設定変更について その3
設定変更について その3 2015年6月19日登録 Nikon F4 + COOLSCAN Ⅴ ED 設定変更についてでは、先ず徘徊の記憶のフォーマット変更のために行ったCSSファイルの編集について書きました。また今まで訪問した場所の写真を整理し、それを告知するための徘徊の蔵書棚を開設しました。また徘徊の蔵書棚では、写真を掲載したブログのリストを付けました。関連する項目の検索にも役に立つと思います。今回の変更で、なるべく早く撮影済みの写真をDBに登録し、撮影場所のタグを付けるように改めました。今まではブログに掲載する際に、かなり時間の経過した写真に撮影場所のタグを付けてきました。当然… ►続きを読む
設定変更について その2
設定変更について その2 2015年6月17日登録 徘徊の記憶 掲載写真を大きくした 設定変更についてで書きましたように、徘徊の記憶のデザイン変更と新たな徘徊の蔵書棚の立ち上げまでは比較的容易に終了しました。しかしウェブリブログの提供するImport機能が、単にエントリーを追加するものであり、既に存在するエントリーの上書きを行うことができないことが明らかになりました。そこで徘徊の記憶の表示領域の拡張に伴う掲載写真や地図の横幅変更は、一つ一つ手作業で行わなければなりませんでした。2015年6月現在で、695エントリーがありましたので、全部修正するのにおよそ2週間かかりました。 今回の設定… ►続きを読む
設定変更について
設定変更について 2015年6月17日登録 徘徊の備忘録 TopPage 2015年3月から3ヶ月間、本ブログの表示設定等について調整を行ってきましたが、ここに一応の完了を迎えましたので報告させていただきます。今回の調整作業を行う発端はブログの更新作業が大幅に遅れ始めていることにあります。京都御苑 猿ヶ辻 その3は、2015年3月に書いたものですが、元々は2010年1月17日に京都御苑を訪れた際に撮影した写真をもとに、記憶を辿りながら綴っております。既にブログへの更新が訪問から5年以上も隔たってしまいました。本ブログの右上に「地図上への表示」という訪問した場所を地図上に表示する機能があ… ►続きを読む
京都御苑 猿ヶ辻 その3
京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻 京都御苑 猿ヶ辻とその2に続き、襲撃犯が田中雄平に決する過程と薩摩藩に下された処罰、そして八月十八日の政変へと続く薩摩藩による復権活動について見て行く。 長州及び土佐の武市派は、この猿ヶ辻の変を上手く利用し京都における薩摩の勢いを削ぐ事に成功した。その本当の襲撃犯が田中雄平であっても又はなくても、朝廷における薩摩の信頼を大いに損なわせることに成功したからである。その後の経緯については「七年史」が詳しい。5月27日に伝奏・坊城俊政は、会津藩主・松平容保、米沢藩主・上杉斎憲、広島藩の浅野茂勲… ►続きを読む
京都御苑 猿ヶ辻 その2
京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻 京都御苑 猿ヶ辻に続き、文久3年(1863)5月20日にこの付近で起きた暗殺事件の顛末を見てゆく。 姉小路公知襲撃の翌日の「中山忠能日記」(「日本史籍叢書 中山忠能日記4」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻)))には下記のように、九門警備が強化されたことが記されている。 清和門院 土州 堺町門 長州蛤門 水戸 寺町門 肥後乾門 薩州 下立売門 仙台今出川門 備前 中立売門 因州石薬師門 阿州昨夜朔平門辺姉小路少将様へ刃傷之義有之不容易候間右九門口今晩ヨリ… ►続きを読む
京都御苑 猿ヶ辻
京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻 京都御所の建春門前にある学習院跡から苑路に沿って北に進むと、京都迎賓館の入口脇に橋本邸跡の木標が建つ。慶応4年(1868)に刊行された「改正京町御絵図細見大成」(「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊))を見ると御所東側の公家町に南北通が3本存在したことが分かる。つまり御所の外周と現在の寺町通との間には西側から中筋、二階通、梨木通があった。さらに中筋と御所との間には北側から、野々宮と清閑寺、姉小路、持明院、日野西、橋本、七条、修学所、白川、正親町の邸宅が並ぶ。京都御所 その5で少し触… ►続きを読む
京都御苑 学習院跡
京都御苑 学習院跡(きょうとぎょえん がくしゅういんあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 学習院跡 京都御所の建春門(日御門)の東側に学習院跡の木標が建っている。江戸時代末期に公家の子弟のための教育機関として開設された学習院学問所がかつてこの地にあったことを示している。7世紀後半の律令制のもとに大学寮が作られたている。しかし治承元年(1177)の安元の大火(太郎焼)で焼失すると以降再建されることは無かった。江戸時代後期に閑院宮出身の光格天皇が即位すると、朝廷の儀式の復旧に取り組み石清水社や賀茂社の臨時祭の復活を果たしている。さらに天皇は平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の… ►続きを読む
