西賀茂の町並み
西賀茂の町並み(にしかものまちなみ) 2008年05月19日訪問
西村家別邸を出て、西賀茂の正伝寺を目指して藤木通を西に進み始める。上賀茂神社の前を通り過ぎ、御薗橋を渡り賀茂川の西岸に入る。川岸より1本西側の道をやや北上し、左折する。大宮小学校の北側を通り抜けると、神光院前の交差点に出る。道路から奥まった参道まで続く樹木の新緑が美しかったので山門の近くまで入っていく。丁度、植木の手入れが入っていた。
神光院は真言宗系の単立・別格本山で山号は放光山。真言宗弘法大師の霊場で、東寺、仁和寺と共に京都三弘法の1つ。御所に奉納する瓦製作の職人の宿所に使用されたことから瓦屋寺と呼ばれていた。弘法大師が42才の時、池に自らの姿をうつして自像を刻み、諸病災厄除を誓願したと言われている。現在神光院の本堂に安置されている本尊・弘法大師座像は、この像であると伝えられている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会でも
「西加茂神光院は開基弘法大師にして、自作の像を安ず。〔四十二歳の像なり、世に厄除大師と称す〕
本尊愛染明王は弘法の作なり。」
と記されているが、弘法大師座像と愛染明王坐像は別のものであるから、どこかで誤りがあったのかもしれない。空海は宝亀5年(774)に生まれていることから、上記の言い伝えは弘仁7年(816)頃のこととなる。
先の弘法大師の言い伝えから時代が下り、建保5年(1217)上賀茂神社の社務職を務める松下(賀茂)能久が、加茂明神より「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、大和三輪の慶円上人を請じて一宇を建立している。こちらが実質的な創建と考えられる。山号寺名の放光山神光院はこの霊夢によっている。密教の道場として栄えてきたが、天保年間(1830~43年)に災火により堂宇を焼失し、明治初年には廃寺となる。明治11年(1878)に和田月心により再興され、以後書院等が整備され、現在に至っている。
また、山門を入った左側の茶室は蓮月庵と言い、女流歌人・大田垣蓮月(俗名・誠)が慶応2年(1866)76才から明治8年(1874)85才で亡くなるまでの10年間を隠棲した草庵である。
蓮月は寛政3年(1791)に伊賀国上野の城代家老藤堂良聖の子として京都に生まれる。生後10日で京都知恩院門跡に勤仕する山崎常右衛門(後の大田垣光古)の養女となる。誠の生母は主産後、丹波亀山藩士の妻となったことから、誠も寛政10年(1798)頃より丹波亀山城にて御殿奉公を10年ほど続けている。亀山での奉公を終えた文化4年(1807)頃、蓮月は同じく光古の養子となった望古と一度目の結婚し、一男二女が生まれる。しかし、いずれも成長することなく幼くして亡くなっている。そして文化12年(1815)には夫の望古も亡くなる。文政2年(1819)誠は新たに大田垣家の養子となった古肥と再婚する。古肥との間には一女が生まれるが、文政6年(1823)に2人目の夫と死別することとなる。誠は養父光古と共に剃髪し、誠は蓮月と光古は西心と号する。
その後も不幸が蓮月を襲う。4人の子供の内、ただ1人残った古肥との間の女児が亡くなり、その二年後には養父西心まで亡くなる。天涯孤独になった蓮月は生まれ育った知恩院を去り、岡崎村を始めとし住居を転々とし、慶応2年(1866)に神光院に居を定める。
蓮月は国学者の六人部是香、雨月物語の作者で国学者であり歌人でもある上田秋成、歌人の香川景樹に学び、小沢蘆庵にも私淑している。歌友に村上忠順・橘曙覧・野村望東尼・高畠式部・上田ちか子・桜木太夫などがいる。蓮月は岡崎に移った頃より陶芸により生計を立てている。自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りで施している。これらは蓮月焼と呼ばれ、贋作が出回る程の人気を博している。晩年の蓮月は、富岡鉄斎を侍童として共に暮らしている。たびたび起る飢饉の時には、私財を投げ打ち鴨川に丸太町橋を架けるなど慈善活動を行っている。
お寺の風景と陶芸 には、神光院の境内と蓮月庵の様子が分る写真が掲載されているのでご参照下さい。
神光院の境内には、きうり塚がある。土用の丑の日にはきゅうり封じ、あるいは胡瓜加持と呼ばれる密教秘法が行われる。病名を記入した紙で胡瓜を包み疫病除け祈祷を行ってもらう。家に持ち帰り身体の悪いところを撫でて、土に埋めるか川に流すと病気が失せると伝わる。
境内自由のようだったが、時間の余裕がなかったので、次回訪問することとして正伝寺に向うこととする。
神光院の前に大将軍神社の駒札が立つ。大将軍神社は西賀茂の産土神で、主祭神磐長姫命ほか4柱を祀る。創建と由緒については明らかではない。桓武天皇の平安遷都に際して都の四囲に大将軍神社を祀った。
岡崎神社の項でも触れたように、東は岡崎にあったとされている。西は紙屋川、南は所在不明で現在は藤森神社の境内に置かれている。これは当初の平安京にしては南過ぎる。そして北は紫野大徳寺の門前にあったものを今宮神社に紫野大将軍社として移したとしている。そしてこの角社の地にも大将軍神社があるから話しが複雑になる。この大将軍社以外にも創建については、推古天皇17年(609)西賀茂にあった瓦窯で働いていた人々の瓦屋寺の鎮守社として創建されたとも言われる。現在の本殿は、天正19年(1591)に造営された上賀茂神社摂社片岡神社の本殿を寛永5年(1628)から同13年(1636)の間に移建したものである。
神光院から正伝寺に向うため西北に道をとりながら進むと、山を背にして建つ法雲寺の前に出る。そのまま北に進むと正伝寺の駐車場と山門が現れる。
一昔前の西賀茂は、大きな畑の中に民家が点在する町並みだったのであろう。これらの畑が失われ、新しい住宅が建ち始め、今では住宅地の中に畑が残る状況になっている。それでも正伝寺あたりまで来ると比較的大きな農地が残っている。収穫した玉葱を入れた籠をいくつも荷台に載せたトラックを見かけた。
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