徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

京都御苑 清水谷家の椋 その4

 

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋 2014年10月8日撮影  京都御苑 清水谷家の椋 その3では、公家門前の戦いに薩摩藩が参戦したことにより形勢が一変し、御所内から長州兵を追い出した上で、圧倒的な火力を以って中立売烏丸通に詰めていた国司軍の後備を掃討している。この項では来嶋又兵衛の戦いぶりとその最期について書いてみる。 国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製  先ずは末松謙澄著の「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))から見て行く。末松は既に何回か触れ… ►続きを読む

 

京都御苑 清水谷家の椋 その3

 

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋  京都御苑 清水谷家の椋 その2で記したように、北から公家門の支援に駆け付けたのは乾御門の守衛についていた薩摩兵であった。この模様は桑名藩の加太邦憲が「維新史料編纂会講演速記録」(「続日本史籍協会叢書 維新史料編纂会講演速記録 一」(東京大学出版会 1911年発行 1977年覆刻))で以下のように述べている。 此時南方三丁程離れて蛤門の戦争が始まりましたので、其砲撃が頻に聞えました。さうしますと公卿門前に居りました諸藩の兵が其音に驚いて皆崩れ立ち、北へ遁れて一橋兵を圧迫… ►続きを読む

 

京都御苑 清水谷家の椋 その2

 

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋 駒札  京都御苑 清水谷家の椋では、清水谷家がこの地に移った時期の推定と椋の木の位置に付いて考えてみた。清水谷家が賀陽宮邸跡から御所の築地南西角に引っ越してきたのは、およそ宝暦13年(1763)から明和6年(1769)の頃と考えた。元の邸宅の敷地に姉小路定子の准后御殿が造営されたための配置替えであったと思われる。この後、天明8年1月30日(1788)に団栗焼けとも呼ばれる天明の大火が発生している。鴨川東側の宮川町団栗辻子で発生した火災は鴨川を越えて河原町、木屋町を焼き、… ►続きを読む

 

京都御苑 清水谷家の椋

 

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく) 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋  京都御苑 蛤御門で来嶋隊の築地内闖入までを見てきた。この清水谷家の椋の項では守衛側の反撃から国司軍の崩壊までを追って行く。 国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製  現在、蛤御門より御苑内に入り御所方向を眺めると御所の先に仙洞御所の築地の北西角と東山の山並みが見える。この眺めを遮るものは御所の南西角にある巨木のみである。文久3年(1863)に作られた「内裏図」を見ると、このあたりに清水谷家邸があったことが分かる。樹齢300年と云われる椋の木は、幕末でも150年近く… ►続きを読む

 

京都御苑 蛤御門

 

京都御苑 蛤御門(きょうとぎょえん はまぐりごもん) 2010年1月17日訪問 京都御苑 蛤御門  京都御苑 下立売御門と その2を使って、国司隊と児玉隊の戦闘を見てきた。中立売御門を攻めた国司隊については、山川浩の「京都守護職始末」(東洋文庫 「京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1966年刊))でも「中立売門の筑前兵を撃ち破り、門内に闖入してきた。また、ほかの一手は、中立売門の南にある烏丸邸の裡門から邸内に闖入し、それから日野邸の正門を押しひらき、唐門を守衛していたわが藩の内藤信節の軍に砲撃をしかけてきた。」という記述があることから、中立売御門を破って門内に侵入したと考… ►続きを読む

 

京都御苑 下立売御門 その2

 

京都御苑 下立売御門(きょうとぎょえん しもだちうりごもん)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 下立売御門  京都御苑 下立売御門で「京都守護職始末」の一文を引用したが、その中に出てくる「新在家の砲声」を明らかにするため、次に下立売門周辺での戦闘状況に目を移す。「元治夢物語」では長州兵を待ち受ける守衛とこれに攻撃をかける児玉・来嶋隊を以下の用に描写している。 然る所に長州方、次第々々に御所近く進み来るよし、頻りに註進有ければ、「心得たり」と下立売御門までの間、築地の陰に鉄炮打手の者二、三十人宛まばらに埋伏させ、長州賊をそしと待かけたり。長州方には斯とも知らず、近々と寄かかれば、中… ►続きを読む

 

京都御苑 下立売御門

 

京都御苑 下立売御門(きょうとぎょえん しもだちうりごもん) 2010年1月17日訪問 京都御苑 下立売御門  京都御苑 中立売御門で書いたように、元治元年7月19日丑の刻(午前2時頃)に陣触れが出され、国司軍は1時間後の午前3時頃から進軍を開始したと考えられている。どの道を使用して洛中に入ったかは明らかでないが、現在のところ一条戻橋で国司信濃と来嶋又兵衛の隊が分かれたとする説を採用する書籍がやや多いように思える。天龍寺の総門から御所の蛤御門まで直線距離で凡そ7.5kmなので2時間程度の行軍で到着したと考えてよいだろう。 堀川通以東の国司軍の御所に至る進軍経路について見て行く。馬屋原二郎… ►続きを読む

