大徳寺 興臨院
大徳寺 興臨院(こうりんいん) 2008年05月19日訪問
龍源院を出て、勅使門まで戻ると興臨院の表門が左手に見えてくる。興臨院は通常非公開寺院であるが、春と秋に特別公開が行われるので、丁度訪問した時が幸運にも春の特別公開日に入っていたのだろう。
興臨院は大永年間(1521~1528)あるいは天文年間(1521~1533)に、能登の守護・畠山義総が、自らの法名・興臨院殿伝翁徳胤大居士を寺号として建立している。
畠山義総は能登畠山氏の第7代当主で、能登畠山氏の全盛期を創出した名君として知られる。延徳3年(1491)能登畠山氏の第5代当主・畠山慶致の子として生まれる。祖父であり第3代当主であった畠山義統が明応6年(1497)死去すると、畠山氏は内紛が生じる。第4代当主・畠山義元は追放され、第5代当主として義総の父・慶致が擁立される。しかし永正3年(1506)再び義元が第6代当主として復帰し、慶致は隠居、義総が義元の養子となり後継者に指名される。その後は義元と共同統治を行ない、一向一揆の鎮圧、畠山家当主の権力強化を図り、守護大名から戦国大名へと変わっていく。永正12年(1515)の義元の死去により、第7代当主となる。義総は積極的な国作りを行なうと共に、居城を七尾の城山に移している。この七尾城は、天正4年(1576)上杉謙信の猛攻(七尾城の戦い)を受けても1年以上耐え切った堅城である。
また義総は優れた文化人でもあり、戦乱を逃れて下向してきた公家や連歌師などの文化人を積極的に保護している。商人や手工業者にも手厚い保護を与えたことにより、義総治世の七尾城下町は小京都とまで呼ばれるほどに発展したとされている。
天文14年(1545)畠山家本家の畠山稙長が死去する。義総は畠山氏統一を目指すものの、自身も同年に55歳で病没する。義総の時代は、能登畠山氏の全盛期であり、死後は重臣たちの主導権争いが始まり、畠山氏は急速に衰退していく。
興臨院の開山は大徳寺86世小渓紹ふ(付の下に心 仏智大通禅師)である。茶の湯の楽しみ に掲載している 大徳寺 世譜 によると、小渓は龍源院の開山である大徳寺72世東溪宗牧の法嗣・79世悦溪宗忢の弟子に当たるため大徳寺北派の龍源院の流れに属する。小渓和尚は文明6年(1474)美濃国に生まれている。大永5年(1525)51歳で大徳寺86世になり、享禄5年(1532)後奈良院より仏智大通禅師を賜る。天文5年(1536)62歳で亡くなるが、その教えを受け継ぐものとしては、龍源門下で瑞峯派の開祖となる91世徹岫宗九、93世清菴宗胃、そして龍源門下で玉雲派を開祖する94世天啓宗〓(垔欠)などの名が並ぶ。
上記のことから、興臨院は畠山義総と小渓紹ふが存命であった天文年間(1521~1533)の初期に創建されたと考えられる。以後、能登畠山家の菩提寺となる。創建直後に本堂を焼失するが、天文初年(1530~1540)には再建されている。
そして拝観の栞によると天正9年(1581)加賀藩主前田利家によって屋根が修復され、以後、前田家の菩提寺となる。前田利家が能登23万石を領有する大名として七尾城主となったのも同じ天正9年(1581)のことであった。そして翌年には港湾部の町から離れた七尾城を廃城にし、港を臨む小山を縄張りして小丸山城を築城している。
興臨院の表門は檜皮葺一間一戸の平唐門で、天文年間(1521~1533)の創建当時の遺構である。この表門から続く方丈玄関を含む方丈と共に重要文化財に指定されている。通常唐門というと豪華な唐破風が正面に据えられた向唐門を想像するが、こちらは側面に唐破風を設けた平唐門である。興臨院の表門は2本柱の上に屋根を載せたシンプルな構成であるため、正面からは柔らかな曲線を持つ浅い勾配の質素な門という印象を受ける。
