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南千住 回向院 その9
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その9 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 烈婦瀧本之碑 B-20 南千住 回向院 その8では、幕末に処刑された政治犯の埋葬を受け入れてきた回向院の住職・川口厳考と桜田門外の変に関わった人々を見てきた。この項では岩崎英重が明治44年(1911)に著した「桜田義挙録」(吉川弘文館 1911年刊)を通じて桜田門外の変に関わった人々の埋葬とその後の水戸藩による改葬について見て行く。 南千住 回向院 稲田重蔵遺墳 C-13 南千住 回向院 有村次左衛門遺墳 C- 3 南千住 回向院 鯉渕要人遺墳 C-14 桜田門外の変に関わ… ►続きを読む
南千住 回向院 その8
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その8 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 明治維新殉難志士墓所 南千住 回向院 その5、その6、そしてその7を使って安政の大獄で処罰された人々の中で回向院に葬られた方と文久2年(1862)末からの長州藩と水戸藩の改葬について書いてみた。この項では、幕末に処刑された政治犯の埋葬を受け入れてきた回向院の住職・川口厳考と桜田門外の変に関わった人々を見ていく。 幕末維新期に回向院の住職を務めた川口厳考は美濃の人で岐山と号していた。明治29年(1896)に82歳で寂したとされているので、梅田雲浜や井伊直弼と同じ文化12年(1815)生まれであろ… ►続きを読む
南千住 回向院 その7
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その7 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 橋本左内の墓所 南千住 回向院 その6では、安政の大獄について安政6年10月7日の処刑以降を見てきた。ここでは安政の大獄の殉難者達の復権の過程を書いていく。 安政の大獄として執行された処罰は、朝廷と大名及び幕吏に対する者を除けば、次の3回に行われている。第一回は水戸藩関連者に対する安政6年(1859)8月27日の執行。第二回は飯泉喜内、橋本左内、頼三樹三郎等への執行で同年10月7日に行われている。そして最後の執行が同年10月27日、吉田松陰等に対するものであった。 しかし松陰の斬首が行われてか… ►続きを読む
南千住 回向院 その6
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その6 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 鴨崖墓 C-20頼三樹三郎の墓 南千住 回向院 その5では、安政の大獄の捕縛の始まりから安政6年(1859)10月6日の三条実万の病死までを書いてきた。ここでは安政6年10月7日の処刑以降を書いてみる。 南千住 回向院 飯泉喜内之遺墳 A- 7 南千住 回向院 藜園墓 B-14橋本左内の墓 安政の大獄の1回目の処罰は、主に水戸藩に関するもので安政6年8月27日に執行されている。そして2回目の処罰が安政6年10月7日に行われた。 三条家家士の飯泉喜内は安政5年9月17日に江戸で… ►続きを読む
南千住 回向院 その5
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その5 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 梅田源次郎遺墳 C-32梅田雲浜の墓 南千住 回向院 その4では、安政の大獄で刑死した長州藩士・吉田松陰の埋葬を通じて回向院に墓が建立された経緯を見てきた。この項では、安政の大獄で殉難した者の中で回向院に関連する人々について書いていく。 既に安政の大獄については、いろいろな場所で書いてきた。特に京都御苑 賀陽宮邸跡 その2から梨木神社 その7までを使い断続的に書いてきたので、ここでは事件の経緯について詳しくは触れない。 そもそも、この事件は安政5年(1858)冬、老中・堀田正睦が京に上り日米… ►続きを読む
南千住 回向院 その4
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その4 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 松陰二十一回猛士墓 C-19 と 御名刺入 C-18中央:吉田松陰の墓 右に頼三樹三郎、成就院信海、小林良典の墓 南千住 回向院、その2、そして、その3までの3項を使い、杉田玄白と前野良沢等による観臓から解体新書の発刊について書いてきた。いよいよ、この項から明治維新殉難志士墓所に入る。2009年に荒川ふるさと文化館で開催された展示会の図録「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2009年刊)によれば、“回向院史跡エリア”という範囲に87基の墓碑と木製標柱1基が整備されている。史跡エ… ►続きを読む
南千住 回向院 その3
