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南千住 回向院 その7



南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その7 2018年8月12日訪問

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南千住 回向院 橋本左内の墓所

 南千住 回向院 その6では、安政の大獄について安政6年10月7日の処刑以降を見てきた。ここでは安政の大獄の殉難者達の復権の過程を書いていく。
 安政の大獄として執行された処罰は、朝廷と大名及び幕吏に対する者を除けば、次の3回に行われている。第一回は水戸藩関連者に対する安政6年(1859)8月27日の執行。第二回は飯泉喜内、橋本左内、頼三樹三郎等への執行で同年10月7日に行われている。そして最後の執行が同年10月27日、吉田松陰等に対するものであった。
 しかし松陰の斬首が行われてから半年もたたずに、桜田門外の変が生じ大獄を主導した大老・井伊直弼があっけなく暗殺されてしまう。井伊の後を継いだ安藤信正と久世広周は公武合体路線の推進と外交方針としては長州藩士・長井雅楽の航海遠略策を取り入れた。文久2年(1862)1月15日に再び坂下門外の変が生じる。襲われた安藤は負傷したものの命には別状なかったが、政権の基盤は一気に傾き、4月11日に老中を罷免されている。久世も6月2日に罷免、そして長井も帰国謹慎となり6月には免職し、文久3年2月6日(1863)には切腹に追い込まれている。
 文久2年(1862)6月7日、勅使・大原重徳が島津久光と薩摩藩兵を伴い江戸に入る。勅命を以って幕府人事に介入し、7月6日に一橋慶喜を将軍後見職、同9日には松平慶永を政事総裁職に任命させている。同月12日には政事総裁職松平慶永が戌午以降の国事犯者の赦免を主張し、幕議でのこれを容れることを決している。これより殉難者の復権が見直され始める。「維新史料綱要 巻四」文久2年11月28日の条に下記のように記されている。

幕府、朝旨ヲ奉ジテ大赦ノ令ヲ布キ、故水戸藩士安島帯刀信立・同鵜飼吉左衛門知信父子・同茅根伊予之介・故福井藩士橋本左内綱紀・故萩藩士吉田寅次郎矩方・故処士頼三樹八郎等ノ建碑ヲ許シ、更ニ諸藩ニ令シテ国事ニ殉ゼシ者及刑ニ服スル者ヲ録上セシム。処士池内大学治基・元鷹司家家士小林良典元民部権大輔・元三條家家士丹羽正庸元豊前守・同森寺常安元因幡守父子・元青蓮院宮家士伊丹重賢蔵人・元久我家家士春日仲襄元讃岐守・元水戸藩士鮎澤伊大夫國維・元高松藩士長谷川宗右衛門秀驥・元宇和島藩士吉見長左衛門・医宇喜多 一蕙可恵・農世古格太郎延世・僧六物空萬等数十人、逐次釈放セラル。

 以上のように幕府は戌午以来の刑死及び獄死した人々の改葬を認め、未だ刑に服している人々の赦免、そして刑死あるいは獄死した人々を記録に留めるよう各藩に命じている。これを受け水戸藩、長州藩そして越前藩がそれぞれの自藩に関係する人々の改葬を行っている。最初に行動に移したのは水戸藩であった。文久2年11月に水戸藩は桜田門外の変を含む人々の遺骸を31の御用長持を用いて回向院から運び出している。このことに関しては後に触れる予定である桜田門外の変に関係した人々のところで行うこととする。
 次いで長州藩が、文久3年(1863)正月に吉田松陰等を現在の世田谷区若林へ改葬している。「吉田松陰全集 第十巻」(大和書房 2012年新装版刊)の葬祭関係文書に所収されている「松陰二十一回猛士一件に付き諸雑費入用録(略)」に当日の様子が詳しく説明されている。この文書は、安政6年10月29日に松陰の遺骸を回向院に埋葬した際に飯田正伯と尾寺新之丞等が建立した墓碑が幕府によって撤去されたことから書き始めている。続いて文久2年(1862)8月、勅使・大原重徳に次いで江戸に下った毛利定広が、戊午以来国事奔走し罪を得た者の赦免と死者の罪名を削ることの勅諚を幕府に伝えたことを述べている。外様藩のしかも世子が伝達するという異例の扱いであったにも拘らず、幕府はこれを受け入れている。そして久坂玄瑞等が松陰の墓域に久坂の書による墓碑を再び建立している。これが回向院に残る墓碑としているが、現在の回向院にある松陰二十一回猛士墓は昭和18年(1943)9月20日に皇風会東京支部が建立したものである。上記の文書が作成された後に再建されたのであろう。「小塚原は刑死者を埋むる穢汚の地にして、忠烈の骨を安んずべきにあらざるを以て改葬の議起り」、遂に藩の許可を得て荏原郡若林村の大夫山に移すことに決定する。