 

京都御苑 中立売御門

 

京都御苑 中立売御門(きょうとぎょえん なかだちうりごもん) 2010年1月17日訪問 京都御苑 中立売御門  京都御苑 凝華洞跡 その5では朝議が長州藩討伐に決するまでの過程と甲子戦争の開戦となった福原越後軍の伏見街道での交戦状況を見てきた。福原軍は長州藩正規兵が主力であるため、開戦前から戦闘能力に疑問が持たれていた。そのため天龍寺に駐屯していた太田市之進、松本鼎三、阿武彦助等を急遽福原軍の梃入れとして加えている。その不安は見事に的中し、伏見から進撃を始めた福原軍はついに洛中に入ることもできずに包囲され消耗し、そして京外に追い落とされている。主将の福原越後は緒戦で狙撃に遭い、伏見へ下が… ►続きを読む

 

京都御苑 凝華洞跡 その5

 

京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その5 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡 2014年10月8日撮影  京都御苑 凝華洞跡 その4では甲子戦争前夜の薩摩藩の動向について見て来た。既に薩摩にとって幕府の存在は無きも同然であり、朝廷を守護することこそが大義であり行動原則でもあった。このあたりが幕府と対立構造の上に存在意義を求めた長州藩とは思考自体が異なっていたと云ってもよいだろう。この項では朝議が長州藩討伐に決する過程から甲子戦争の開戦となった福原越後軍の交戦状況までを見ていく。 「朝彦親王日記」(「日本史籍協会叢書 朝彦親王日記 一」(東京大学出版会 19… ►続きを読む

 

京都御苑 凝華洞跡 その4

 

京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡 建礼門側からの眺め  京都御苑 凝華洞跡 その3では元治元年(1864)7月17日までの緊迫した状況を書いてきた。この項では薩摩藩の動向について見て行く。 朝廷内の動きは既に書いてきたように、長州藩を同情する者、あるいは武力衝突回避を望む者が下級公家を中心に増えてきた。これに対して諸藩はどのように捉えていただろうか?まず京都守護職の会津藩と京都所司代の桑名藩は長州藩討伐すべしとの強硬論派であった。これは八月十八日以降の政治情勢を継続し、なおかつ京都の治安を維持する役割を担っている… ►続きを読む

 

京都御苑 凝華洞跡 その3

 

京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡の駒札  京都御苑 凝華洞跡 その2では元治元年(1864)春から福原、国司、益田三家老の出陣までを書いてきた。この項では甲子戦争の開戦に至る経緯を見ていく。 長州藩の世論が進発へ傾いて行ったことについて、元よりの賛成派であった来嶋又兵衛や池田屋事件といった突発的な衝突を除けば、京都で政情を観てきた久坂玄瑞の意見陳述が最終段階での後押しとなったと云ってもよいだろう。もともと長州藩は根来上総や井原主計の雪冤運動と共に、世子が率兵して上京するという2つの方向で、朝廷政治においての自らの… ►続きを読む

 

京都御苑 凝華洞跡 その2

 

京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡  京都御苑 凝華洞跡では、文久3年(1863)の八月十八日の政変以降の政治体制の変化と長州藩の活動、特に雪冤運動について見て行った。時間軸では文久3年8月から元治元年(1864)3月頃までの8か月間に当たる。この項では甲子戦争に至る残りの4か月間の動きについて書いて行く。ほとんど凝華洞跡とは関係のないことであるが、ここで記しておかないと次の甲子戦争に繋がって行かないので、もう少しお付き合いをお願いいたします。 奉勅始末記を朝廷に奉ったものの入京を拒絶された井原主計は、朝廷からの帰… ►続きを読む

 

京都御苑 凝華洞跡

 

京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡  京都御苑 猿ヶ辻から京都御苑 堺町御門 その5までを使い文久2年(1862)後半から文久3年(1863)の八月十八日の政変までを見てきた。政変直前には、急進派公家が尊攘派浪士の勢いを借り朝廷政治を自らの望むように動かすことができる体制をほぼ完成さていた。原口清氏は「文久三年八月十八日政変に関する一考察」(1992年発表 「原口清著作集1 幕末中央政局の動向」(岩田書院 2007年刊)所収)で、孝明天皇こそが八月十八日の政変で最も重要な役割を果たしたとしている。急進派公家の勢いを止める… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門 その5

