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泉涌寺 塔頭



泉涌寺 塔頭(せんにゅうじ たっちゅう)  2008/05/10訪問

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泉涌寺 即成院

 泉涌寺には善能寺来迎院のような山内寺院が、9つある。
■01 即成院 泉涌寺道を進み総門手前左側に即成院の山門が面している。

 伝承では恵心僧都により正暦3年(992)に伏見に建立された光明院を始まりとするが、関白藤原頼通の第三子橘俊綱が、山荘造営にあたり持佛堂として伏見桃山に建立。
 文禄3年(1594)豊臣秀吉の伏見城築城のため、強制的に深草大亀谷(現在のJR藤森あたり)に移転した。廃仏毀釈に遭い廃寺となったため、明治35年(1902)泉涌寺塔頭の法安寺と合併し再興された。
 泉涌寺の塔頭 即成院と呼ぶようになったのは昭和のはじめ頃より。

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泉涌寺 即成院
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泉涌寺 即成院 山門の鳳凰

■02 戒光寺 泉涌寺道の総門を過ぎたすぐ左側に戒光寺の石段と山門が現れる。

 宋から帰朝した浄業曇照が鎌倉時代安貞2年(1228)大宮八条の東堀川の西に後堀河天皇の勅願所として戒光律寺を創建した。
 その後応仁の乱で堂舎を焼失し一条戻り橋の東に移り、更に三条川東を経て、正保2年(1645)後水尾天皇の発願により泉涌寺の塔頭とされ現地に再興された。
 本尊・釈迦如来立像は運慶湛慶父子よる一丈六尺を越える大像で「丈六釈迦如来」と呼ばれている。
 また伊東甲子太郎ら御陵衛士の墓が戒光寺墓地(総門の手前)にある。

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泉涌寺 戒光寺

■03 今熊野観音寺 泉涌寺道が三叉に別れる左側の道を下ると鳥居橋が現れ、その先に今熊野観音寺の伽藍がひろがる。

 初め東山観音寺と呼ばれていたが、後白河上皇によって永暦元年(1160)新熊野社が創建された際に、新那智山の山号を寄せられ、今熊野観音寺と称することになったと言われている。

■04 来迎院 来迎院への道筋は総門から大門の方へ回らず、泉涌寺道を直進する。鎮守社脇の石段を下りると右側にたいこ橋と門が現れる。

 来迎院は、弘法大師が唐土で感得した三宝荒神を奉安して開いたと伝えられている。その400年後の健保6年(1218)、月翁智鏡長老が堂宇を開創したが、応仁・文明の乱-応仁元年(1467)~文明9年(1477)-の兵火により炎上し、荒廃した。
 その後、天正5年(1577年)、中興の祖・舜甫長老が織田信長より50石を受け、慶長2年(1597年)には前田利家が諸堂の再建を行い、徳川家も別朱印と100石あまりを与えられ、復興を果たした。
 広幅殿荒神堂には、木像荒神坐像一躯・木像護法神立像五躯が奉祀され、本堂に霊元天皇の御念持仏であった幻夢観音菩薩坐像も祀られている。

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泉涌寺 来迎院
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泉涌寺 来迎院

■05 雲龍院 雲龍院は泉涌寺仏殿・舎利殿の南側高台の上にある。

 雲龍院は応安5年(1372)後光厳天皇による御建立に始まる。康応元年(1389)に後円融天皇が龍華院が同じ場所に御建立し、御宸翰を下して如法写経儀を興した。
 その後、応仁の乱など焼失と再建を繰り返すこととなるが、現在の姿は後水尾天皇よる御寄附(写経会に要する仏具百余点)によるところが大きい。
 雲龍院は後小松、称光の両天皇に崇敬され、四天皇崩御後、御分骨所が営まれ、北朝歴代の御尊牌が霊明殿に奉安されている。

■06 悲田院 泉涌寺大門を出て、泉涌寺道へ戻る道筋の途中に右側に入る道がある。この道を入ると突き当たりに悲田院がある。

 もともと悲田院とは仏教思想にもとづいた貧窮者や孤児の救済施設を意味し、聖徳太子が四天王寺に四箇院の一つとして造られたのが悲田院の始まりといわれている。
 天平2年(730)に光明皇后の発案で平城京の左京、右京に悲田院が設置され、平安京にも東西2ヶ所に悲田院が建てられた。西は現在の上京区扇町付近(後花園天皇火葬塚)、東は鴨川の西畔、三条河原付近にあったとされている。
 後花園天皇はこの寺を勅願寺とされ、崩御の時には御葬儀や荼毘が行われた。しかし天正元年(1573)織田信長の上京焼討ちで焼失。現在の悲田院は泉涌寺の御縁起によれば、正保3年(1646)に高槻城主・永井直清によって泉涌寺山内に移転され復興した。