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南千住 回向院 松陰二十一回猛士墓 C-19 と 御名刺入 C-18
中央:吉田松陰の墓 右に頼三樹三郎、成就院信海、小林良典の墓

 文久3年正月5日、高杉晋作、伊藤利輔、山尾庸三、白井小助、山根武人等が吉田松陰と松陰の墓に接するところの頼三樹三郎、小林良典の墳墓を改葬している。前日の夜に山尾と白井が回向院に向かい予め準備をした上で、翌日早朝に皆会して三墳を掘り遺骨を新棺に収める。墳墓は「忠死の血痕を印した地」ということで、墓碑を残している。高杉が騎馬で先導し、門人故旧が柩に従い行列する。一行が上野山下の三枚橋の中橋を渡ろうとしたところ、橋守が出て中橋は将軍が東叡山参拝の通路であり、諸侯以下は左右の橋を渡る決まりだと云う。高杉は鞭を挙げ、「我が輩長州の同志 勅旨を遵奉して忠節の士の遺骨を葬るなり、途に此の橋を過ぐるも何ぞ不可あらんや」と辞色励しければ、吏卒は恐れ逃れ隠れたと記している。この上野の三枚橋とは不忍池の西南畔から東へ流れ出でる忍川に架けられた三つの橋で、現在の上野広小路のABABの前あたりにあったようだ。

既にして大夫山に達し、松杉蔚茂し深秀幽静なる浄区に穸して長く忠魂を鎮する処となし、瘞埋の儀全く終りたるは黄昏の頃なりき。

 以上が吉田松陰らの改葬であった。この後、来原良蔵の墓を芝青松寺より移し、同年11月には笠原半九郎が友人の福原乙之進を若林に葬っている。
 元治元年(1864)7月の甲子戦争の後、長州藩江戸藩邸は幕府によって没収される。京都藩邸の職員は戦乱に紛れ逃走、大阪藩邸は話し合いにより退去帰国することに成功している。しかし江戸藩邸では、7月26日に全員が拘禁され諸藩の江戸屋敷に預けられ、苛酷な処遇であったため病死者が続出している。明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)では、「長州藩江戸邸没収(元治元年七月)」という見出しの元に53名の氏名が記されている。甲子戦争の敗戦により、若林の大夫山も火が掛けられ、五墳が破却されている。
 明治元年(1868)、木戸孝允等の手により修復が行われている。また、綿貫治良助の埋葬、芝清岸院より中谷正亮の改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑の建立が成されている。 明治2年(1869)には整武隊長官が鳥居より墓前に至る道に石を敷き、墓域の修繕は完成する。
 なお、この地に社が建てられたのは、明治15年(1882)11月21日のことである。

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南千住 回向院 橋本左内の墓所
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南千住 回向院 橋本左内墓所標柱 B-15