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その3 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 もともと南千住 回向院の一項で纏めるつもりであった観臓記念碑が思ったより長くなってしまった。この項では観臓後の翻訳作業の開始から「解体新書」の発刊までを書き、観臓記念碑についてを終了する予定である。 杉田玄白の「蘭学事始」(「岩波クラシックス28 蘭学事始)(岩波書店 1983年刊))によれば、観臓の帰り道、「ターヘル・アナトミア」の正確さに驚いた杉田玄白、前野良沢、中川淳庵は、その翻訳に着手することを決める。同書では良沢の言葉として下記のように記している。 然らば善はいそげといへる俗諺もあ… ►続きを読む
南千住 回向院 その2
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その2 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 蘭学を生んだ解体の記念碑 南千住 回向院では日本に於ける人体解剖の歴史と明和8年(1771)3月4日に小塚原で行われた観臓が行われるまでの経緯を書いてきた。この項では観臓の様子を書いてみる。 明和8年(1771)3月3日、杉田玄白は町奉行所から翌4日に千住小塚原の刑場で腑分けが行われる連絡を受けている。玄白は至急同志に「早天に浅草三谷町出口の茶屋」で待ち合わせる旨を伝えた。この時、玄白より10歳年長の前野良沢にも使いを送っている。町奉行所から玄白に観臓の許可が出たのは、事前に申し入れが行われて… ►続きを読む
南千住 回向院
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん) 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 本堂ピロティ下 千住宿と小塚原の歴史について、南千住 小塚原から、その4までを使って記してきた。ようやく、ここからは本題である回向院について書いていく。 回向院は浄土宗の寺院で山号を豊国山と称す。同寺の「史蹟 小塚原回向院 縁起(http://ekoin.fusow.net/303.html : リンク先が無くなりました )」によれば、寛文7年(1667)に本所回向院の住職弟誉義観上人が常行堂を創建したことに始まる。元々、本所回向院は万治年間(1658~61)頃より町奉行の下命で牢死者や行倒人などの… ►続きを読む
妙顯寺
日蓮宗 龍華 具足山 妙顯寺(みょうけんじ)2010年1月17日訪問 妙顕寺 山門 宝鏡寺の特別公開を拝観した後、寺之内通を100メートル程度東に進むと、妙顯寺の山門が現れる。妙顯寺は日蓮宗の大本山、開基は日像である。 日像は文永6年(1269)下総国に生まれている。俗姓は平賀氏で幼名は経一丸。建治元年(1275)日蓮の弟子で兄の日朗に師事し、後に日蓮の弟子となっている。永仁元年(1293)日蓮の遺命を受け、京都での布教を始める。上洛して間もない永仁2年(1294)には、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い造酒屋の柳屋仲興や大覚寺の僧で後に妙顯寺2世となる大覚らの帰依を受ける。し… ►続きを読む
宝鏡寺 その2
臨済宗単立 西山 宝鏡寺(ほうきょうじ)その2 2010年1月17日訪問 宝鏡寺 宝鏡寺では、鎌倉時代後期から始まった五山制度から京都尼五山の成立、そして無外如大による景愛寺の創建、そして現在に残る大聖寺と宝鏡寺が子院として景愛寺を継承してきたことで終わった。この項では、いよいよ宝鏡寺創建の歴史に入っていく。 異説はあるものの、無外如大開山開基で景愛寺が創建されたのは、宝鏡寺が所蔵する「尼五山景愛寺伝系西山宝鏡寺逓系譜事蹟」から弘安8年(1285)と考えられる。荒川玲子氏の「景愛寺の沿革 ―尼五山研究の一齣―」(「書陵部紀要 通号28」(宮内庁書陵部編1976年刊)によれば、景愛寺の歴… ►続きを読む
宝鏡寺
臨済宗単立 西山 宝鏡寺(ほうきょうじ)2010年1月17日訪問 宝鏡寺 山門 小川にかかる百々橋跡を西陣側に渡ると、寺之内通の北側に宝鏡寺門跡の山門が現れる。 話しを宝鏡寺の歴史に進める前に、日本における五山制度の形成と尼五山第1位の景愛寺について見て行くこととする。室町時代に京都五山と鎌倉五山が制定されたことは比較的良く知られている。しかし、それ以前にはどのような格式があったかは明らかではない。元々は中国・南宋の寧宗がインドの5精舎10塔所すなわち天竺五精舎の故事に倣ったのが始まりとされている。鎌倉時代後期日本にも禅宗の普及が始まり、正安元年(1299)鎌倉幕府の執権北条貞時が浄智… ►続きを読む
本法寺
日蓮宗本山 叡昌山 本法寺(ほんぽうじ) 2010年1月17日訪問 本法寺 水火天満宮のある天神公園から、かつての小川の痕跡を求め、小川通を寺之内通まで下り、百々橋 その2、その3、その4の礎石まで来てしまった。今一度、小川通を北に裏千家の今日庵の前まで戻ると、通りの西側に本法寺の山門が現れる。この山門の前には、小川に掛っていた石橋が今も残されている。 本法寺は日蓮宗の本山で、室町時代の日蓮宗の僧侶・日親によって築かれた寺院。その開創の時期や場所については諸説あるようだが、本法寺の公式HPでは、 永享八年(1436)に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされています。その後、永享… ►続きを読む
大応寺