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その5 京都御苑 堺町御門 内裏圖1889年製 より国際日本文化研究センター  京都御苑 堺町御門 その3では、文久2年(1862)12月9日に制定された国事御用掛と翌文久3年(1863)2月13日の国事参政と国事寄人の顔ぶれを見ながら、急進派の躍進を記してきた。また、京都御苑 堺町御門 その4で、急進派の主張する西国鎮撫使と御親征に対する公武一和派及び穏健派の対応について見てきた。そして8月13日から始まる八月十八日の政変の準備状況と共に、この政変を企画した人物についていくつかの論文を参照しながら考えてみた。ここでは8月13日から… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門 その4

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門 葵祭 2008年5月15日撮影  京都御苑 堺町御門 その2でも触れたように、真木和泉の入京が6月8日で、同月16日に東山の翠紅館で行われた会で、「五事献策」の基となる考えを披露したとされている。そして6月末頃から天皇の攘夷親征を望む声が高まって行き、7月初旬には朝廷内で攘夷親征論が三条実美等の急進派公家によって唱えられている。宇高浩著の「真木和泉守」(菊竹金文堂 1934年刊)によると、真木は6月29日に学習院出仕を命じられ、同日に「五事献策」を国事参政・豊岡随資に提出している… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門 その3

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門から堺町通を眺める  京都御苑 猿ヶ辻から その2、その3 そして その4までを使い、文久3年(1853)5月20日に発生した姉小路暗殺事件とその捜査の推移について書いてきた。この事件を理解する上で、攘夷決行期日に設定されていた5月10日から僅かの日の内に発生したということを忘れてはならないだろう。この暗殺事件の原因を長州藩の攘夷に求めることはできなくても、事件の推移は当時の政局を有利に運ぼうとする勢力に、大いに利用されたことは確かである。実行犯の一人と目されている田中雄平は、捕縛… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門 その2

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門の駒札  京都御苑 堺町御門では、姉小路卿殺害から文久3年6月末までの薩摩藩の情勢と中川宮の窮状について見てきた。この後に発生する八月十八日の政変まで推移をこの項で書いて行く。 姉小路暗殺に続く急進派の攻勢は単に暗殺犯の究明に留まらず、即今破約・攘夷実施に繋がって行った。この暗殺事件より10日前の文久3年(1863)5月10日は攘夷実行期日であり、長州藩が馬関海峡を封鎖し、通過する艦船に砲撃を実施している。また、同7月2日から4日にかけては生麦事件についての薩英間の交渉が決裂し鹿児… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門  堺町御門はかつての公家町を守る九門のひとつで、現在の京都御苑の南側、丸太町通に面して設けられた門である。寺町通と烏丸通の中間に位置する南北路、堺町通の突き当りに御門がある。葵祭や時代祭が御苑から出発する際に潜って行く門としても有名だが、地図で確認すると御所の建礼門の軸線上には御門はない。そのため祭りの隊列は九条池の手前で東に折れて堺町御門に至る。 幕末に於いては、現在のように御苑の入口ではなく西の九条家と東の鷹司家の間を分ける道の中間にあった。 世の中は欲と忠との堺町  東はあ… ►続きを読む

 

京都御苑 猿ヶ辻 その4

 

京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻  京都御苑 猿ヶ辻 その3の最後で触れたように、6月11日に薩摩藩士の九門出入が自由となっている。町田明広氏は「島津久光=幕末政治の焦点」(講談社選書メチエ 2009年刊)で、薩摩藩の姉小路暗殺に関する嫌疑が冤罪として氷解したためとしている。その理由として、侍従・滋野井公寿と大夫・西四辻公業が姉小路暗殺に関与していたことを上げている。 滋野井は羽林家廷臣で天保14年(1843)、西四辻も羽林家廷臣の天保9年(1838)生まれで、2人とも即今破約攘夷派の若い廷臣である。広沢安任の「鞅掌録」(… ►続きを読む

 

設定変更について その4

 

設定変更について その4 2015年6月19日登録 FileMaker PhotoDBの操作画面  設定変更について その3では、写真の撮影方法からフィルムのデジタル化で終わってしまいました。ここではデジタル化された画像ファイルの管理方法について書いてみたいと思います。 写真を撮影するのは楽しいけれど、これを整理しなければならいと考えると、急に気が重くなるのは私だけでしょうか?撮影が終わったら、なるべく早くフラッシュ・メモリーからPCのハードディスクに複写します。フラッシュ・メモリーが破損したら、撮影したものが全て失われるからです。PCのハードディスクは多重にバックアップを設定しているの… ►続きを読む

 
 

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