徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

洛中の町並み その8 寺町通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 寺町通 一保堂茶舗  南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 寺町通は河原町通の1本西側の通りで、北は鞍馬口通から南は五条通りまでの全長約4.6キロメートル。通りの原型は平安京の東端を南北に走る東京極大路である。天正18年(1590)豊臣秀吉が着手した京都大改造で、洛中の寺院をこの通りの東側に集めたことからこの通りに寺町の名が付いた。 寺町通 一保堂茶舗 寺町通 一保堂茶舗 仁丹の番地表示板 寺町通 一保堂茶舗 店頭には茶箱が積まれている  夷川通を過… ►続きを読む

 

洛中の町並み その7 富小路通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 富小路通 京都ハリストス教会  南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。  麩屋町通の1本西側の通りが富小路通で、丸太町通から六条通までの約2.8キロメートル。もともとの平安京の富小路を麩屋町通と呼ぶようになり、その西側の道を富小路通とするようになった理由は良く分からない。江戸時代には鍛冶屋、目貫小柄屋、白皮屋、塗師などの職人衆が多く住んでいたと言われている。 富小路通 京都ハリストス教会 富小路殿公園側から眺める  丸太町通から車屋町通に入り夷川通を過ぎると、京の… ►続きを読む

 

葵祭

 

葵祭(あおいまつり) 2008/05/15訪問 葵祭  この日は1日市内を廻る予定であった。旅館の人から葵祭を勧められたので、午前中の予定を変更して見物しに行くことにした。三条通、石黒香舗そして亀末廣を回り、車屋通を北上して堺町通の正面に到着したのが10時30分であった。朝早くから順番待ちしただろう人の後ろから見ることができた。 葵祭 警察の騎馬が準備をする 葵祭 葵祭 葵祭 内蔵寮史生  葵祭は5月15日に賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われる例祭で、正式には賀茂祭と呼ばれている。太古別雷神が上賀茂神社の北北西にある神山に御降臨された際、… ►続きを読む

 

洛中の町並み その6 車屋町通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 車屋町通 左:西島家住宅 右:伊可田屋  南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。  車屋町通は烏丸通の1本東側を南北に走る全長約800メートルの通りである。長い伝統を受け継ぐ老舗の風格のある看板や暖簾を多く目にする。その中に新しい施設も生まれつつあり、新旧が共存できる町並みが魅力となりつつある。 車屋町通は天正18年(1590)に豊臣秀吉の京都改造によって、烏丸通と東洞院通の間に開通した。当初は、北は出水通から南は姉小路通まで貫通していたが、宝永5年(1708)の京都の… ►続きを読む

 

亀末廣

 

亀末廣(かめすえひろ) 2008/05/15訪問 亀末廣  中京郵便局を過ぎてさらに三条通を西に進むと烏丸通に出る。右手にNTT西日本と新風館を見ながら北に行くと姉小路通に当たる。この道を東に入ったところに亀末廣の建物が現れる。 亀末廣 間口だけでなく奥行きからも店の規模が分かる 亀末廣 わざわざ郵便ポストを置かなくても…  亀末廣の創業は文化元年(1804)のことである。伏見・醍醐の釜師であった初代・亀屋源助が京に店を出し、二条城や御所に菓子を納めてきた。御所や二条城からの注文はその度毎に新作を作るものであったため、木型師が専用の木型を作成しても一回だけ使って用済みとなるこ… ►続きを読む

 

石黒香舗

 

石黒香舗(いしぐろこうほ) 2008/05/15訪問 三条通  三条通と柳馬場通の西南角から西に3軒目に石黒香舗がある。創業安政2年(1855)の全国で唯一の「にほひ袋」専門店と石黒香舗の公式HPでは謳われている。京都でも鳩居堂のようにお香を扱う店の作った匂い袋は多くあるが、こちらは匂い袋を専門としたお店である。炭屋の女将の紹介で開店時間の前に店の中に入れてもらうことが出来た。 石黒香舗 右は今は扱わなくなったスティック状の香 左は防虫香 石黒香舗 昔の包装紙と防虫香  匂い袋の歴史は古く奈良時代まで遡る。正倉院の宝物の中にも現在の匂い袋の原型となる裛衣香が… ►続きを読む

 

洛中の町並み その5 三条通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 三条通  2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。  三条通は姉小路通の1本南側の通りで、現在では東は山科から西は嵐山まで続く全長約15キロメートルの通り。通りの原型は平安京の三条大路である。江戸時代は三条大橋が東海道の終点となるため、東国からの旅人は三条大橋から続く三条通を歩き洛中に入ることとなる。明治時代に入ると近代建築が相次いで建設され、京都の文明開化をリードしてきた。今もこれらの近代建… ►続きを読む

