泉涌寺 善能寺 その2
泉涌寺 善能寺(ぜんのうじ)その2 2008年12月22日訪問
宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所の前を過ぎると、善能寺の白い塀が現れる。丸く曲げられた塀の角を越えると、左手に来迎院の山門と石橋、右手に善能寺の山門が見える。
善能寺は、もともと八条猪熊通にあり二階観音堂と呼ばれていた。偶然ではあるが、かつて戒光寺があった地と近い。そして弘仁14年(823)弘法大師が稲荷大明神を祀る寺として善能寺と号している。
天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の善能寺には以下のようにある。
此本尊は初め八条二階堂に安置する所なり。
そして八条二階堂にあった古御旅所について、安永9年(1780)年に刊行された都名所図会で以下のように説明している。
八条坊門金替町の南にあり。むかし此所は二階堂観世音ましくて、地主を福子稲豊といふ。今此観音は泉涌寺の内善能寺にあり。此社の鳥居通を戒光寺町といふ。此寺も今泉涌寺の内にあり、丈六の釈迦仏を安置す
この地に戒光寺とともに善能寺が存在していたことが記されている。古御旅所の説明も都名所図会に続いて記されている。
弘法大師縁起に曰、空海筑紫にましますとき、稲を荷へる翁に逢てこれ只人ならずと思ひ、君はいかなる人ぞと尋ね給へば、われは都八条に住ける柴守長者といふものなりと答ふ。空海我も都に登り仏法を弘侍るなり、我法を守り給へと約し。其後弘仁十四年に東寺を賜り住職したまふとき、二階堂の柴守長者まゐりたりと申されければ、空海いろくもてなし、扨都の巽にすぐれたる山あり、あれに住給ひて我が仏法を守護し給へと、社をいとなみ自額を書てまいらせ給ひける今の稲荷山これなり。二階堂を則御旅所とし給ふなり
ここでいう古御旅所とは伏見稲荷大社の御旅所である。これは豊臣秀吉の命により七条油小路にあったもうひとつの御旅所と統合する形で、教王護国寺の北東・西九条池ノ内町にある伏見稲荷大社御旅所に移されている。また弘法大師が善能寺と号したされている弘仁14年(823)は古御旅所の中にも出てくる。
都名所図会に記された弘法大師が“稲を荷へる翁”に出会う伝承は、東寺に残されている稲荷大明神流記にもある。そのあらすじをまとめると以下のようになる。
弘仁7年(816)弘法大師は紀州,田辺で稲荷神の化身である異相の老翁に出会う。身丈8尺、骨高く筋太くして,内に大權の気を含み,外に凡夫の相を現している。翁は弘法大師に会えたことを喜んで言うには「自分は神であり、汝には威徳がある。今まさに悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者になったからには、私の教えを受ける気はないか。」
弘法大師はこう述べる。「唐の霊山において、あなたを拝んでお会いしたときに交わした誓約を忘れることはできません。生の形は違っていても心は同じです。私には密教を日本に伝え隆盛させたいという願いがあります。神様には仏法の擁護をお願い申し上げます。京の九条に東寺という寺があります。ここで国家を鎮護するために密教を興すつもりです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください。」と仲むつまじく語らい会って、神の化身と空海は盟約を結ぶ。
天皇より東寺を賜り真言の道場としていた弘法大師は、弘仁14年(823)紀州で出会った神の化身が稲を担ぎ椙の葉を持って、2人の婦人と2人の子供を伴って東寺の南門に再びやって来るのを見かける。弘法大師は大喜びして一行をもてなす。心より敬いながら、神の化身に飯をお供えし、菓子を献ずる。その後しばらくの間、一行は八条二階の柴守の家に寄宿するが、その間弘法大師は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めている。そして山に17日の間祈りを捧げて神に鎮座していただいた。
同じく東寺に伝わる稲荷大明神縁起には、竜頭太なる山の神が稲荷山に鎮座し、弘法大師の来山を機に稲荷山を大師に譲渡したとされている。稲荷神の化身である稲を荷づく翁の来訪をうけた大師は、譲り受けた稲荷山を祀る。山麓にあった藤尾大明神を深草に遷し、その跡に社を勧請したのが伏見稲荷大社である。
これは一般に伝聞している山城国風土記逸文による伊奈利伝承とは全く異なる創設の伝承である。伊奈利伝承が8世紀初頭に対して、稲荷伝承は9世紀初頭の出来事を述べている。この間に100年近い時の隔たりがある。どちらかが正しく、どちらかが誤っていると言うわけでないように思う。昔からこの地に住んできた秦氏が、平安遷都後の京都に入ってきた新しい仏教に対して、どのように接触してきたかを物語っているのではないだろうか?事実、伏見稲荷大社と東寺は結びつきが強め、稲荷信仰もまた真言宗の拡大を助けとした部分もある。
今日でもなお、伏見稲荷大社と東寺の関係は変わっていない。稲荷祭において、御旅所を発った神輿を中心とする御列は東寺東門前に留まり、東寺の僧侶数名による東寺神供を受けてから伏見稲荷大社へ向かっている。
さて善能寺に話しを戻す。稲荷神に出会った弘法大師は、稲荷社を八条二階堂の地に勧請している。そのため日本で最初に祀られた稲荷大明神といわれるようになっている。ただし泉涌寺の公式HPでは、「荼枳尼尊天を祀る最初の寺ともいわれ、国稲荷神の本地仏としての信仰がある。」という記述に留めている。荼枳尼天は、寺院の鎮守稲荷の多くが御神体として狐に乗った姿で描かれることが多い。そのため日本では神道の稲荷と習合することが多いとされている。
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