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泉涌寺 悲田院

■07 法音院 泉涌寺道の総門を過ぎ、道筋の右側に戒光寺と向き合う形で法音院がある。

 法音院は鎌倉時代末の嘉暦元年(1326)無人如導によって山内に創建されたが、応仁の乱により焼失。その後、江戸時代の初期寛文4年(1664)幕府と本多正貫・同夫人の支援のもと、覚雲西堂により現在の地に再建された。
 本堂は英照皇太后御大葬の御須屋を賜ったものであり、書院は伏見桃山城の遺構の一部である。

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泉涌寺 法音院

■08 善能寺 善能寺は、泉涌寺総門をくぐり、そのまま大門の方へ右折せずに参道を直進すると左手下側に見えてくる。泉涌寺の中には入らず(伽藍拝観料を払わずに)鎮守社脇の石段を下ると左側に善能寺 右側に来迎院の門が現れる。

 善能寺は、もともと八条油小路にあり二階観音堂とよんでいたが、弘仁14年(823)弘法大師が稲荷大明神を祀る寺(日本で最初に祀られた稲荷大明神)として善能寺と号した。その後、 天文20年(1551)、後奈良天皇により泉涌寺の護持院として今熊野観音寺の西北(現在地は今熊野観音寺の南東にあたる)に移された。明治維新を経て荒廃し、明治20年(1887)再興の時に現在の地に移された。
 本堂・祥空殿は昭和46年(1971)北海道横津岳で遭難したばんだい号の遺族の方により、 全ての航空殉難者の慰霊と事故根絶を祈願されて建立された。

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泉涌寺 善能寺
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泉涌寺 善能寺

■09 新善光寺 総門をくぐり泉涌寺道の左側、戒光寺、泉山幼稚園に続いて新善光寺が現れる。

 値願念西が寛元元年(1243)歓進し、一条大宮に後嵯峨天皇の御願寺を創建した。勅命により信濃善光寺本尊と同体の全銅阿弥陀如来立像を鋳造して本尊とし、この寺を新善光寺と名づけた。
 南北朝から室町時代には庶民の崇敬を受け、寺勢は盛んであった。しかし応仁の乱で焼失したため、文明5年(1473)泉涌寺山内に移建。寛文年間(1661~1673)に入り、孤雲正瑞によって再興された。

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泉涌寺 新善光寺と泉山幼稚園へ
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泉涌寺 新善光寺

■10 楊貴妃観音堂 大門を入りすぐ左手を入ると楊貴妃観音堂と寺宝を護る心照殿とその庭がある。

 湛海律師が建長7年(1255)に中国より聖観音像と六羅漢像を持ち帰り、この地に安置した。その美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造らせた像という伝承が生まれ、楊貴妃観音と呼ばれるようになった。

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泉涌寺 楊貴妃観音堂と心照殿
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泉涌寺 心照殿の庭
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泉涌寺 心照殿の庭

 1月の成人の日には「泉山七福神巡り」が行われる。

 京都泉涌寺七福神巡り
   一番・・・福禄寿  即成院
   二番・・・弁財天  戒光寺
   三番・・・恵比寿神 観音寺
   四番・・・布袋尊  来迎院
   五番・・・大黒天  雲龍院
   六番・・・毘沙門天 悲田院
   七番・・・寿老人  法音院

「泉涌寺 塔頭」 の地図


大きな地図



泉涌寺 塔頭 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  泉涌寺 即成院 34.9816 135.7773
02  泉涌寺 戒光寺 34.9809 135.7781
03  泉涌寺 今熊野観音寺 34.9797 135.7812
04  泉涌寺 来迎院 34.979 135.7807
05  泉涌寺 雲龍院 34.9771 135.7801
06  泉涌寺 悲田院 34.9794 135.7768
07  泉涌寺 法音院 34.9808 135.7774
08  泉涌寺 善能寺 34.9786 135.78
09  泉涌寺 新善光寺 34.9803 135.779
10  泉涌寺 楊貴妃観音堂 34.9786 135.7792

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