 

洛中の町並み その4 姉小路通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 姉小路通 亀末廣  2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。  姉小路通は御池通の1本南側の通りで、東は木屋町通から西は西大路通の先まで続く全長約3.7キロメートルの通り。通りの原型は平安京の姉小路である。御池通や三条通に比べると静かな町並みではあるが、町家造りの老舗が多い。 姉小路通 鳩居堂  河原町通から姉小路通に入る。本能寺の南を通り、寺町通に出る。道は鳩居堂の角で北側にクランクす… ►続きを読む

 

洛中の町並み その3 富小路通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 富小路通  2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。  麩屋町通の1本西側の通りが富小路通で、丸太町通から六条通までの約2.8キロメートル。もともとの平安京の富小路を麩屋町通と呼ぶようになり、その西側の道を富小路通とするようになった理由は良く分からない。江戸時代には鍛冶屋、目貫小柄屋、白皮屋、塗師などの職人衆が多く住んでいたと言われている。 富小路通 天ぷら 吉川 富小路通 天ぷら … ►続きを読む

 

洛中の町並み その2 御幸町通・麩屋町通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 御幸町通 なが田  2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。  寺町通の1本西側の通りが御幸町通である。北は京都御苑があるため丸太町通から始まり、南は五条通りまでの全長約2.4キロメートル。寺町通と同様に天正18年(1590)豊臣秀吉が着手した京都大改造によって生まれた通である。 御幸町通 なが田  姉小路通の角にある「なが田」はデリカテッセンとサンドイッチを販売する店である。建物の造り… ►続きを読む

 

洛中の町並み 寺町通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 寺町通 商店街の中の錦天満宮  2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 寺町通は河原町通の1本西側の通りで、北は鞍馬口通から南は五条通りまでの全長約4.6キロメートル。通りの原型は平安京の東端を南北に走る東京極大路である。天正18年(1590)豊臣秀吉が着手した京都大改造で、洛中の寺院をこの通りの東側に集めたことからこの通りに寺町の名が付いた。 廬山寺や梨木神社、そして新島襄旧邸などがこの通… ►続きを読む

 

炭屋旅館 その4

 

炭屋旅館(すみやりょかん) 2008/05/14訪問 炭屋旅館 夕食01  炭屋の食事は、素材も料理方法もそして器を含めて、非常に伝統的な懐石の範囲の中で創られたものという印象が残っている。懐石の形態をとりながら洋風の素材を用いたり、あるいは和食と異なる料理方法で作られたものを輪食器に装うこともなく、非常に忠実な懐石料理であることは、初心者の私にも伝わってきた。妻もお茶事に出される懐石料理を思い出したと言うことなので、おそらく私たちの得た印象は作り手の意図したものに近かったと思う。その反面、あまり驚かされるような料理も現れず、淡々と夕食が進んで行き、気がついたらデザートを迎えていたという… ►続きを読む

 

炭屋旅館 その3

 

炭屋旅館(すみやりょかん) 2008/05/14訪問 炭屋旅館 安宅 主室の床の間方向  主室は8畳間、右手窓側に床の間が造られている。畳敷きの床の間には掛け軸が掛けられ、丸い盆の上に載せられた花器にはお花が生けられている。床の右側は床脇となっており、棚が設えてある。この棚の前に置かれた台の上に電話機がある。床脇の棚の右手にはクロークとなっており、浴衣が用意されている。床の間の正面の壁の腰には、文字の書かれた紙が貼られている。近づいて読むと安宅の謡本であることが分かる。小舞を組んだ窓の下から始まり、床の間と床脇を除いてほぼ主室の中を一周している。もともと長押のない部屋であるため、これを除… ►続きを読む

 

炭屋旅館 その2

 

炭屋旅館(すみやりょかん) 2008/05/14訪問 炭屋旅館 安宅 次の間から客室ドアを眺める  本日泊まった部屋は「安宅の間」、能の安宅から名付けられた客室である。玄関から客室をつなぐ廊下を進むと中庭が現れる。さらに進むと照明も明るく、新しく作られた部分に入る。安宅の間はこの増築部分の1階にある。 炭屋旅館 安宅 客室ドア 炭屋旅館 安宅 炭屋旅館 安宅  部屋の開き戸を開けると、板の間の踏込みがある。正面の壁に和風の照明器具が設けられ、比較的明るい。天井は部屋内方向へ渡された丸材の竿縁天井となっている。さらに細い角材を横方向にも流しているため、狭い空間ではあるが密… ►続きを読む

 

炭屋旅館

 

