徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

新島襄旧邸

 

新島襄旧邸(にいじまじょうきゅうてい) 2008/05/13訪問 新島襄旧邸  梨木神社の鳥居をくぐり、清和院御門の前の広場に再び出る。寺町通を南下する。右手は京都御苑の清和院駐車場が細長く続く。駐車場のさらに奥は仙洞御所である。単調な景色が続くので、府立鴨沂高等学校の角で左に入り、寺町通の一本東の新烏丸通を南下する。 ところで旧九条殿河原町邸はどこにあったのだろうか?九条殿は、閑院宮とともに御所内の南西にあったが、河原町邸は別のものと思われる。鴨川に架かる丸太町橋の西詰めに、昭和7年(1932)京都鴨沂会が創立60周年を記念して建てた碑が現在も残っている。この碑より、“本邦高校女学校之… ►続きを読む

 

梨木神社

 

梨木神社(なしのきじんじゃ) 2008/05/13訪問 梨木神社 拝殿  廬山寺から寺町通に出て、南に下るとほどなく京都御苑の清和院御門が現れる。梨木神社の鳥居は清和院御門の手前右手にある。 梨木神社 清和院御門脇の鳥居 梨木神社 二の鳥居  梨木神社の祭神は三條実萬と三條実美の父子である。三條実美を祀る神社ということから明治以降に創建された新しい神社であることが分かる。梨木神社の公式HPによると明治18年(1885)に三條実萬を祭神として旧邸の地名 梨木町にちなみ、現在の地に梨木神社として創建された。三條実美が第二座の祭神として合祀されたのは大正4年(1915)の大正天皇即… ►続きを読む

 

廬山寺

 

天台系圓浄宗大本山 廬山寺(ろざんじ) 2008/05/13訪問 廬山寺 源氏庭 中央の石が紫式部邸宅址の碑  ウェスティン都ホテル京都をチェックアウトし、荷物を持って地下鉄東西線蹴上駅へ向かう。京都市役所前で下車し、荷物を駅構内のコインロッカーに入れ、地上に出る。京都市営バスに乗り、3つ目の府立医大病院前で下車する。廬山寺の山門はこの河原町通沿いにはない。一本西側の寺町通にあるため、府立文化芸術会館の角を左に折れると正面に京都御苑への入口と梨木神社の鳥居が見える。寺町通に入り北に200メートルくらい上ると右手に廬山寺の山門が現れる。 廬山寺 南の山門 廬山寺 北の山門 拝観者… ►続きを読む

 

祇園・先斗町の町並み

 

祇園・先斗町の町並み(ぎおん・ぽんとちょうのまちなみ) 2008/05/12訪問 祇園  都ホテルから三条通を西に歩き、鴨川を渡り、橋詰を南に下ると先斗町に入り込む。夕食の店を探しながら細い道を2往復した。夕食後、祇園界隈を散策する。 先斗町 三条橋から鴨川沿いの川床を眺める 先斗町 先斗町 先斗町 先斗町 先斗町 石畳の道は細いが行き交う人は多い 先斗町 先斗町 先斗町 先斗町 先斗町 川床納涼床は5月から始まる 先斗町 四条橋より川床を眺める  先斗町は鴨川と木屋町通の間にある花街で、町と付くが正式な地名ではない… ►続きを読む

 

佳水園 その4

 

ウェスティン都ホテル京都 佳水園(かすいえん) 2008/05/12訪問 佳水園 客室  ウェスティン都ホテル京都の公式HP(http://www.westinmiyako-kyoto.com/guest/kasui.html : リンク先が無くなりました )を見ると2009年6月現在、数寄屋風別館 佳水園の客室数は20室で、一室あたりの料金が設定されている。部屋の大きさが異なるため室料金も一律でない。またこの料金には食事が含まれていないらしいが、4室限定で一泊2食付サービスが受けられるように説明している。そして以下のような記述が付け加えられている。     ご滞在中は、「佳水園」専用の… ►続きを読む

 

佳水園 その3

 

