂高等学校 九条家河原町邸の門を移築  京都市教育会が大正4年(1915)に建立した「従是東北 法成寺址」の石碑についての事々を法成寺址 その5において書いてきた。石碑が建てられた後に鴨沂高等学校のグランドを囲むコンクリート製の塀が造られたため、塀には石碑を避けるような半円形の窪みが設けられている。京都ではこのような窪みを多く見掛けるのは昔からの碑を地域の人々が大切に守ってきたからであろう。 この碑の東北には、かつて藤原道長が最後の時を過ごすために建立した法成寺が存在した。そして道長の没後も… ►続きを読む

 

京都御苑 閑院宮邸 その2

 

京都御苑 閑院宮邸(きょうとぎょえん かんいんのみやてい) 2010年1月17日訪問 京都御苑 閑院宮邸  四世襲親王家の最後は、東山天皇の第6皇子・直仁親王が享保3年(1718)正月に創設した閑院宮。すでに2008年5月に京都御苑 閑院宮邸として一度書いているのでそちらもご参照下さい。 閑院宮の宮号は霊元上皇より賜ったものであるが、清和天皇の皇子・貞元親王の号であった閑院に由来する。宮家創設にあたっては新井白石の建議があった。すなわち、伏見宮・有栖川宮・桂宮の宮家がいずれも当時の天皇家とは遠縁になっていることより、皇統の断絶が危惧されるならば天皇の近親者によって新たな宮家を創設するべき… ►続きを読む

 

京都御苑 出水の小川 その3

 

京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 出水の小川 2014年10月8日撮影  京都御苑 出水の小川では御所水道敷設について、京都御苑 出水の小川 その2では平安京造営以降の東北部の水環境と禁裏御用水の成立までを書いた。ここでは第一疎水の完成によって禁裏御用水がどのように変わったかについて書くこととする。 東京極大路の外側を南北に流れる中河の姿は源氏物語にも現われる。しかし平安時代後期から末期にかけて、中河は流れを失っていたと考えられている。そして流れを再現するため、東洞院川を北小路と一条大路の2箇所で旧中河に結び付けたのが今出… ►続きを読む

 

京都御苑 出水の小川 その2

 

京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 出水の小川  京都御苑 出水の小川では本願寺水道など話しが少し横道に逸れてしまった。そのため御所の防災対策については説明できたものの御用水について触れることができなかった。ここでは御所水道敷設以前の御所で使用する水をどのように確保してきたかについて書いてゆく。 現在の京都御所の元となった土御門東洞院殿は、権大納言藤原邦綱の邸宅で平安京北辺四坊二町に所在した。もともと邦綱は藤原北家良門流に属する下級官人の出であった。文章生から蔵人になる一方で、藤原忠通の家司として頭角を現わし、和泉、越後、伊… ►続きを読む

 

京都御苑 出水の小川

 

京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 出水の小川  出水口より京都御苑に入ると右手にせせらぎが見える。傍らに立つ駒札には出水の小川と記されている。明治時代に御所の防火用水を確保するため、琵琶湖疏水を使用した御所水道が作られている。出水の小川は1981年に御所廻りの御溝水から導水して作られたせせらぎである。しかし1992年の御所水道が停止したため、井戸からくみ上げた地下水を循環ろ過して使用しているという。この情報だけではよく分からないので、御所で使われる水について少し調べてみる。 京都御苑 出水の小川  先ず、御所水道について触… ►続きを読む

 

徳大寺樋門の遺構

 

徳大寺樋門の遺構(とくだいじひもんのいこう) 2009年12月20日訪問 徳大寺樋門の遺構  桂離宮の東側、すなわち桂川沿いの京都府道123号水垂上桂線を北に向かって歩いている時に見かけた遺構について記す。 桂離宮の美しい笹垣を左手に見ながら進み表門へ左に曲る直前、周囲をメッシュ状のフェンスに囲まれた敷地の端に、説明板と共に煉瓦造の門の一部のようなものが見える。近づいてみると、かつてこの地にあった桂川の樋門が保存されていた。説明板の文字や写真もフェンス越しであるため読み辛かったので、とりあえず写真だけ撮影し表門へと向かった。後でこの樋門について調べてみると以下の様なことが分かった。… ►続きを読む

 

桂大橋

 

桂大橋(かつらおおはし) 2009年12月20日訪問 桂川左岸 日出前  烏丸駅から梅田行の阪急京都本線快速急行に乗車し、桂駅に到着したのは6時30分。本日は桂川の右岸の松尾から嵯峨野にかけて巡る。まだ日の出前のため、桂駅から徒歩で桂川に向かい桂大橋上で日の出を迎える予定である。 桂川は左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境に位置する佐々里峠に発する一級河川で、その流域毎に名称を変える。先ずは右京区京北地区の流域では上桂川、そして南丹市園部地区に入ると桂川になる。南丹市八木地区から亀岡市は大堰川、そして亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは保津川と呼ぶこともあるが、嵐山からは再び桂川に戻る。… ►続きを読む