炭屋旅館(すみやりょかん) 2008/05/14訪問 炭屋旅館 玄関  錦市場を出て、御幸町通を北上し、三条通に入る。三条麩屋町通の角にある あぶらとり紙のよーじや三条店をのぞく。新しいお店と思っていた よーじやも明治37年(1904)に六角御幸町あたりに国枝商店という屋号で店を開いたのが始まりと聞く。この数年の人気の盛り上がりは別としても長く女性に愛されてきた店であることは確かである。 炭屋旅館 三条通からの眺め 炭屋旅館 麩屋町通の外観 炭屋旅館 玄関  三条通の町並みを眺めた後、本日の宿へと麩屋町通を南に入る。  俵屋や柊屋と比較して、炭屋の旅館としての歴史はそれ… ►続きを読む

 

錦市場 その2

 

錦市場(にしきいちば) 2008/05/14訪問 錦市場 有限会社 魚力 焼き魚  錦市場は鎌倉時代以降は商工業街として発展した。室町時代には、酒屋をはじめとする多種多様な職種が存在した。しかし文明年代(1469~1486)に応仁の乱により錦小路も衰退する。再興されたのはおよそ100年後の天正年代(1573~1593)のことであった。 錦小路が魚鳥の市場となったのは豊臣秀吉の天下統一後と考えられている。この地の人口が多いこと、御所への納入が容易であったこと、そして清く冷たい地下水が涌き出ることが、この地に市場が生まれるもととなっている。 錦市場の公式HPによると本格的な魚市場となったのは… ►続きを読む

 

錦市場

 

錦市場(にしきいちば) 2008/05/14訪問 錦市場 打田漬物商工業株式会社 京漬け物  四条堺町通の市原平兵衞商店から四条通を越え、堺町通を北に進むとすぐに京の台所、錦市場のアーケードに当たる。昭和38年(1963)に京都錦市場商店街振興組合が設立し、現在では寺町通から高倉通までの全長390メートルの道沿いに生鮮食品を中心とした約130の店舗が並ぶ。 東側は寺町に始まり、西は大宮西入るまでの部分に道が作られたのは延暦年代(782~806)のことだと言われている。もと具足を売る店が並んでいたため、具足小路と呼ばれていた。その後訛って、くそ小路と呼ばれたこともあったらしい。  宇治拾遺… ►続きを読む

 

市原平兵衞商店

 

市原平兵衞商店(いちはらへいべえしょうてん) 2008/05/14訪問 市原平兵衞商店  四条烏丸の交差点から四条通を徒歩で東へ進む。堺町通を南に曲がった右手に市原平兵衞商店がある。ここへは何回も訪れているにもかかわらず、毎回柳馬場通から高倉通の間を迷って歩くこととなる。どうも四条通の曲がり角のイメージが記憶に残っていないようだ。  市原平兵衞商店は、創業明和元年(1764)のお箸の専門店である。かつては御所に出入りしていた御箸司であり、今でも一流料理人や料亭から支持される老舗である。東京の百貨店の催事でも何回か来ているため、東京でもある程度名前が知られていると思う。 店の外観はごくごく… ►続きを読む

 

唐長

 

唐長(からちょう) 2008/05/14訪問 唐長 ポストカード  妙心寺の北総門の前にある市バス 妙心寺北門前停留所から市バス26号に乗車し、四条烏丸へ向かう。一条通を東に進み、馬代一条で南に折れる。市立大将軍小学校と京都府立医大の間を再び東に進むと西大路通に出る。西大路通を右折して四条通まで南下する。四条通を東に進み、四条烏丸で市バスを下車する。妙心寺を出たのが16時前だったので、およそ30分で四条烏丸についたこととなる。 唐長 説明書 唐長  四条烏丸の交差点の東南角に複合商業施設cocon烏丸がある。この京都のオフィス街の中心地に丸紅ビルが建設されたのが昭和13年(1… ►続きを読む

 

妙心寺 退蔵院

 

妙心寺 退蔵院(みょうしんじ たいぞういん) 2008/05/14訪問 妙心寺 退蔵院 余香苑  妙心寺の塔頭である退蔵院は三門の西側にある。 応永11年(1404)越前の豪族 波多野重通は、深く帰依していた妙心寺第三世住持 無因宗因を開山として千本通松原に退蔵院を創建する。 応永6年(1399)守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こし、堺に籠城するという応永の乱が起こる。3代将軍足利義満は有力守護大名の弱体化と将軍家への権力の集中を図るため、守護大名の相続問題への介入や討伐を積極的に行ってきた。応永の乱により大内義弘は討死、大内氏は政治的影響力を失うこととなった。妙心寺第6世住… ►続きを読む

 
 

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