徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

伏水街道の橋

 

伏水街道の橋 (ふしみかいどう の はし)  2008/05/10訪問 伏水街道第三橋 東福寺中門前  東山山麓から流れ出て鴨川にそそぐ河川が伏見街道に交差する箇所に4本の橋が架けられ、北から一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋、四ノ橋と呼ばれていた。現在、一ノ橋と二ノ橋の川は暗渠となり元の橋の位置と異なった場所に親柱が保存されている。三ノ橋と四ノ橋は伏見街道の橋として使用されている。いずれの橋の親柱にも伏見街道ではなく“伏水街道”とある。  JRと京阪電鉄の東福寺駅より200m北、現在の本町12丁目にある清涼山寶寿寺の北側を一の橋川は流れていたようだ。泉涌寺より東大路通を越え大谷学園大谷高等学校の南… ►続きを読む

 

伏見街道

 

伏見街道 (ふしみかいどう)  2008/05/10訪問 伏見街道の町並み 玉屋  伏見街道は五条と伏見を結ぶ街道。伏見城を築いた豊臣秀吉が天正年間(1573~1593)あるいは文禄年間(1593~1596)に開いたといわれている。さらに江戸時代に入ると伏見は大阪につながる交通の要衝となり、京と伏見の間の物資の運搬路が必要となり、西側に並行する竹田街道や高瀬川水路が開かれた。沿道には東福寺や伏見稲荷大社など名所も多く、旅人や観光客の往来は絶えない。 京と伏見をつなぐ街道というわりには道幅も細く、地域の生活道路として使用されるのがやっとであり、観光客を乗せたタクシーが入ってくるとすぐに渋滞… ►続きを読む

 

伏見稲荷大社

 

伏見稲荷大社 (ふしみいなりたいしゃ)  2008/05/10訪問 伏見稲荷大社 外拝殿より見た楼門  お庭を拝観させていただいたことに御礼し大橋家を後にし伏見街道へ出る。あらためて伏見稲荷大社の表参道から第一鳥居そして第二鳥居をくぐると豊臣秀吉が寄進したと言われている楼門が現れる。楼門の前には阿吽の狛犬ではなく二体の狐の像が設置されている。 伏見稲荷大社 楼門前左側の狐像 伏見稲荷大社 楼門奥の外拝殿 伏見稲荷大社 本殿  伏見稲荷大社は全国約4万社の稲荷大神を祀る稲荷神社の総本宮とされています。稲荷大神(お稲荷さん)として信仰を集める宇迦之御魂大神(うかのみたまのお… ►続きを読む

 

大橋家庭園 苔涼庭

 

大橋家庭園 苔涼庭 (おおはしけていえん たいりょうてい)  2008/05/10訪問 大橋家庭園 苔涼庭  九條陵より再び東福寺の勅使門 六波羅門の前を通り、そし南門をくぐり伏見街道に出て、伏見稲荷大社を目指し南下する。伏見稲荷郵便局を過ぎると左手に鳥居が見える。京阪伏見稲荷駅から続く裏参道である。左に曲がり裏参道へ入っていくと先は二股に分かれている。右側は伏見稲荷大社へ続く道、左は住宅地の中へて続いている。左に曲がり道なりに進むと左手に大きな住宅の塀が現れる。門に案内板が出ているので、ここが大橋家であることが分かる。 大橋家 大橋家 門より見た玄関  事前に見学の申し込み… ►続きを読む

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか)  2008/05/10訪問 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 上部に見える白い鳥居は仲恭天皇陵  皇嘉門院月輪南陵を過ぎ、仲恭天皇陵に至る参道の途中を右手に入ると鳥羽伏見戦防長殉難者の墓地がある。上り勾配の参道の途中にあるため仲恭天皇陵より一段低い場所ではあるが、かなり広い面積の平地が確保されている。 仲恭天皇陵と同じく西側に面するように整然と2列に並べられた墓石は、陵の主を護る衛士のようにも見える。もちろん仲恭天皇については、東山本町陵墓参考地の項でも触れたように鎌倉時代の天皇であり、鳥羽伏見の戦やその戦没者とは全く関係… ►続きを読む

 

仲恭天皇 九條陵

 

仲恭天皇 九條陵 (ちゅうきょうてんのう くじょうのみささぎ)  2008/05/10訪問 仲恭天皇 九條陵  九條陵への道筋を東福寺で尋ねると、どうもはっきりした答えが返ってこなかった。とりあえず芬陀院から日下門の前を南に折れ、六波羅門・勅使門の前を過ぎて数分歩くと比較的新しい住宅地の中に迷い込んでしまった。あたりを少し探し歩くと大きな木のもとに石段と碑がある角に出た。碑を読むとここが九條陵と月輪南陵への参道の入口であることが分かった。 九條陵への入口 碑には九條陵・月輪南陵参道とある  石段を数段登ると参道は直角に折れ、東方向へ真直ぐに緩やかな勾配で伸びていく。途中右側に「崇徳… ►続きを読む

 

東福寺 塔頭

 

