徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

六孫王神社



六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ) 2008年05月18日訪問

画像
六孫王神社 唐門

 島原の町並みを抜け出し、七条通に出る。七条大宮の交差点から大宮通を南に下ると、右手に梅小路公園の緑地、左手に京都駅の巨大な壁面が現れる。JRの高架下を潜り、八条通で右折し東海道本線の高架を見ながら西に進むと右手に六孫王神社の入口が唐突に現れる。
 本殿に源経基を、相殿に天照大神、八幡大神を合祀している。源経基は清和天皇の第六皇子貞純親王の子であり、天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれ、その嫡子で六孫王神社を創建した源満仲が清和源氏の武士団を形成したことから、「清和源氏発祥の宮」を称している。また兵庫県川西市の多田神社、大阪府羽曳野市の壺井八幡宮と共に源氏三神社の一つとされている。

画像
六孫王神社 温泉町の入口のような門
画像
六孫王神社 石造りの一の鳥居 右手は六孫王会館

 保元物語では、源経基の父は清和天皇の第6皇子貞純親王で、母は右大臣源能有の娘とされているが、生誕は明らかではない。経基が皇族に列していた時には、六孫王と名乗ったとされているが、これも当時の文献には残されていないようだ。

 経基は天慶2年(939)2月に武蔵介となり現地に赴任する。同じく武蔵権守として赴任した興世王と共に検注を実施する。検注とは荘園公領制下の土地調査のことで、近世の検地にあたる。この地の豪族・武蔵武芝は、「武蔵国では正官の守の着任前に権官が国内の諸郡に入った前例はない」と検注を拒否している。武芝は足立郡司で判代官でもあり、経基らの行為が収奪を目的としていると察したようだ。これに対して経基らは兵を繰り出し、武芝の郡家を襲い財産を没収している。
 襲撃された武芝は山野に逃亡した後、平将門に調停を依頼している。将門は私兵を伴いが調停に乗り出すと、経基たちは比企郡の狭服山へ立て篭もり軍備を整える。この後、興世王は山を降りて武蔵国府において将門・武芝と会見し、和議を結ぶ。しかし経基は、武芝の兵に包囲されたために、将門に殺害されると思い京へ逃げ帰っている。そして将門、興世王そして武芝が謀反を共謀していると朝廷に誣告する。
 将門らは同年5月に常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を太政大臣で将門の主人である藤原忠平へ送っている。将門らの申し開きは認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁されてしまう。

画像
六孫王神社 二の鳥居

 承平天慶の乱あるいは平将門の乱と呼ばれる紛争は、承平5年(935)源扶、源隆、源繁三兄弟との争いのように同族内の私闘から始まっている。しかし経基の誣告の後、今度は常陸国の藤原玄明を匿ったことから、玄明の引き渡しを求める常陸国府との間で武力衝突が発生する。天慶2年(939)11月、将門は常陸国府を占領すると、その後も次々と国府を襲撃している。同年12月に上野国府にて新皇を自称するに至る。翌天慶3年(940)1月9日には、以前の密告が現実になったことから、源経基は従五位下に叙される。そして参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、討伐軍長官として出立すると、経基もその副将の一人に任ぜられる。しかし忠文と経基が関東に到着する前の2月14日、将門は藤原秀郷、平貞盛らにより討伐される。再び翌天慶4年(941)追捕凶賊使となり、小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧されている。その後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰める。

 晩年、経基は臣籍降下を命じられたことに憤慨していたとされているが、果たして皇族であった時期があったかどうかは明確ではない。

画像
六孫王神社 拝殿

 六孫王神社が鎮座する地は、かつて源経基の邸宅・八条亭の跡地である。応和元年(961)経基は応和元年(961年)「龍神となり邸内の池に住み、子孫の繁栄を祈る」という遺言を残している。応和3年(963)嫡子の満仲は、この地に経基の墓所を建立し、社殿を造営している。これが六孫王神社の創建である。り、現在も本殿後方に経基の石積の廟がある。
 鎌倉時代に入ると、源実朝の妻本覚尼が暗殺された夫を弔うために遍照心院(大通寺)を建立し、六孫王神社を鎮守社として再建している。
 足利尊氏・義満の崇敬も篤かった大通寺も、応仁の乱などの戦乱により社殿を失い神廟だけとなる。その後も織田氏、豊臣氏の崇敬を受け、江戸時代に入り元禄13年(1700)から江戸幕府により再興が進められている。これは徳川家が清和源氏の末裔を自称していたためである。翌元禄14年(1701)には正一位の神階と権現号を授けられ、宝永年間(1704~1710)に社殿が再建された。今も例祭には宝永祭という名称が受け継がれている。この時期、大通寺には多くの塔頭が建立され、西は朱雀通、東は大宮通、北は塩小路、南は八条通を境とする広大な境内であった。
 しかし江戸幕府の滅亡とともに衰微し、神仏分離により大通寺と分離している。明治44年(1911)国鉄の鉄道用地となったため大通寺は東寺の南、大宮通九条下ルの南区西九条比永城町に移転している。

画像
六孫王神社 龍神池に掛かる反り橋
画像
六孫王神社 龍神池の北にある弁財天社

 境内中央の池が八条亭の池とされ、神龍池という。その北にある井戸は、満仲の産湯に使われたことから義仲の誕生水と称されている。井戸の上に琵琶湖の竹生島から安産を祈願して勧請した弁財天社が置かれている。

画像
六孫王神社 拝殿から龍神池を眺める

「六孫王神社」 の地図





六孫王神社 のMarker List

No.名称緯度経度
 六孫王神社 34.9846135.7449
01  東寺 34.9803135.7476
02   大通寺 34.9782135.7494

「六孫王神社」 の記事

「六孫王神社」 に関連する記事

「六孫王神社」 周辺のスポット

    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 

サイト ナビゲーション

過去の記事

投稿カレンダー

2010年4月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

カテゴリー