藤森神社
藤森神社(ふじのもりじんじゃ) 2008/05/11訪問
17時に醍醐寺は閉門となったため、醍醐寺を後にし京都市営地下鉄東西線醍醐駅を目指して歩く。随心院の項で書いたように、東西線の走るあたりを谷としてその東側は少し高くなっている。そのため緩やかな下り道ということになる。醍醐駅から六地蔵駅まで戻り、六地蔵駅から京阪電鉄に乗り換え、墨染駅で下車する。伏見街道を北上し藤森神社を目指す。
神功皇后3年(203)、三韓征伐から凱旋した神功皇后(仲哀天皇の后)が、山城国・深草の里の藤森に軍旗の中で一番大きい旗(纛旗 とうき)を立て、武具を塚に納め神祀を行ったことが藤森神社の発祥である。本殿東に旗塚がその塚である。また延暦13年(794)、桓武天皇より弓兵政所の称が授けられ、遷都奉幣の儀式が行われた。
当初の祭神は、現在本殿に祀られている素盞鳴命・別雷神・日本武尊・応神天皇・仁徳天皇・神功皇后・武内宿禰の7座であった。
その後、永享10年(1438)に崇道尽敬皇帝(舎人親王)とその父 天武天皇を祀る神社を合祀し東殿(藤尾社)とし、同様に文明2年(1470)に早良親王、伊豫親王、井上内親王を祀る神社も合祀し西殿(塚本社)としている。
そのため現在の藤森神社の祭神は12柱となる。
藤森神社の公式HPを読む限り、近郷の社がこの地に合祀された理由を理解することは困難である。東殿については、後花園天皇の勅により足利義教が山頂の稲荷の祠を藤尾の地に移すため、天平宝字3年(759)より深草の藤尾(現在の伏見稲荷)に鎮座していた社を藤森神社に遷座したという説明がある。また西殿についても、延暦19年(800)に早良親王を祀る神社として塚本の地(東山区本町16丁目)に建立されたが、度々の火災にあい、深草極楽寺南の地に小天皇と称して祀られていたことを経て、応仁の乱の後、藤森に移されたとある。 また東殿は日本書紀の撰者であり文武に優れた舎人親王を祀り、皇室や藤原一門の崇敬も厚く、貞観2年(860)には清和天皇の宝祚に際し奉幣の神事が行われている。
これに対して西殿の早良親王は造長岡宮使 藤原種継暗殺事件に連座し捕らえられ、淡路国に配流の途中憤死している。
伊豫親王も謀反の疑いをかけられ、自害。後に無実であることが認められている。
井上内親王は夫 光仁天皇を呪詛したちう疑義がかけられ、皇后を廃され幽閉の後、不自然な死を迎えている。このように上御霊神社にも祀られている早良親王、井上内親王を含んでいることからも西殿には怨霊を慰めるという目的もあるのだろう。藤森神社のHPには、このあたりの経緯には触れず、蝦夷で反乱が起こったので征討将軍として当神社に詣で戦勝を祈願されたとあるという関係性のみを説明している。
現在も伏見稲荷大社周辺の住民が藤森神社の氏子であることを含め、伏見稲荷大社や城南宮の真幡寸神社との関係について多くの疑問点があり、創建にまつわる諸説が語られることとなっている。
本殿は宮中賢所の建物を正徳2年(1712)に賜ったもので、現存する賢所としては最古のもの。その他に重要文化財八幡宮社、大将軍社等の建造物がある。境内には名水 不二の水が湧き出し、この水を汲むためにペットボトルを持った人が多く見かける。
毎年5月5日に菖蒲の節句発祥の祭として知られる藤森祭が行われる。
尚武は菖蒲とともに勝負に通じるといわれ、勝運をよぶ神として信仰を集めている。また舎人親王を御祭神としてお祀りしていることから学問の神としての信仰も深い。
訪問から約1年後の5月5日にやっと書き上げることができました。
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