東福寺 塔頭 (とうふくじ たっちゅう)  2008/05/10訪問  東福寺には25の塔頭と1つの特別由緒寺院がある。他の五山と比較すれば公開されている寺院の数も多いような気がする。 北門周辺 万寿寺は九条通の北側に位置する唯一の塔頭。  白河上皇が皇女郁芳門院内親王の菩提を弔うため、永長元年(1096)下京区万寿寺通高倉にあった六条内裏の中に建立された六条御堂がはじまり。  正嘉年間(1257~9)に十地上人覚空とその弟子慈一房湛照(宝覚禅師)により、浄土教を修する寺となったが、東福寺の聖一国師と親しくその教えを受けるに及び禅宗となし、弘長元年(1261)に万寿禅寺と改めたと伝わる。往時の… ►続きを読む

 

東福寺 芬陀院

 

東福寺 芬陀院 (とうふくじ ふんだいん)  2008/05/10訪問  東山本町陵墓参考地から再び東福寺の塔頭 芬陀院に向かう。伏見街道をさらに南下すると洗玉澗の流れと伏水街道第三橋で交差する。短い橋を渡りきると東福寺 中門が現れる。芬陀院は中門をくぐったすぐ右側にある。 東福寺 芬陀院 南庭  芬陀院は元亨年間(1321~1324年)に時の関白一条内経が東福寺開山・聖一国師の法孫にあたる定山祖禅を開山として創建した。以後、一条家の菩提寺とされている。 元禄4年(1691)に堂宇を焼失したが、関白一条兼輝により再建された。しかし宝暦5年(1755)の火災により再び堂宇を失うも、桃園天皇… ►続きを読む

 

東山本町陵墓参考地

 

東山本町陵墓参考地 (ひがしやまほんまちりょうぼさんこうち)  2008/05/10訪問 東山本町陵墓参考地 塚本社址  霊雲院から芬陀院に行く途中、東山本町陵墓参考地に寄る。退耕庵の前を通り北門から境内を出て本町通(伏見街道)を南下する。なかなか分かりづらい場所のようなので注意深く進むと左手に町並みが途切れる場所があった。  天皇、皇后、皇太后などの墓所を「陵」と呼び、その他の皇族の墓所を「墓」とする。「陵墓参考地」は皇族の墓である可能性があるものとして、被葬者を特定せず、宮内庁が管理している墓所を示す。宮内庁のサイトでは陵188、墓552そして陵墓参考地46としている。この東山本町陵… ►続きを読む

 

東福寺 霊雲院

 

東福寺 霊雲院 (とうふくじ れいうんいん)  2008/05/10訪問 東福寺 霊雲院 遺愛石と須弥台  日下門を出て臥雲橋を渡り月下門の前を通り過ぎ、左に曲がると突き当りが霊雲院となる。  霊雲院は明徳元年(1390)に、天龍寺第64世、南禅寺第96世、東福寺第80世に歴任した高僧 岐陽方秀が開いたとされ、当初は不二庵と呼ばれていた。 湘雪守沅は肥後熊本の人で、時の藩主細川忠利(細川ガラシャの子)と親交があった。湘雪が第7世住職として霊雲院へ移られる時に忠利は500石の禄を送ろうとしたが、「出家の後、禄の貴きは参禅の邪気なり。庭上の貴石を賜れば寺宝とすべし」と辞退した。… ►続きを読む

 

東福寺 方丈

 

東福寺 方丈 (とうふくじ ほうじょう)  2008/05/10訪問  本堂の北側に東福寺の方丈がある。庫裏から方丈に向かう廊下を渡ると、左に方丈南庭「八相の庭」と右に東庭「北斗七星」が同時に現れる。方丈を南庭から時計回りに廻り、東庭を最後に見ることとする。 東福寺 方丈 八相の庭と恩賜門  もともとは方丈とは1丈四方の面積(四畳半程度)であったが、その広さの部屋や建物を示す言葉となった。簡単に組み立てたり解体する事ができるので、鴨長明の『方丈記』のように僧侶や隠遁者に使われた。 維摩居士の方丈を見舞った文殊菩薩とその一行が、その狭い空間に全員入ることができたという逸話(維摩経)から、仏… ►続きを読む

 

東福寺 開山堂・普門院

 

東福寺 開山堂・普門院 (とうふくじ かいざんどう・ふもんいん)  2008/05/10訪問 東福寺 通天橋より方丈をながめる  右手に方丈を見ながら、本堂から北側に進むと洗玉澗にかかる通天橋が現れる。橋のたもとで開山堂と普門院の拝観料を支払い歩廊内に入る。 東福寺 通天橋より臥雲橋と洗玉澗  通天橋は天授6年(1380)、普明国師が谷を渡る労苦から僧を救うために橋を架けたと伝えられている。その後、何回か架け替えが行われてきた。現在の歩廊は昭和34年(1959)に台風によって倒壊したものを同36年(1961)に再建したもの。明治時代の「近畿名所」に掲載されている写真を見ると、確かに… ►続きを読む

 

東福寺

 

