醍醐三宝院
醍醐三宝院(だいごさんぼいん) 2008/05/11訪問
永久3年(1115)醍醐寺14代座主勝覚が創建。当初は灌頂院と称したが、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改められた。康治2年(1143)に鳥羽上皇御願寺となる。鎌倉から南北朝時代にかけて、7世成賢・11世憲深・21世賢俊と高僧を輩出し、足利尊氏から厚く保護された。当時の三宝院は現在の総門の脇ではなく、西大門の内、その北側にあったようだ。
特に足利義満の猶子となった25世満済は、応永3年(1396)に醍醐寺座主に任じられ、続いて准三后となった。准三后とは太皇太后、皇太后、皇后の三后に准じた貴族の称号で、宣下されると臣下でありながら皇族あつかいとされる。公卿、将軍家、高僧に与えられた。
満済は足利義教の将軍擁立にも活躍し、内政・外交などの幕政に深く関与してきたため黒衣の宰相とも呼ばれた。満済以降、三宝院の歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる慣例が成立した。
三宝院でいただいたしおりには「醍醐寺中の本坊的な存在」とあるのはこのあたりのことのようだ。
応仁の乱で五重塔を除き下醍醐はほぼ焼失し、三宝院も廃寺同然となる。豊臣秀吉の信頼に厚い醍醐寺金剛輪院院主 義演は、慶長3年(1598)有名な醍醐の花見を開き、秀吉の許可を得て三宝院32世を継ぎ、金剛輪院を三宝院と改称する。さらに秀吉・秀頼親子の援助を受けて三宝院の復興を図った。
三宝院庭園は、醍醐の花見に際して、豊臣秀吉が自らが基本設計を行ったものである。作庭は醍醐の花見が終わった4月から始められ、8月に秀吉が死去した後も義演の指導のもとで続けられた。秀吉の基本設計をもとにさらに構想を発展させ、当時一流の庭師 賢庭などを作庭に加えた。義演が亡くなる元和10年(1624)までの27年間にわたった続けられた。
当初、三宝院庭園は表書院から眺めるための鑑賞式庭園として設計されたが、義演の死後に庭園内に茶室 枕流亭が置かれ、回遊もできるように造り変えられた。庭園の中心を占める池には鶴島・亀島が配され、橋が架けられている。正面に据えられている藤戸石は、元々は管領家の細川氏の邸宅にあったもので、秀吉が聚楽第から運ばせたものである。背後には水の音が変化するようにしつらえられた三段の滝石組が造られている。
さて三宝院は、Wikipediaにも書かれているように、庭園を含めて撮影禁止となっているため掲載できるものはありません。Web上にもなかなか参考となる写真がない。ここはやはり醍醐寺の公式HPを参照するしかないだろう。
大玄関を入り、葵の間、秋草の間を通る。この部分は唐門の正面にあたり、勅使の間が続く。唐門から入った賓客は左に庭を眺めながら、中門をくぐりこの三間に通されるのだろう。拝観順路では初めて庭の見える国宝 表書院の縁側に出て左側から庭を見ていく。
正面右に鶴島 左に亀島が置かれている。どちらの島にも松が植えられている。
池の手前には賀茂の三石とよばれる異なった色と形の石が三つ並べられている。加茂川の流れの三態を表現している。
2つの島の対岸に置かれた藤戸石はこの庭の中心となり、阿弥陀三尊を表している。
藤戸石の左手には三段の滝が築かれ、池に水を注ぎ込んでいる。
そして最も左に茶室 枕流亭が築山の上に造られている。
以上が表書院から見た三宝院庭園の構成である。一見山麓の地形を活かした高低差のある庭に見えるが、実際には三段の滝の裏は、醍醐寺の参道である。ただしそのようなことを感じさせないような雄大さを感じさせる。このあたりが完成時期は江戸時代となったが桃山時代の庭園の雰囲気を現している。
藤戸石は「天下石」とも言われる石で、その由来は謡曲藤戸とその舞台となった藤戸の戦いにある。
寿永3年(1184)ノ谷の戦いで敗れた平氏は西へ逃れる。もとより平氏は瀬戸内方面を経済基盤としており、瀬戸内海の制海権を握っていた。一方、安芸国まで軍勢を進出させた源氏は、屋島から兵船で攻め出た平氏軍に兵站を分断され、それ以上西国への追討が出来ない状況にあった。水軍を持たない源氏軍にとって、水軍の確保が大きな課題となった。
山陽道を西に進む源氏軍を迎え撃つため、平行盛は備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵に城郭を構えている。追討軍の佐々木盛綱は城郭を攻め落とすため、約500メートルの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)の浜辺より、波濤が激しく渡るのが困難と思われた海峡を馬に乗ったまま押し渡り、行盛を追い落としたと言われている。平氏軍は讃岐国屋島へ敗走している。
謡曲藤戸は室町時代に世阿弥により作られている。佐々木盛綱は浅瀬を教えてくれた地元の漁師を、先人の功を他の者に奪われることを恐れ、殺してしまう。この戦さの後、盛綱は児島に所領を与えられる。領地に赴いた盛綱に殺害された漁師の老いた母親が恨みを訴える。かつての殺害を後悔した盛綱は漁師の法要を営むと、漁師の亡霊が現れる。漁師は盛綱に祟りを及ぼそうとするが、恨み言を繰り返しつつ盛綱の供養に満足し成仏するという話しである。
この能を見た第3代将軍足利義満は感激し、漁師が沈められたという「浮き州岩」を都へ運ばせたのが藤戸石の始まりである。豊臣秀吉が聚楽第の庭に据え、後に醍醐寺三宝院へ移した藤戸石が、もし同一のものとすると、足利義満から義政の東山殿へ移され、義政の死後、細川藤賢邸に現われ、それを織田信長が第15代将軍足利義昭のために造営した二条邸に運び込んでいる。これを豊臣秀吉が聚楽第の庭に移している。そして慶長3年(1598)造営中だった醍醐寺三宝院庭園の主人石として据え、現在に至っている。細川藤賢邸から三宝院の間は記録として残されているようだが、それ以前は根拠の薄い推測に過ぎないかもしれないが、足利義満、義政、義昭そして織田信長、豊臣秀吉と天下人の間を流転した石だとしたら、まさに天下石と呼ばれるに値する石である。
表書院には坪庭をはさんで純浄観と奥宸殿がつながれている。純浄観は秀吉が檜山で花見したときの建物を移築したものと言われている。奥宸殿は江戸初期の建築。床の間の醍醐棚は修学院離宮の霞棚、桂離宮の桂棚とならび天下の三大名棚とされている。
純浄観からは本堂の脇に造られた有名な苔庭が見える。白砂の上に苔地で瓢箪、盃、酒を表現している。このグラフィカルな表現は村野藤吾の佳水園にも転用されている。
中根金作の醍醐寺三宝院庭園の構造と作庭手法には昭和37年に行われた修理工事の際に行われた調査から分かることが書かれている。専門的な論文ではあるが、醍醐寺と三宝院そしてこの庭の成り立ちについての要点がまとめられている。現在の三宝院の庭園はもとの金剛輪院の庭の上に追加されて作庭されたこと、そしてそれが問題で庭の崩壊が起こっていることが述べられている。表書院の正面となる鶴島・亀島から西側、すなわち庭に向かって右側が新たに拡張された部分であるようだ。
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