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大徳寺 瑞峯院



大徳寺 瑞峯院(ずいほういん) 2008年05月19日訪問

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大徳寺瑞峯院 方丈南庭 独坐庭 玄関側から眺める

 興臨院を出て、南隣の瑞峯院を訪れる。瑞峯院は常時公開されている4つの塔頭のひとつである。
 瑞峯院は大友宗麟が帰依していた大徳寺91世徹岫宗九を開祖に迎え、自らの菩提寺として創建している。瑞峯院という寺号は宗麟の法名・瑞峯院殿瑞峯宗麟居士から名付けられたもの。

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大徳寺瑞峯院 表門
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大徳寺瑞峯院 庫裏の花頭窓が見える

 大友宗麟は大友氏第21代、豊後の戦国大名でキリシタン大名として有名である。享禄3年(1530)大友義鑑の嫡男・義鎮として生まれる。天文19年(1550)義鑑が異母弟の塩市丸に家督を譲ろうと画策すると、これを察した義鎮派重臣が二階崩れの変を起こす。塩市丸と生母は死亡、重症を負った義鑑も数日後に死去することで、大友氏の家督は義鎮が継承する。
 翌天文20年(1551)周防の大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴英を大内家の新当主・大内義長として送り込む。室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打つことができた。これにより北九州における大内家に服属する国人が同時に大友家にも服属することになり、大友氏は周防・長門方面にも影響力を確保した。しかし領内では菊池義武、一萬田鑑相、小原鑑元などの反乱が天文23年(1554)から弘治2年(1556)の間に生じている。
 義鎮がキリスト教との出会いは、天文20年(1551)豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルを引見したことから始まる。そして27年後の天正6年(1578)にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。そして領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。天文20年(1551)は自分を廃嫡にしようとした父義鑑が亡くなり、家督を相続した頃でもあり、その後の義鎮の苦難の時がキリスト教への傾斜を強めることになったのだろうか?しかし大友家臣団の宗教対立に結びついていったことは確かである。
 弘治3年(1557)大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害する。大内氏の滅亡により大友氏の周防方面への影響力は失われる。そして元就の北九州進出に伴い、義鎮は毛利氏との対立を決意し北九州の制圧に着手する。永禄2年(1559)室町幕府第13代将軍・足利義輝に多大な献金運動を行い、豊前国・筑前国の守護に任ぜられると共に九州探題に補任、左衛門督に任官している。足利将軍家を通じて毛利氏との和睦交渉の調停を依頼している。

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大徳寺瑞峯院 表門脇にある井戸
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大徳寺瑞峯院 庫裏の前に置かれた石燈籠

 このように義鎮は名実共に九州に置ける最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を創出し、永禄5年(1562)に出家し休庵宗麟と号している。しかし永禄10年(1567)より再び行われた毛利氏の北九州進攻を抑える一方、天正5年(1577)から島津義久の日向侵攻を迎え撃つこととなる。そして天正6年(1578)耳川の戦いで島津軍に大敗すると、大友氏の衰退を止める事は出来なくなる。宗麟がキリスト教の洗礼を受けるのは、まさにこの時であった。天正14年(1586)宗麟は天下統一を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して支援を要請する。そして天正15年(1587)秀吉の九州征伐により各地で島津軍は破られていく。宗麟は九州征伐の中で病に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後国津久見において58歳で病死している。
 九州6ヶ国を平定した宗麟は、一時は九州最強の大名となった。しかし毛利元就との戦いで消耗し島津義久に敗れたことで、豊臣秀吉傘下の一大名に転落している。そして豊後1国を維持するまでに衰退している。

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大徳寺瑞峯院 方丈玄関の唐門

 瑞峯院の方丈は天文4年(1535)に建設されたことから、これを瑞峯院の創設とする記事も見られる。享禄3年(1530)生まれの宗麟は、この時まだ5歳でしかなく当然家督も相続していない。瑞峯院の拝観の栞にも、大友宗麟が大徳寺91世徹岫宗九を開祖として創建された寺院であることと、方丈は天文4年(1535)に建造されたことが記されている。しかしこの栞には天文4年(1535)創設とは書かれていない。