臨済宗東福寺派大本山 東福寺 (とうふくじ)  2008/05/10訪問 東福寺 月下門  泉涌寺の大門で東福寺への道を尋ねると悲田院の脇を下ると近道になると聞き、これに従い先ずは悲田院に向かう。悲田院の山門の手前を右に曲がり、石段を下り住宅街の細く曲りくねった道を進むと京都第一赤十字病院の真裏に出た。左に曲がると程なくして東福寺の寺域に達した。確かに泉涌寺道を戻り東大路通に出て、京阪鴨東線東福寺駅に行くよりは近かったが悲田院の山門前を右側に曲がり市立日吉ヶ丘高校の南側を通るように教えてくれたのかも知れない。  栗棘庵の角を左に曲がると道の両側に塔頭が並ぶ。やがて月下門が左側に現れる。一… ►続きを読む

 

泉涌寺 塔頭

 

泉涌寺 塔頭(せんにゅうじ たっちゅう)  2008/05/10訪問 泉涌寺 即成院  泉涌寺には善能寺、来迎院のような山内寺院が、9つある。■01 即成院 泉涌寺道を進み総門手前左側に即成院の山門が面している。  伝承では恵心僧都により正暦3年(992)に伏見に建立された光明院を始まりとするが、関白藤原頼通の第三子橘俊綱が、山荘造営にあたり持佛堂として伏見桃山に建立。 文禄3年(1594)豊臣秀吉の伏見城築城のため、強制的に深草大亀谷(現在のJR藤森あたり)に移転した。廃仏毀釈に遭い廃寺となったため、明治35年(1902)泉涌寺塔頭の法安寺と合併し再興された。 泉涌寺の塔頭 即成院と呼… ►続きを読む

 

泉涌寺 月輪陵

 

泉涌寺 月輪陵(せんにゅうじ つきのわのみささぎ)  2008/05/10訪問 泉涌寺 月輪陵  霊明殿の東側に月輪陵は位置する。 泉涌寺 霊明殿の唐門 月輪陵は向かって右  霊明殿の唐門の前を過ぎ、左手に曲がると月輪陵の前庭となる白砂が目に入ってくる。  陵に祀られている方の説明と手水舎がある。 泉涌寺 月輪陵 宮内庁による掲示 泉涌寺 月輪陵 手水舎  宮内庁の天皇陵サイトによると月輪陵には次の天皇が祀られている。  四條(しじょう)天皇     87代 月輪陵(つきのわのみささぎ)  後水尾(ごみずのお)天皇  108代    〃  明正(めいしょう)天皇   1… ►続きを読む

 

泉涌寺 来迎院

 

泉涌寺 来迎院(せんにゅうじ らいごういん)  2008/05/10訪問 泉涌寺 来迎院山門  来迎院への道筋は善能寺と同じく、総門から大門の方へ回らず、泉涌寺道を直進する。仏殿脇の石段を下りると右側にたいこ橋と門が現れる。 来迎院は、弘法大師が唐土で感得した三宝荒神を奉安して開いたと伝えられている。その400年後の健保6年(1218)、月翁智鏡長老が堂宇を開創したが、応仁・文明の乱-応仁元年(1467)~文明9年(1477)-の兵火により炎上し、荒廃した。 その後、天正5年(1577年)、中興の祖・舜甫長老が織田信長より50石を受け、慶長2年(1597年)には前田利家が諸堂の再建を行い… ►続きを読む

 

泉涌寺 善能寺

 

泉涌寺 善能寺(せんにゅうじ ぜんのうじ)  2008/05/10訪問 泉涌寺 善能寺山門 右側の碑は「洛よう十八番ぜんのう寺」  善能寺は、泉涌寺総門をくぐり、そのまま大門の方へ右折せずに参道を直進すると左手下側に見えてくる。泉涌寺の中には入らず(伽藍拝観料を払わずに)石段を下ると左側に善能寺 右側に来迎院の門が現れる。 善能寺は、もともと八条油小路にあり二階観音堂とよんでいたが、弘仁14年(823)弘法大師が稲荷大明神を祀る寺(日本で最初に祀られた稲荷大明神)として善能寺と号した。その後、 天文20年(1551)、後奈良天皇により泉涌寺の護持院として今熊野観音寺の西北(現在地は今熊野… ►続きを読む

 

泉涌寺

 

真言宗泉涌寺派総本山 泉涌寺 (せんにゅうじ)  2008/05/10訪問 泉涌寺 総門 泉涌寺道  のぞみ1号が京都駅に到着するのが8:11。荷物をコインロッカーに入れ、京都駅中央口へ出る。本日の予定は泉涌寺・東福寺→伏見稲荷大社→御香宮神社→伏見というスケジュール。先ずは最初の目的地・泉涌寺を目指して塩小路通を西に進み、鴨川を渡る。本町8丁目で京阪鴨東線に平行に走る道に入り南下する。東海道本線・東海道新幹線の高架下をくぐり、市立一橋小学校に保存されている伏水街道一の橋を確認した後、再び伏見街道に戻り南に進む。 泉涌寺 東大路通と泉涌寺道の角に立つ碑  京阪鴨東線東福寺駅前より東… ►続きを読む

 
 

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