ウェスティン都ホテル京都 佳水園(かすいえん) 2008/05/12訪問 佳水園 フロント横の応接と棚  ウェスティン都ホテル京都は、平成14年(2002)に、スターウッド・ホテル&リゾートと提携し、ウェスティンブランドに入ったが、現在もホテル名称に残っているように都ホテルズ&リゾーツの旗館であった。ちなみに村野の初期の名作 志摩観光ホテルも系列ホテルの1つである。 佳水園 エントランス 佳水園 エントランス  三条古川町の油商 西村仁兵衛が、明治23年(1890)に華頂山の中腹の7万坪近い敷地に「吉水園」という貸し席を開いたのが都ホテルの始まりである。本… ►続きを読む

 

佳水園 その2

 

ウェスティン都ホテル京都 佳水園(かすいえん) 2008/05/12訪問 佳水園  佳水園 その1で触れたように、佳水園には2つの庭がある。ひとつは小川白楊が作庭した岩肌を利用した庭。そしてもう一つは村野藤吾が佳水園を設計した際に作庭した白砂の庭。この2つの庭がどのようにして作られたかについては、ウェスティン都ホテル京都の公式HPより、京都市都市緑化協会のまとめた 京の庭 庭園紹介の方が詳しい。 佳水園 本館側のファサード 佳水園 地下部分の壁面  小川保太郎 白楊は7代目の小川治兵衛の長男である。父である7代目小川治兵衛が73歳と比較的長寿だったのに対して、石造品や石の扱い… ►続きを読む

 

佳水園

 

ウェスティン都ホテル京都 佳水園(かすいえん) 2008/05/12訪問 佳水園  神泉苑の押小路通の門から出て堀川御池の交差点に向けて歩いていくと、交差点の手前に市営地下鉄東西線の二条城前駅がある。ここから東西線に乗車し、六地蔵方面行きで5番目の駅 蹴上で下車する。地上に出るとほぼ目の前にウェスティン都ホテルのエントランスが現れる。 都ホテル新館と佳水園の設計者は村野藤吾である。  昭和4年(1929)独立し、村野建築事務所を開設した時は38歳であった。独立後すぐに森五商店東京支店(昭和6年(1931))、そごう百貨店大阪本店(昭和10年(1935))、宇部市民館(昭和12年(1937… ►続きを読む

 

神泉苑

 

真言宗東寺派 神泉苑(しんせんえん) 2008/05/12訪問 神泉苑 法成就池にかかる法成橋  二条城の東大手門を出て、東南隅櫓を見ながら押小路通を西に300メートル進むと左手に町屋の並びの中に塀で囲まれた木々の多い一角が現れる。ここが神泉苑の押小路通側の門となる。 神泉苑 法成就池の北側 神泉苑 法成就池に浮かぶ竜頭鷁首の舟  神泉苑は平安京が作られたときに、大内裏の南東に接するように造営された禁苑、すなわち天皇のための庭園であった。当初の敷地はWikipediaの平安京を見れば分かるように、北は二条大通、南は三条大通、東は大宮大路そして西は壬生大路に囲まれた広大な敷地を… ►続きを読む

 

二条城

 

二条城(にじょうじょう) 2008/05/12訪問 二条城 二の丸御殿車寄  平安神宮神苑の出口は平安神宮 神楽殿の脇にある。応天門をくぐり冷泉通を東に進むと岡崎道に行き当たる。平安神宮神苑の東神苑の塀を左手に見ながらしばらく北へ歩いていくと丸太町通に出る。京都市バス 岡崎道停留所からバスに乗り、丸太町通を西へ移動する。堀川丸太町通で下車して南に下ると二条城の正門前に出る。 二条城 東南隅櫓  二条城と呼ばれるものは、歴史書において複数現れてくる。朱雀大路が廃れた後、二条通は都一の大路となり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えるようになった。そのため将軍家の屋敷は「二… ►続きを読む

 

平安神宮神苑

 