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大徳寺瑞峯院 方丈から独坐庭を眺める
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大徳寺瑞峯院 方丈玄関から独坐庭を眺める

 開祖である徹岫宗九は文明12年(1480)近江に生まれ、大徳寺86世で興臨庵の開山である小渓紹ふ(付の下に心)に師事している。その後、徹岫は大徳寺91世となり、後奈良天皇の帰依を受けている。諡号は仏徳大用禅師、普応大満国師。弘治2年(1556)77歳で死去している。

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大徳寺瑞峯院 生垣で作られた層が見える

 檜皮葺切妻造の四脚門を潜ると、方丈玄関に続く路地は庫裏の手前で左に大きく折れる。L字型に植えられた生垣、庫裏の花頭窓、石燈籠や井戸そして樹木などが拝観者を方丈玄関へ招き入れてくれる。正面の唐門手前の庫裏入口から入り、方丈に進む。瑞峯院も表門、方丈玄関の唐門そして方丈が国の重要文化財に指定されている。
 瑞峯院には方丈南庭の独坐庭、北庭の閑眠庭そして2つの間にある茶庭の3つの庭がある。これらは京都林泉協会の創立30周年記念事業の一環として重森三玲によって昭和36年(1961)に作庭されている。

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大徳寺瑞峯院 独坐庭
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大徳寺瑞峯院 方独坐庭を横切る石橋と飛び石

 独坐庭の名の由来は、唐時代の禅僧・百丈懐海の禅語「独坐大雄峯」に因っている。これは「この世で一番ありがたいのは何ですか」という僧の問いに対する百丈の答えである。大雄峯は百丈禅師が住している寺のことであり、「ここに独り坐っていることが一番ありがたい」としている。
 独坐庭は寺号の瑞峯を主題とした蓬莱山式庭園として造られている。西南の角に巨石を立て、下部の石組群は東部に向かって細長い苔地の出島を伝い、白砂の中に細長く突出させている。そして離れた一石を岩島に見立てている。
 独坐庭の南側の塀が比較的低いため、塔頭の大慈院側には生垣が作られている。また築山部分には瑞峯院側にも生垣が設けられている。方丈玄関側からこの庭を眺めると生垣が何重にも吊られた緑のカーテンのようにも見える。拝観者が玄関から入ってきた時に見る光景は、石組みではなくこの何層も続く生垣の柔らかい面であろう。また直線状に迫ってくる石組みも左右に振れていることで単調さを逃れている。そして方丈に上がり再び庭園を眺めると右手から左手に続く力強い石の構成に気づく。その時には緑の面の連続性は既に消え去っているだろう。この庭は方丈からの平面的な眺めを重視して造られていることは誰が見ても分かるが、それだけでない演出もしっかりと用意されている。

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大徳寺瑞峯院 餘慶庵の南庭

 茶席・餘慶庵の南庭は、方丈南庭の延長された庭である。ただし南庭との間に斜めに飛び石を配することで、一応の区切りは作られている。これは方丈の西にある墓所へ行くための道筋なのだろうか?南庭に設けられた塀と茶庭の生垣の間に墓所への参道が作られているようにも見える。GoogleMapの航空写真で見ると、南隣の大慈院との間を画する塀は茶庭で西北に折れていることが分かる。また白砂と苔地の模様は一体して描かれていることも見える。

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大徳寺瑞峯院 餘慶庵
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大徳寺瑞峯院 餘慶庵への露地
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大徳寺瑞峯院 腰掛待合

 独坐庭と閑眠庭をつなぐ茶庭は餘慶庵へのあまり印象の残らない路地となっている。五冨利憲一氏のHP たたずむ 五冨利建築研究所(http://www.geocities.jp/gobken89/t-060601-zuihouin.html : リンク先が無くなりました ) では、瑞峯院の茶席の平面図の掲載とともに、この茶庭の元の姿を示唆している。重森三玲の孫で重森庭園設計研究室主宰の重森千青氏のHP 日本庭園の美 の中にある瑞峯院庭園にはかつての西庭露地の姿とともに下記のような一文が残されている。
     「西庭の露地は一木一草を用いず、しかも立手水鉢を使用した非常に独創的な露地で、日本での造形的な美しさの評価は勿論のこと、海外の日本庭園研究家及び愛好家の方々から、非常に高い評価を寄せられており、海外で出版されたている日本庭園の書物の中に取り上げられていることが多かったのであるが、近年惜しくも解体されてしまい、現在では独座の庭、その裏側の閑眠の庭とは全く不釣り合いな、どうしようもなく安っぽい露地が作られており、残念で仕方がない。こんな安っぽい露地を作るぐらいなら、何も作らなかった方が良かったのではないかと思う。」

