厭離庵
臨済宗天龍寺派 如意山 厭離庵(えんりあん) 2008年12月21日訪問
宝筐院の山門を出て、清涼寺の西門まで北に進むと西に折れる道が現れる。この道は渡月橋から天龍寺、清涼寺を経て嵯峨鳥居本へつながる愛宕街道の一部分である。この街道沿いには茅葺屋根のくずややむしこ造町家があり、歴史の深さを感じる。厭離庵はこの街道沿いにあるはずだが、なかなか見つからない。何度もこの道を行ったり来たりしているうちに、三宅安兵衛遺志の小倉山荘旧址厭離庵の碑に気が付く。この碑の傍らから、本当に民家の入口のような通路が北に延びていく。ここが厭離庵の入口である。
厭離庵は藤原定家が百人一首を編纂した山荘・時雨亭の旧跡とされている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の厭離庵定家卿古跡と記された図会には愛宕街道らしき道から細い小道が延び、その先には小さな門と3つくらいの建物と定家の塚が描かれている。また門の右手の木の下には柵で囲まれた為家の塚も見える。今回は気が付かなかったが、三宅安兵衛遺志の碑の建つ厭離庵への道と、これより西側にある慈眼堂の間に北へ入る道があり、藤原為家の墓所のある公園に出られたようだ。hir**i1600さんの京都を感じる日々★古今往来Part1・・・京都非観光名所案内 の 中院地域から(藤原為家墓・慈眼堂)(http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/48628308.html : リンク先が無くなりました ) には、慈眼堂とともに藤原為家の墓の詳細な写真が掲載されています。
この慈眼堂前には京都市の駒札が立てられ、この中院の地に藤原定家が山荘を構え、しばしば訪れたとしている。定家の念持仏であった千手観音立像は、子の為家に伝領され、その後この地に住む人々に与えられたと伝えられている。千手観音立像は豪農の浜松屋善助の敷地内の堂に祀られてきた。慈眼堂では正月14日の夜から15日の日の出まで日待の行事を行う。また定家や為家の法要も営まれている。
さらに厭離庵に近づいた愛宕街道沿いには別の駒札が立てられ、この地に蓮生の中院山荘があったことを記している。
蓮生とは俗名を宇都宮頼綱という下野国の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。治承2年(1178)頃に藤原姓宇都宮氏第4代当主・宇都宮成綱の子として生まれている。文治5年(1189)奥州合戦に従軍し功績を立てる。しかし建久5年(1194)祖父朝綱が下野国司の野呂行房より公田掠領を訴えられ、朝廷により豊後国国府預かりの身と裁定されてしまう。これは朝廷の決裁を仰がず頼朝が単独で部下の所領配分を行ってしまったために起きた騒動であり、頼朝の働きかけにより頼綱は早々に赦免されている。頼朝の死後、頼綱は正治元年(1199)他の有力御家人とともに梶原景時の変で景時弾劾に参加している。
しかし元久2年(1205)畠山重忠の乱が起き、頼綱は北条氏側に与して功を挙げたが、逆に北条氏から重忠の共謀者として謀反の嫌疑をかけられる。頼綱は鎌倉政庁に書状を送り謀反の意が無いことを陳述、その後下野国において出家するに至る。この際、一族郎従60余人も出家したと伝えられている。頼綱は宇都宮を発ち鎌倉に向かい、献髪し陳謝の意を表して実信房蓮生と号し、京嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁したと云われる。
頼綱は頼朝の死後に生じた政争に巻き込まれ、これを回避するために出家している。後に上洛し、法然上人、次いで善恵上人証空に師事している。そのため浄土宗西山教団との関わりも深く、宇都宮氏の財力を背景に往生院の再興や法然の遺骨護持などに尽力すする一方、幕府による寺院造営にも加わる。
蓮生は父譲りの和歌の名手で、近くの小倉山麓に山荘を構えていた藤原定家とも親交があり、娘を藤原為家に嫁がしている。そのため定家とは縁戚関係にあった。
正元元年(1259)蓮生は88歳で死去している。その遺言により京西山善峯寺の証空の墓の側に葬られたとされている。応保2年(1162)生まれの藤原定家も長命で、仁治2年(1241)80歳で亡くなっている。定家は蓮生より年長であったことが分かる。
小倉百人一首文芸苑の項で触れたように、蓮生が嵯峨野に建築した別荘・小倉山荘の襖を飾るために、色紙の製作を藤原定家に依頼している。依頼を受けた定家は、上代の天智天皇から、鎌倉時代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものが小倉百人一首の原型となっている。定家の著した明月記の文暦2年(1235)5月27日の項に、蓮生の求めに応じて和歌百首を書写したところ、小倉山荘の障子に貼られたとあるのでこの頃に作られたものと考えられている。ちなみに5月27日は百人一首の日となっている。
定家の山荘はその後荒廃し、江戸中期に冷泉家が修復し、第112代霊元法皇により厭離庵の号を得ている。明和9年(1772)霊源禅師を開山とし臨済宗天龍寺派の寺院となる。なお定家の嫡流子孫は御子左家として続いたが、南北朝時代から室町時代にいたる戦乱により断絶している。現在の冷泉家は御子左家の分家である。
庵はその後再び荒廃したが、明治43年(1910)大村彦太郎により、仏堂と庫裡が建立された。大村彦太郎とは白木屋を寛文2年(1662)日本橋通二丁目に小間物店・白木屋を創業した初代・彦太郎から数えて10代目にあたる。明治2年(1869)に9代目彦太郎の長男として生まれ、すでに明治20年(1887)にはイギリス留学を果たしている。そして明治28年(1895)年帰国して店主となると、明治36年(1903)日本橋に地上3階建ての新館を落成する。これが日本最初の和洋折衷建築によるデパートとなる。後に貴族院議員を務め、昭和2年(1927)に59歳で亡くなっている。
この本堂も昭和25年(1950)のジェーン台風によって倒壊し、昭和28年(1953)数奇屋大工の岡田永斎によって再建されている。堂内に本尊の如意輪観音の他、霊源禅師、西行法師、紀貫之木像、藤原定家、子の為家、孫の冷泉為相の位牌を安置している。天井には、現代の仏師で愛宕念仏寺の住職を勤めた西村公朝が描いた飛天の板絵がある。
さて現在の厭離庵は通常非公開とされているため、暗い竹林の中を進み、その先にある門から内部の様子を伺うしかない。GoogleMapで見ると山門正面から左側に上っていく石段があり、その先に恐らく書院と南庭が広がる。書院の西側には藤原定家塚があり、その先のさらに高い場所に本堂があるように見える。山門正面にある中門を潜り、露地伝いに進むと左手に茅葺屋根の茶席時雨亭に達する。
京都観光Naviの厭離庵によると、11月1日から12月上旬の間と予約制で公開されていることが分かる。幕末の幕臣山岡鉄舟の娘である素心尼が庵の住職となり、その後尼寺となったが、現在は男僧が入山しているようだ。
嵯峨野には藤原定家の時雨亭跡といわれている場所が、この厭離庵の他に二尊院と常寂光寺にある。それらは比叡山を含めた東側の眺めを得るために、高台の狭い敷地に小さな草庵を建てたのではないかと想像される。そういう意味では愛宕街道から少し入った敷地は、他の2つの候補地とは異なった性格の場所である。
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