 

京都府立鴨沂高等学校

 

京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきんこうとうがっこう) 2009年12月10日訪問 京都府立鴨沂高等学校 九条邸から移築した門  京都府立鴨沂高等学校のグランドに巡らしたコンクリート塀の一角に掘り込むように作られた法成寺址の碑が建つ。時の最高権力者であった藤原道長が病を得て出家するために建立した無量寿院の寺地のほぼ西南角に、この碑は建てられている。道長が最初の建物として九躰阿弥陀堂が建てたのは寛仁4年(1020)のことであった。そして治安2年(1022)7月14日、金堂の建立供養を行い、寺号を法成寺としている。その後も堂宇の新築と改築を行い、道長の僧房は摂関時代を代表する大寺院へ… ►続きを読む

 

みそそぎ川

 

みそそぎ川(みそそぎがわ) 2009年12月10日訪問 みそそぎ川 取水口と京都府立医科大学付属病院の位置関係  この日は梁川星巌邸址の碑を見つけることなく、再び川端通丸太町の交差点から丸太町橋を渡り西岸に戻る。ここより鴨川沿いの遊歩道に下りる。鴨川の西岸をみそそぎ川の取水口まで歩く。 古くより鴨川は氾濫を繰り返す暴れ川として知られてきた。これは大都市を流れる河川としては勾配が急であるためだ。北山の深泥池と九条の東寺の間には東寺の五重塔分の高低差があると言われる。単純に一様勾配とすると、凡そ8.7kmの間に55m下ることとなる。河川勾配で表すと1/158(158m下流で1m低くなる勾配)… ►続きを読む

 

旧京都中央電話局上分局

 

旧京都中央電話局上分局(きゅうきょうとでんわきょくかみぶんきょく) 2009年12月10日訪問 旧京都中央電話局上分局  行願寺の山門を出て、下御霊神社そして横井小楠殉節地の碑の前を通り、再び丸太町通に戻る。鴨川に架かる丸太町橋を目指し東に進む。河原町通、土手町通を越えると右手に吉田鉄郎設計の旧京都中央電話局上分局が現れる。 建築家吉田鉄郎は、明治27年(1894)富山県東砺波郡福野町の郵便局長を務める五島寛平の3男として生まれる。金沢の旧制四高を経て東京帝国大学建築学科を大正8年(1919)に卒業する。逓信省営繕課に入った鉄郎は、同年吉田芳枝と結婚し以後吉田姓となる。  逓信省は明治1… ►続きを読む

 

祇園閣 その4

 

祇園閣(ぎおんかく)その4 2009年11月29日訪問 祇園閣 八坂塔方面  祇園閣 その2と祇園閣 その3では、祇園閣の設計者である伊東忠太の建築とパトロンとなった大谷光瑞について記してきた。前段が長くなり、祇園閣に達する前に終わってしまった。ここでは大倉喜八郎と忠太の関係から祇園閣の創建について書いてみたい。 伊東忠太は、大谷光瑞と西域探検を通じて知り合えているが、大倉喜八郎とはどのようにして巡り合えたのだろうか?伊東忠太が明治25年(1892)帝国大学工科大学を卒業しているが、大倉喜八郎の甥にあたる喜三郎もその翌年に卒業している。卒業後は大倉家の経営する大倉組に入社、ロンドン支店に… ►続きを読む

 

祇園閣 その3

 

祇園閣(ぎおんかく)その3 2009年11月29日訪問 祇園閣  明治に入り欧米の近代建築を日本に取り込んでいく過程で、ジョサイア・コンドルに代表されるお雇い外国人達の果たした役割は大きい。明治10年(1877)に来日したコンドルは、その年に工部大学校造家学教師となり、辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊ら第一世代を育て上げている。辰野金吾が工部大学を第1回生として卒業したのが明治12年(1879)のことであったから、伊東忠太と比べると10年以上前の世代に属している。 第一世代の建築家は、例えば駅舎や議会などのような、それまでの日本には存在しなかった機能が要求される施設を建設しなければならなかっ… ►続きを読む

 

祇園閣 その2

 

祇園閣(ぎおんかく)その2 2009年11月29日訪問 祇園閣 本堂西面からの眺め  大雲寺の本堂の西側には伊東忠太設計の祇園閣が建つ。既に記したように大雲院は四条河原町の貞安前之町から、昭和48年(1973)この東山の地に移転してきたため、大倉喜八郎が生前に建設した祇園閣と真葛荘の方が古くからこの地にあったこととなる。つまり、真葛荘と祇園閣の隙間に大雲院の本堂と境内そして墓地を作ったこととなる。そのため本堂の裏側(西側)から祇園閣に渡るのは簡単であるものの、大雲院の境内で祇園閣だけを鑑賞できるポイントは少ない。それだけ祇園閣に接するように本堂が建てられたためである。むしろ、境内外のねね… ►続きを読む

 