京都御苑 一条邸跡
京都御苑 一条邸跡(きょうとぎょえん いちじょうていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 一条邸跡 京都御所の西北にある皇后門の西側に一条邸跡の木標が建つ。文久3年(1863)に作成された内裏図には、乾御門を挟んで近衛邸の南西の地に、一条邸が近衛邸とほぼ同じ大きさで描かれている。天保年間(1830~44)の五摂家の石高は、九条家3000石、近衛家2860石、一条家2044石、二条家1708石、鷹司家1500石であった。さらに時代の下った慶応4年(1868)の「改正京町御絵図細見大成」から、近衛家2860石余、一条家が2044石余、九条家が2043石、二条家1708石余、鷹司家は1… ►続きを読む
京都御苑 近衛邸跡 その5
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その5 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡 月照に続いては近衛家の老女で有志達と堂上方の調整役を果たした津崎矩子、すなわち村岡局について見て行く。 梅田雲浜が西郷吉之助と伊地知正治に送った安政5年(1858)2月29日と考えられている書簡(「西郷隆盛全集 第五巻」(大和書房 1979年刊)の三)に近衛家の老女・津崎矩子村岡が出てくる。 陽明家は御手を廻され候や。彼の家中大夫皆愚物のよし、老女村岡と申す婆これあり、此の人物欲は深く候得共、理非の能く分かり候器量者にて、女丈夫也。陽明家の清少納言と申し、此の者の事をば、左府公能… ►続きを読む
京都御苑 近衛邸跡 その4
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡 京都御苑 近衛邸跡 その3では、幕末の近衛家の当主である近衛忠煕の経歴と戊午の密勅の降下後から安政の大獄が始まるまでの間に近衛家が関わった政治活動を薩摩藩士・西郷隆盛を中心に書いてみた。ここからは月照と津崎村岡の活動と、近衛忠煕の落飾後のことについて見て行く。 月照は文化10年(1813)大阪の町医者・玉井宗江の子として生まれている。俗名は宗久。父に伴われ叔父の蔵海が住持する成就院に文政8年(1825)と翌9年(1826)に訪れている。そして文政10年(1827)1月14日に上京… ►続きを読む
京都御苑 近衛邸跡 その3
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡 幕末期に近衛家の当主となったのは第27代の近衛忠煕である。文化5年(1808)に左大臣・近衛基前の子として生まれている。鷹司政通が寛政元年(1789)、九条尚忠が寛政10年(1798)、三条実萬が享和2年(1802)、鷹司輔煕が文化4年(1807)、青蓮院宮が文政7年(1824)、そして孝明天皇が天保2年(1831)に生まれている。つまり忠煕は鷹司政通と九条尚忠の次の世代にあたり、三条実萬や鷹司輔煕とはほぼ同じ頃に生まれ、青蓮院宮と孝明天皇よりは一回り上の世代にあたる。 忠煕は文… ►続きを読む
京都御苑 近衛邸跡 その2
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡 京都御苑 近衛邸では、平安時代に造営された近衛室町の近衛殿から、上立売新町の近衛殿桜御所、本能寺の変の戦場となった二条新造御所の北隣の近衛前久邸、そして現在の京都御苑東北角にある今出川・近衛邸跡に至る変遷と近衛基実から始まる初期の近衛家について書いてみた。この項では室町時代から戦国時代に至る近衛家の当主達について見てみる。 近衛家第14代当主となった近衛尚通は文明4年(1472)に近衛政家の子として生まれている。文明14年(1482)に元服、当時の室町幕府第9代将軍・足利義尚より… ►続きを読む
京都御苑 近衛邸跡
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡 近衛家の幕末の状況を記す前に、九條家に次ぐ五摂家の一つである近衛家の歴史を見て行く。 九条家が藤原北家九条流嫡流で藤原忠通の六男・九条兼実を祖とするのに対して、近衛家は四男の近衛基実が祖となっている。保元3年(1158)近衛基実は藤原忠通に次いで藤氏長者となっているが、これが藤原氏分家出身で最初の長者となるため、近衛家が五摂家の筆頭という扱いになっているようだ。ちなみに九条兼実が長者となるのは文治2年(1186)のことで、基実との間には松殿基房 、近衛基通、松殿師家の名が並ぶ。基実以降… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その7
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その7 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡 厳島神社 長野主膳と大老・井伊直弼に共通する考え方は、現状が自らの望み通りになっていない裏には敵対する勢力の陰謀が存在するというものであろう。この敵対勢力を排除するには力の行使が必要であり、それを正当化するために関連する風聞を積極的に集めるという手法であった。井伊大老は長野主膳がもたらす京状報告を以って、関東において処断を下すことになっていたが、長野の上京以前から一連の騒動の原因は水戸藩にあり、水戸の入説に従って三公と三条前内大臣そして青蓮院宮が動いているというシナリオを用意し… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その6