臨済宗相国寺派 金剛山 大応寺(だいおうじ)2010年1月17日訪問 大応寺 妙覺寺の大門を出て上御霊前通を西に進むと堀川通に出る前に扇町児童公園が現れる。次の訪問地の大応寺は、この児童公園の北側に位置する。 大応寺は臨済宗相国寺派、山号は金剛山。正保2年(1645)悲田院が泉涌寺内に移転した跡地に建立されている。悲田院は、仏教の慈悲の思想に基づき貧しい人や孤児を救うために作られた施設である。日本においては、聖徳太子が大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てたのを最初とする伝承がある。ちなみに四箇院とは敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つの施設で構成されている。敬田院は寺院そのものであり… ►続きを読む
妙覺寺
日蓮宗本山 具足山 妙覺寺(みょうかくじ)2010年1月17日訪問 妙覚寺 大門 是より洛中碑の室町小学校の校門より北西の下清蔵口町に向う。この辺りには日蓮宗の寺院がいくつかあるが、その内の妙覺寺を先ず訪れる。 妙覺寺は日蓮宗の本山、山号は具足山で通称北竜華。妙顕寺、立本寺とともに日蓮宗の名刹三具足山の一つ。日像の法孫、竜華院日実が創立。日実は鎌倉時代の日蓮宗の僧で生没年不詳。紀州に生まれ、妙顕寺の大覚に師事。備前及び備中に布教を行う。永和4年(1378)1月18日、弟日成とともに妙顕寺を出て、同年中に四条大宮に妙覺寺を開く。なお寺伝では日像を開山、日実を第4世としている。外護者は日像… ►続きを読む
光照院門跡
光照院門跡(こうしょういんもんぜき)2010年1月17日訪問 光照院門跡(常磐御所) 高松伸設計の織陣Ⅲの斜め前に持明院仙洞御所跡の石碑が建つ。1998年と比較的新しい碑の建立者は光照院門跡 田中澄俊と恵聖院門主 中島真栄となっている。持明院仙洞御所については後ほど記すとし、先ずは現在存在している光照院門跡の歴史について書いてみる。 光照院門跡は浄土宗知恩院派の門跡寺院で常盤御所と称する。開山は後伏見天皇の皇女進子内親王で、光厳天皇・光明天皇の妹宮にあたる。寺伝によれば、宮は建武2年(1335)に生まれたとされている。父である後伏見上皇が崩御されたのが建武3年(1336)とされているの… ►続きを読む
相国寺 その4
臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)その4 2010年1月17日訪問 相国寺 相国寺 その3では、その規模と創建当時の伽藍を中心に書いてきた。この項では江戸中期に発生した天明の大火以降の再建の状況と明治維新の上知令が与えた影響について見て行く。 相国寺は創建以来、数度の火災に見舞われ、その度に再興がなされてきた。特に天明8年(1788)1月30日未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子の町家から出火した天明の大火の被災は深刻なものであった。御所を始め仙洞御所、摂関家の邸宅から京都所司代そして東西両奉行所までもが悉く焼失した上、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰し… ►続きを読む
相国寺 その3
臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)その3 2010年1月17日訪問 相国寺 法堂 相国寺 その2では創建前後の政治的状況を中心に、若き将軍・足利義満と春屋妙葩、義堂周信の関係について見てきた。この項では、相国寺の位置と規模について書いてみる。 まず「古寺巡礼 京都 2 相国寺」(淡交社 1976年刊)の有馬頼底氏著「相国寺とその歴史」を参照する。有馬は久留米藩主有馬家の分家・有馬正頼男爵の次男として昭和8年(1933)東京で生まれている。昭和16年(1941)8歳の時に大分県日田市の岳林寺で得度。昭和30年(1955)相国寺僧堂に入門し、大津櫪堂老師… ►続きを読む
相国寺 その2
臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)その2 2010年1月17日訪問 相国寺 相国寺の塔頭・林光院の墓地にある薩摩藩戦死者の墓について調べたら、その2、その3、その4と続き、思った以上の長編になってしまった。次の目的地も相国寺墓地内にある禁門変長州藩殉難者塔であるので、上立売通から相国寺の境内に入る。相国寺は2008年5月の最初の京都訪問以来となる。もともと観光客に対しての公開が少なく、法堂と方丈が春秋の特別公開時、開山堂及び庭園は秋期、浴室も春期のみの拝観となっている。その春秋の特別公開期間も、それぞれ凡そ2ヶ月間程度なので、1年の内の半分以上は非公… ►続きを読む
閑臥庵
黄檗禅宗 瑞芝山 閑臥庵(かんがあん) 2010年1月17日訪問 閑臥庵 竜宮門 西園寺の山門を出て天寧寺の前を過ぎ、再び寺町通と鞍馬口通が交わるところまで戻る。鞍馬口通を東に曲がれば上善寺そして出雲路鞍馬口に至るが、今度は西に曲がる。通りの北側に閑臥庵の竜宮門が現われる。 閑臥庵は黄檗宗の禅寺で山号は瑞芝山。黄檗宗は日本における三禅宗のうちの一宗派で、隠元隆琦が江戸時代に開いた宇治市の黄檗山萬福寺を本山とする。隠元禅師は中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持を務めていた。当時の中国は明末清初の混乱の真っ只中にあった。禅師は日本からの度重なる招請… ►続きを読む