 最後に越前藩の改葬についてであるが、その前に安政6年10月7日に斬首となった橋本左内の埋葬についてまだ書いていないので、こちらから見ていこう。南千住 回向院 その4でも触れたように、吉田松陰が回向院にどのように葬られたかについては、「吉田松陰全集 第十巻」の葬祭関係文書に「埋葬報告書」や「松陰先生埋葬并改葬及神社の創建」が残されているので、その様子が手に取るように分る。橋本左内の埋葬がどのようなものであったかについては、「続日本史籍協会叢書 橋本景岳全集」(東京大学出版会 1939年復刻)の巻三・第十一附録 に「五 先生没後の追念」という章がある。ここに左内が亡くなった後の出来事が僅かに残されている。その最初の一文が下記の通りである。

○安政六年十月七日 先生就刑の後長谷部弘連等密かに遺骸を請ひ受け、之を南千住小塚原回向院の墓地に埋葬し「橋本左内墓」の墓石を建てたが獏吏之を禁じた為「藜園墓」の墓石を建てた。藜園は先生の別号である。

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南千住 回向院 藜園墓 B-14
橋本左内の墓
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南千住 回向院 橋本岳先生の生涯と墓所の由来

 これに対して「人物叢書 橋本左内」(吉川弘文堂 1962年刊)ではもう少し詳細に記述されている。刑が執行されたのが10月7日の四つ半時(午前11時頃)で、同日の夕刻に市村乙助・長谷部弘連・堤五市郎等が遺骸を得るために刑吏の山田朝右衛門に依頼したが、この日は許されなかったとある。十日の朝、ようやく小塚原で内々に取り収めることに成功している。左内の遺骸の様子は、「頭ハ生けるがごとき面色ニて実に寂々たる光景、尤上下を着させ、早桶へ納メ、(中略)下帯一ツ貰ひ候趣、少々血付キこれあり」ということであった。
 前記の「橋本景岳全集」では10月7日の当日に回向院墓地に埋葬し、当日の内に墓石を建立したように読める。また同書に所収されている「明治廿六年癸巳十月景岳先生旧墓標藜園墓小塚原旧葬処建立記」も同じ書き方になっている。なお「景岳会小史」(景岳会編 1935年刊)の記述も基本的に「橋本景岳全集」に倣っている。
 文久2年11月28日の幕府の赦免を受け、越前藩は翌文久3年(1863)5月、左内の墓を福井の橋本家の墓に移している。水戸藩や長州藩と比べるとかなり遅れたという感が残る。
 「続日本史籍協会叢書 橋本景岳全集」の巻三・第十一附録 に「五 先生没後の追念」では下記のように記している。

文久三年五月 春嶽公の内命を以て遺骸を郷里に移送し、橋本家の菩提所福井市橋南祐海寺善慶寺の墓地に改葬した藜園墓も同時に移送された。

 「景岳会小史」には左内の遺骸を永く江戸に留めるのは忍びないと春嶽公が思い、橋本家に内命して改葬することとなったようだ。遺骨を瓦棺に収め更に長持に納めて藜園墓の墓石と共に郷里に送られた。明治10年(1877)には福井の善慶寺の墓地に景岳先生之墓の墓碑が建立され、回向院から運んだ藜園墓は傍らに移され保存されることとなった。
 明治18年(1885)11月には朋友門生等が相図り三條実美篆額重野安繹撰文の碑を回向院に建立している。これは現在も左内の套堂の右手に建つ景岳先生紀念碑である。この8年後に福井に送られた藜園墓が再び回向院に戻ってくる。これを契機に回向院が橋本左内の東京における墓前祭の舞台となっていく。套堂建設から現在までの経緯についてはまた別の項で記すこととする。

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南千住 回向院 橋本景岳之碑B-13

「南千住 回向院 その7」 の地図


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南千住 回向院 その7 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
  回向院 35.7322 139.7978
01   泪橋 35.729 139.7994
02   延命寺 35.7316 139.7978
03   円通寺 35.734 139.7928
04   素戔雄神社 35.7371 139.796
05   荒川ふるさと文化館 35.7375 139.7954
06   千住大橋 35.7393 139.7973
07   千住宿 35.7505 139.8028
08   奥の細道矢立初めの地 荒川区 35.7331 139.7985
09   奥の細道矢立初めの地 足立区 35.7412 139.7985

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