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その6 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡九条池 2008年5月17日撮影 九條邸跡 その2から、その5までを使い、老中・堀田正睦の条約勅許活動から条約締結、そして戊午の密勅の降下の経緯を書いてみた。この安政5年(1858)1月から8月までの凡そ8ヶ月間の中でも、特に4月23日の井伊直弼の大老就任、6月25日の紀州藩主徳川慶福への継嗣決定、そして7月6日の将軍・徳川家定の薨去が大きな変更点となった。それに伴い、関東の政治手法も阿部・堀田時代から大きく変わることとなった。井伊直弼にとっての誤算は、日米通商条約の締結が想像… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その5
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その5 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡高倉橋と九条池 2008年5月17日撮影 安政5年(1858)2月5日に着京した老中・堀田正睦は、ほとんど何も得ることなく、4月5日に京を去っている。幕府の要請を受けて条約勅許についての落とし所を探っていた関白・九条尚忠も孝明天皇の開国拒絶の強い意思のもとには、何をすることも叶わなかった。条約勅許については、主上と青蓮院宮、鷹司太閤、近衛左大臣、鷹司右大臣そして三条前内大臣の完全な勝利であった。しかし世子問題では一橋慶喜の名を出すこともなく、ただ張紙に「年長の人を以」の六字を加… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その4
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡拾翠亭 2008年5月17日撮影 安政5年(1858)3月、関白・九条尚忠は老中・堀田正睦に対する勅答草案(第一案)を作成し、3月11日を以って宮中上層部の了承を得た。後は14日に堀田に渡す段取りとなっていた。勅答草案の内容は、既に京都御苑 九條邸跡 その3で書いたように、「何共御返答之被レ遊方無レ之、此上ハ於二関東一可レ有二御勘考一様御頼被レ遊度候事」であり、幕府が望んだとおりの一任であった。 ほぼ決したと思われた3月12日、廷臣八十八卿列参事件が発生する。つまり政治的発言力… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その3
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條池と拾翠亭 文政6年(1823)以来30余年関白職にあった鷹司政通も、ついに安政3年(1856)8月8日、左大臣・九条尚忠に明け渡している。それでも内覧の権限を引き続き保持し、太閤の称号を手に入れたことによって、政通にとって大きな権勢の衰退はなかった。しかし安政5年(1858)正月の条約勅許に至り、孝明天皇と決定的な外交方針の違いが明らかになる。2月22日の久しぶりの出仕で自らの考えを主張し、一時は拒絶一色の宮中を幕府一任に覆すも、主上の方針を変更させるには到らなかった。この日の意見… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その2
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡 京都御苑 九條邸跡では、五摂家の成り立ちから幕末期の九条家の当主となった九条尚忠までを書いてきた。ここでは安政5年(1859)正月に行われた条約勅許交渉までの政治の動向について見て行く。 九条尚忠は寛政10年(1798)に左大臣・二条治孝の子として生まれている。実兄の権大納言・九条輔嗣に養育されたが、その輔嗣が文化4年(1807)に24歳で薨去しているので、それ程長い期間ではなかったようだ。 この当時宮中では、文政6年(1823)の就任以来、鷹司政通が関白職にあった。5年から長… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡と高倉橋 京都御苑の各所には、その場所の歴史を説明する木標や駒札が設置されている。例えば橋本邸跡は和宮親子親王、中山邸跡も明治天皇が生まれ育った地であるので、木標が建てられているのだろう。五摂家に次ぐ九清華家で木標が建てられているのは、どうやら西園寺邸跡だけのようだ。これは西園寺公望が後に総理大臣になったからなのか?駒札からは以下のようなことが分かる。西園寺家が琵琶の宗家であること、現在の金閣寺の地に別荘北山堂を持ち妙音堂が既に建てられていたこと、この地へは明和6年(1769)に引っ越… ►続きを読む