平安神宮神苑(へいあんじんぐうしんえん) 2008/05/12訪問 平安神宮神苑 臥龍橋  平安神宮神苑への入口は、白虎楼の翼廊にある。一歩くぐり戸の中に入ると、大都市の中心にある庭と思えないほどの自然と静けさが満ち溢れている。神苑は築庭からまだ百年程度の庭であるが、樹木や池泉は完全に自然の一部となっている。 平安神宮神苑 入口  約10,000坪の神苑は4つの庭に分かれる。拝観順路に従うと大極殿の東側の南神苑から西神苑へ、そして西側の中神苑から東神苑の順に巡ることとなる。この4つの庭にはそれぞれ池泉があり、異なった性格に仕上げられている。この庭は七代目小川治兵衛が明治28年(18… ►続きを読む

 

平安神宮

 

平安神宮(へいあんじんぐう) 2008/05/12訪問 平安神宮 大極殿 手前に龍尾壇が見える  満願寺から冷泉通を西に歩き平安神宮の東南角に出る。文子天神の後ろにクレーンが見えているように、このあたりはマンションあるいは宿泊以外の目的のホテルが建ち並び、東山側の邸宅、別荘、企業・団体の保養所ということから変わりつつあるようだ。 旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。 平安神宮 応天門 平安神宮 応天門より見た大鳥居  京都にとって平安神宮は新しく造られた神社といっても良いだろう。平安神宮の公式HP(http://www.heianjingu.or.jp/01/… ►続きを読む

 

満願寺

 

日蓮宗 満願寺(まんがんじ) 2008/05/12訪問 満願寺 山門  白河院から1ブロック、北西100メートルの場所に満願寺がある。ここは観光寺ではなく、自由に境内に入れる。山門をくぐると正面に大きな本堂があり、その本堂の前左手に文子天神、右手に閼伽井がある。 山門を見れば分かるように満願寺の山号は示現山、日蓮宗に属する寺院である。 寺伝によると天慶3年(940)多治比文子が菅原道真の霊夢を感じ、北野朝日寺の僧最珍を開基に請じて西ノ京北町に堂宇を建立し、道真自作の天満自在天像を安置したことに始まる。 満願寺 文子天神  多治比文子は生年も没年も不詳の平安時代中期の女性である。童女… ►続きを読む

 

白河院

 

白河院(しらかわいん) 2008/05/12訪問 白河院 庭園  洛翠を出て、白川通から二条通に入り、1ブロック西に進むとこけら葺屋根に瓦を載せた大門が現れる。ここが白河院の表門である。車止めがあるため、左側の建物に入り、庭園の拝観を申し出る。 白河院 大門  この藤原氏の氏長者である藤氏長者として良房の7代目にあたる藤原師実の時に、この別荘地は白河天皇に献上された。師実は藤原氏絶頂期である藤原道長の孫、平等院を建立した頼通の子にあたる。師実は養女の賢子を白河天皇に入内させ、敦文親王と善仁親王が産まれたことから後宮政策は成功を収めた。その後、善仁親王への皇位継承(堀川天皇)において… ►続きを読む

 

洛翠

 

洛翠(らくすい) 2008/05/12訪問 洛翠 庭園  瓢亭より無鄰菴の長い塀伝いに歩き、再び仁王門通と白川通の交わる南禅寺前交差点に出る。そのまま白川通を200メートルくらい北上すると小さいながらも雅な印象をうける門が現れる。黒い門扉に金の菊紋の錺金具が施され、瓦葺の屋根はかなり棟を絞った形になっているため、実際よりもかなり小ぶりに見えるように作られている。駒札によりこれが洛翠の不明門であり、伏見城の遺構と伝えられていることが分かる。屋根の形状に少し硬さを感じるが、確かに桃山時代の華やかさが伝わる門である。もし伏見城の遺構ならば、1600年からの300年間の来歴が必要となるがそれは明… ►続きを読む

 

瓢亭

 