表門を潜ると方丈玄関へつながる敷石が直進する。途中で一回屈折し、檜皮葺の唐門の玄関まで拝観者を導く。ただし玄関から方丈へ入ることは出来ず、その手前の庫裏の玄関で拝観を申し出る。この庫裏は昭和50年(1975)から3年間に渡って行われた方丈、玄関そして表門の解体修理の際に新築されている。庫裏から方丈南庭に進む。
蓬莱山形式の枯山水式庭園。矩形の南庭の白砂に、南西から中央部にかけて築山が作られている。
天台山は中国浙江省中部の天台県にあり、最高峰の華頂峰を中心に洞栢峰・仏隴峰・赤城峰・瀑布峰などの峰々が存在する中国三大霊山の一つである。ここには中国天台宗の開祖智顗が開創した国清寺がある。興臨院の方丈前庭は、唐時代の国清寺に暮らしていたと言われる伝説的な僧・寒山と捨得の蓬莱世界を表したとされている。有髪でボロボロの衣を着た寒山と捨得の姿は禅画の画題とされている。東京国立博物館には風狂の表現というよりは怪異さを持つ伝顔輝筆の寒山拾得図がある。庭の南西隅の石組を天台山と見立て、その手前に置かれた2つの立石と横に渡された平石で玉澗式の橋を表現している。この庭は方丈の解体修理の時に資料を基に復元されたものである。
方丈の建物は檜皮葺一重入母屋造で、既に記述したように創建当時の建物は焼失し、天文初年(1530~1540)に再建されたものである。方丈は6室で構成されている。南面には西より檀那の間(東の間)、室中、礼の間(西の間)が並ぶ。北面には西より衣鉢の間、仏間と眠蔵、書院の間の3室がある。
室中の上部は、「響き天井」となっており、下で手を叩くと音が反響する。
方丈南庭から西庭につながるが斜めに延段が走るため、2つの庭は意識的には分離されている。これは庭の南西に建てられた堂宇とその裏にある墓所への路地であろう。西庭は白砂より苔地の面積が増えてくる。所々に配された井戸や石燈籠、石組が単調なイメージに陥ることを辛うじて防いでいる。この庭には境内には、貝多羅樹が植えられている。ヤシ科のオウギヤシで、葉の裏に竹筆や鉄筆などで文字を書くと跡が黒く残る。このため、古代インドでは写経の際に紙の代用にした。
方丈北側に廻ると庭は一層自然さを増してくる。方丈の北東にある茶席・涵虚亭は、中国北宋代の政治家であり詩人の蘇東坡の詩から名づけられている。古田織部好みの四帖台目となっている。
「大徳寺 興臨院」 の地図
大徳寺 興臨院 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 大徳寺 興臨院 方丈 | 35.0424 | 135.7453 |
02 | ▼ 大徳寺 興臨院 南庭 | 35.0423 | 135.7452 |
03 | ▼ 大徳寺 興臨院 西庭 | 35.0424 | 135.7451 |
04 | ▼ 大徳寺 興臨院 北庭 | 35.0425 | 135.7452 |
05 | 大徳寺 興臨院 涵虚亭 | 35.0425 | 135.7454 |
06 | 大徳寺 龍源院 方丈 | 35.0421 | 135.746 |
07 | ▼ 大徳寺 勅使門 | 35.0424 | 135.7461 |
08 | ▼ 大徳寺 三門 | 35.0426 | 135.7461 |
09 | ▼ 大徳寺 仏殿 | 35.0431 | 135.7461 |
10 | ▼ 大徳寺 法堂 | 35.0435 | 135.746 |
11 | ▼ 大徳寺 本坊方丈 | 35.044 | 135.7464 |
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