 重森三玲は瑞峯院に独坐庭と閑眠庭の2つの庭を方丈の南と北に白砂と苔と石組みを使い作庭し、その間の餘慶庵の前庭を人工的な石敷きの庭としている。立手水鉢を中心に青小板石を斜線に畳込んだ庭は、南庭から眺めると立手水鉢を中景に置き、腰掛待合で終わる建築的な中庭空間となっている。また待合側から眺めると仙洞御所の洲浜越しに南庭の入江の白砂が眺められたのではないだろうか。独坐庭の石組みは見えないまでもそれを思い浮かべることができる演出となっていたと思われる。

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大徳寺瑞峯院 閑眠庭
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大徳寺瑞峯院 閑眠庭 東側から眺めると十字架が浮かび上がる

 餘慶庵の腰掛待合を過ぎると、方丈北庭の閑眠庭が現れる。この庭は方丈と安勝軒の間の奥行きのあまりない細長い空間に造られた庭である。この庭は「閑眠高臥對青山」という禅語に因んでいる。世俗を断ち心に何の憂いもなく、静かに眠るという意味。キリシタン大名である大友宗麟の思いを馳せ、方丈廊下の東端からこの庭を眺めると七個の石組みが十字架として浮かび上がってくる。難しい禅語を具象化したものではなく、皆が知っているキリシタン大名の不幸な一生を思い浮かべるという点で、非常に分かりやすい庭である。
 先の五冨利憲一氏は、安勝軒の間に作られた生垣もまた重森三玲の作庭意図とは異なる手によって行われた改修結果と見られているが、非常に同意できるものである。

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大徳寺瑞峯院 閑眠庭 安勝軒につながる飛び石

 瑞峯院には餘慶庵と安勝軒そして平成待庵の3つの茶室がある。
 餘慶庵は方丈の西側に建てられ、方丈玄関からも見える。この茶席は昭和5年(1930)に小島弥七寄進によるもので、表千家8代目さい啄斎宗匠(口の左に卒)好みの席の写しで、六畳台目の席、次の間に、八畳の下座床の席、廊下を隔てて四畳半の向切りの席からなる。
 安勝軒は方丈北庭の閑眠庭の北側に、昭和3年(1928)やはり小島弥七寄進で表千家惺斎宗匠の好みで作られている。宗麟の時代にも安勝軒と銘した茶席があったが享保年間(1716~35)に廃されたため、その軒号を復している。
そして平成待庵は、千利休が山崎に建てた待庵を平成2年(1990)利休400年忌に因み、安勝軒の北側に復元されている。

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大徳寺瑞峯院 安勝軒

「大徳寺 瑞峯院」 の地図





大徳寺 瑞峯院 のMarker List

No.名称緯度経度
01   大徳寺 瑞峯院 方丈 35.0421135.7453
02  大徳寺 瑞峯院 独坐庭 35.042135.7453
03  大徳寺 瑞峯院 茶庭 35.0421135.7452
04  大徳寺 瑞峯院 閑眠庭 35.0421135.7453
05  大徳寺 瑞峯院 餘慶庵 35.0421135.7451
06  大徳寺 瑞峯院 安勝軒 35.0422135.7453
07   大徳寺 龍源院 方丈 35.0421135.746
08  大徳寺 興臨院 方丈 35.0424135.7453
09  大徳寺 勅使門 35.0424135.7461
10  大徳寺 三門 35.0426135.7461
11  大徳寺 仏殿 35.0431135.7461
12  大徳寺 法堂 35.0435135.746
13  大徳寺 本坊方丈 35.044135.7464

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