瓢亭(ひょうてい) 2008/05/12訪問 瓢亭本館  無鄰菴と細い道を隔てて瓢亭が隣接する。 瓢亭の創業はおよそ400年前といわれているので江戸時代の初期となる。南禅寺の総門へ続く松林の参道に面する南禅寺総門外松林茶店、いわゆる腰掛茶屋としてのれんを掲げたのが始まりと伝えられている。 瓢亭本館  南禅寺 聴松院の項で記したように、花洛名所図会では湯豆腐の丹後屋とともに南禅寺総門外松林茶店として図会で紹介されている。建物の配置も現在に近い形で描かれているように見える。また図会には、丹後屋に続いて以下のように記されている。「瓢亭の煮抜玉子は近世の奇製なりとて、ここの酒客あまねくこれ… ►続きを読む

 

無鄰菴

 

無鄰菴(むりんあん) 2008/05/12訪問 無鄰菴 庭園  金地院より再び南禅寺の境内に戻り西に進むと、白川通と仁王門通が交わる南禅寺前交差点に出る。無鄰菴はこの交差点を渡った先にある。入口は仁王門通には面せず、瓢亭との間の細い道の先にある。 無鄰菴 長く続く塀より庭の奥行きの深さが分かる 無鄰菴 入口 あいにく屋根の工事中  無鄰菴は、明治の元老 山縣有朋が造営した別荘である。  山縣有朋は天保9年(1838)萩城下近郊の阿武郡川島村の長州藩の中間の長男として生まれる。よく山縣を揶揄して足軽出身といわれているが、実際には足軽以下の中間の出身である。しかし将来、槍術で身を… ►続きを読む

 

南禅寺 塔頭

 

南禅寺 塔頭(なんぜんじ たっちゅう) 2008/05/12訪問 南禅寺 高徳庵への参道  南禅寺で頂いた拝観のしおりによると塔頭は現在12寺とのこと。ただし、これには南禅院が含まれていない。しおりでは南禅寺の歴史と伽藍、本坊の説明についで、南禅院が取り上げられている。また南禅寺の公式HPでは、「塔頭のうち南禅院は亀山天皇の宸影をまつる檀那塔であるため、別格に扱われています。」というような表現となっているので、塔頭であることは間違いないようだ。ということで実質的には13塔頭ということになる。■01 金地院 金地院は応永年間(1394~1427)に室町幕府4代将軍足利義持が南禅寺第68代住… ►続きを読む

 

南禅寺 金地院

 

南禅寺 金地院(なんぜんじ こんちいん) 2008/05/12訪問 南禅寺 金地院 方丈庭園  南禅寺 天授庵から山門の前を通り、勅使門と並んで建てられている表門の外に出たところに左に曲がる道がある。この道に入ると金地院という表札が架けられた門があり、それを越えた先の右手に南禅寺 金地院がある。 南禅寺 金地院への門 南禅寺 金地院は右側 南禅寺 金地院 庫裏につながる2つ目の門  応永年間(1394~1427)に室町幕府4代将軍足利義持が南禅寺第68代住持 大業徳基禅師を開山として洛北・鷹ケ峯に創建したのが金地院の始まりである。慶長10年(1605)南禅寺第270代住… ►続きを読む

 

南禅寺 天授庵

 

南禅寺 天授庵(なんぜんじ てんじゅあん) 2008/05/12訪問 南禅寺 天授庵 本堂前庭園  南禅寺 南禅院より再び石段を下り水路閣をくぐると法堂の前に出る。正因庵の前を過ぎ、三門の南側に南禅寺 天授庵がある。 亀山上皇は父である後嵯峨上皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿を正応4年(1291)に禅寺に改めた。この時、開山に迎えたのは東福寺住持の無関普門禅師(大明国師)である。 無関普門禅師は建暦2年(1212)に信濃国に生まれ、13歳で越後国正円寺において出家する。19歳の時に上野国長楽寺で栄朝禅師から菩薩戒を受け、栄西禅師から受け継がれた禅を学ぶ。関東や北越の講席を… ►続きを読む

 
 

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