葛野大堰

 

葛野大堰(かどのおおい) 2009年11月29日訪問 葛野大堰 渡月橋から保津川を眺める 写真中央の堰が葛野大堰の跡とされている  大阪市中央区本町4丁目にあるホテルを朝の5時にチェックアウトし、大阪市立地下鉄本町駅より御堂筋線に乗車する。2つ先の梅田駅で下車し、地下街伝いに阪急電鉄梅田駅へと急ぐ。大阪より休日の7時前に嵐山に着くためには、梅田駅5:40発の阪急京都本線に乗車しないとならないようだ。2008年冬に、法輪寺をはじめとした嵯峨野巡りを行なった時も、確かこの列車に乗ったはずである。桂駅で嵐山線に乗換え、3つ目の嵐山駅には7時5分前に到着する。この時期だと丁度7時が日の出となる。… ►続きを読む

 

渡月橋

 

渡月橋(とげつきょう) 2008年12月21日訪問 渡月橋  法輪寺の裏参道を出ると、正面に大堰川と渡月小橋が現れる。 嵐山の項でも触れたように、渡月橋より下流は桂川と呼び、その上流を大堰川、あるいは保津川下りのように亀岡市保津町から渡月橋間を保津川と呼ぶこととなっている。 淀川水系のひとつである桂川は、京都府京都市左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境に位置する佐々里峠に発する。左京区広河原、左京区花脊を南流し、花脊南部で流れを西へと大きく変える。京都市右京区京北を常照皇寺から山国神社へと東西に横断し、南丹市日吉町の世木ダム、日吉ダムを経由、以降は亀岡盆地へと南流する。亀岡市の中央部を縦… ►続きを読む

 

国立京都国際会館

 

国立京都国際会館 (こくりつきょうとこくさいかいかん) 2008年05月20日訪問 国立京都国際会館  宝ヶ池の北側に昭和41年(1966)建設された国立京都国際会館へは、いつかは訪れなければいかないと思いつつ、なんとなく足が向かないまま未訪問のままであった。それは地理的な理由もあったが、むしろどうしても見なければという積極的な気持ちを欠いていたためであろう。今回も近くまで来たついでに遠くからだけでも眺めておこうという気楽な気分になれたためである。 国立京都国際会館  戦後の建築設計競技は、昭和23年(1948)の世界平和記念聖堂と広島平和記念公園、昭和27年(1952)丸の内の東… ►続きを読む

 

八木邸

 

八木邸(やぎてい) 2008年05月18日訪問 八木邸 京都鶴屋 鶴寿庵の奥に八木邸の長屋門が見える  京福電鉄嵐山本線の踏み切りを越え、坊城通と綾小路通の角には新選組の屯所として使われた旧前川邸が残されている。その先に京都教育会が昭和6年(1931)に建立した新選組遺蹟が現れる。 八木家の始祖である朝倉氏は但馬国朝倉(兵庫県養父郡朝倉庄)に発している。鎌倉時代初期に朝倉高清の次男・重清が八木庄に入り、八木安高を名乗っている。その後、承久の乱(承久3年(1221))で鎌倉幕府に加勢したことにより一族は興隆する。八木家の宗家となる朝倉高清から7代後の朝倉広景が越前朝倉を興す。八木氏も越前を… ►続きを読む

 

旧前川邸

 

旧前川邸(きゅうまえかわてい) 2008年05月18日訪問 旧前川邸  壬生の町並みで触れたように、浪士組が京に着くと更寉寺、新徳禅寺、壬生村会所、南部亀次郎邸、中村小藤太邸、四出井友太郎邸、八木源之丞邸、浜崎新三郎邸、柳恕軒邸、百姓玖太郎邸、百姓新三郎邸の11軒に分宿している。この宿割には旧前川邸が含まれていないが、八木邸には近藤たち10名が宿泊している。旧前川邸の公式HPでは、浪士組の宿舎を選定するに当たって、市中情勢にも詳しく役人の信頼も厚かった前川本家に任されたとしている。前川本家は油小路六角にあり、御所や所司代の掛屋であった。公金の出納や資金運用の仕事など現在で言うところの金融… ►続きを読む

 

角屋 その3

 

角屋(すみや) その3 2008年05月18日訪問 角屋 臥龍松  最後に角屋の1階の座敷を見ていく。玄関を潜り、右手に曲がると入口の奥には右手の網代の間の庭が見える。この小さな坪庭が入口の暗さを救っている。この明るさに引かれて客は建物に上がっていく。角屋 その2で説明したように、客は建物に入ると壁に設けられた刀架けに刀を預けることとなる。そのまま真直ぐ進むと右手に28畳の網代の間が広がる。ここは表棟の1階の部分にあたると思われる。赤壁に大長枌網代組の天井で、棹縁は長さ4間の北山杉の丸太を使用している。床の地板は2間の松の大節木、柱は大木皮付が用いられている。 襖絵は長谷川等雲による「唐… ►続きを読む

 
 

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