宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所
宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所(くないちょうしょりょうぶ) 2008年12月22日訪問
今熊野観音寺の鳥居橋を再び渡る。この今熊野観音寺への参道と御寺泉涌寺霊園へと続く道、そして塔頭の善能寺と来迎院へ続く道の合流点まで戻る。ここから善能寺、来迎院を経由して泉涌寺の本坊へと向かう際に、宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所の前を通りかかる。
宮内庁書陵部書陵部では、皇室関係の文書・資料の管理と編修及び陵墓の管理が行われている。書陵部は図書課、編修課、陵墓課の3つの課と5つの区域にわけて陵墓を管理している陵墓監区事務所の4つの組織によって構成されている。
慶応3年(1967)12月9日の王政復古の大号令により、徳川幕府が担ってきた政治体制に代わる新たな体制が必要となる。有栖川宮熾仁親王を総裁に、薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主と皇族2名・公卿3名の10名からなる議定そして20名の参与の三職が任命されている。これは意思決定機関のようなものであった。実際に政務を行う行政システムは、遅れて慶応4年(1868)1月に定められる。上記の三職の下に神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を置いて三職七科とした。さらに翌月には科を局と変更するとともに、新たに総裁局を設置し三職八局制としている。
この後、五箇条の御誓文に基づき三権分立を目指した政体書が副島種臣と福岡孝弟によって起草され布告される。この時期に版籍奉還が実施されたことで、諸藩は政府の地方機関と位置付けられることとなった。また官吏公選により守旧派の公家や諸侯を事実上排除することも可能になった。しかし政体書が目指した権力分立は行われず、新たな政治体制へと移行していく。
明治2年(1869)新しい太政官制が導入される。新しいと言うのは、律令制の基に司法・行政・立法を司る最高国家機関としての太政官が、かつて存在していたからである。アメリカの影響を受けた政体書体制を廃止して、祭政一致を原則とした復古的な官制に改められた。先ず神祇官が復活し太政官よりも上位に置かれる。そして太政官の下には民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省が設置される。二官六省制が採られ、侍詔院・弾正台・集議院・大学校などの諸機関も併せて置かれた。
このように宮内省が明治2年(1869)に太政官の下に置かれると、明治17年(1884)に図書寮、明治19年(1886)に諸陵寮が省内に設置される。かつての図書寮の職掌としては、国家の蔵書の管理と撰史事業であった。新たな図書寮も皇統譜や実録などの編纂及び管理、皇室典範などの皇室関連法令の正本や貴重な宮中保管書籍の管理などを行っている。諸陵寮も陵墓の管理・喪葬・皇族葬儀の儀礼などが主な職掌であったが、凶事が起こった際には死者のたたりと考えて寮の役人を不遇であった皇族の陵墓に送ってこれを慰めることも行われた。
第二次世界大戦終結直後、1官房2職8寮2局と13外局と京都事務所を持った宮内省は、他の政府機関への移管もしくは分離独立などが行われ、組織の縮小がなされる。そして宮内府を経て昭和24年(1949)宮内庁へと変わっていく。現在の書陵部はこの時に誕生し、図書課・編修課・陵墓課の三課体制が採られている。
5つの陵墓監区事務所
多摩陵墓監区事務所(東京都八王子市、武蔵陵墓地内)
山形県、新潟県、栃木県、東京都、神奈川県、長野県内の陵墓の管理
桃山陵墓監区事務所(京都府京都市伏見区、伏見桃山陵内)
岡山県、広島県、山口県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、宮崎県、鹿児島県内と
兵庫県、京都府、大阪府の一部の陵墓の管理
月輪陵墓監区事務所(京都府京都市東山区、泉涌寺内)
富山県、石川県、滋賀県、鳥取県、島根県内と京都府、兵庫県の一部の陵墓の管理
畝傍陵墓監区事務所(奈良県橿原市、神武天皇陵内)
奈良県、三重県、岐阜県、愛知県、静岡県内の陵墓の管理
古市陵墓監区事務所(大阪府羽曳野市、応神天皇陵内)
和歌山県、香川県、徳島県、愛媛県、高知県内と大阪府、兵庫県の一部の陵墓の管理
上記のように5つある陵墓監区事務所の内、京都府内には桃山陵墓監区事務所と、この月輪陵墓監区事務所が設置されている。そして最も数多くある京都府内の御陵を2つの事務所で管理していることが分かる。
寺院や神社や巡り建築や庭園を見る合間にいくつかの陵墓に参拝してきた。しかし長い参道を歩いても誰にも出会うことがない。むしろそれが自然だと感じてしまい、たまたま人に出会い声でも掛けられてしまうと却って驚いてしまうようになっている。世の中では歴史愛好者が増えていると言われているのだから、霊山墓地で見かける参拝者ほどは望めないとしても、もう少しは注目されても良いように思う。実物を見たという体験を元に、多くのことを学べる機会が与えられていると考えれば、である
このような現状にもかかわらず、どの陵墓も等しく美しく管理されている。ごくわずかな参拝者のために行われているよりは、引き継いできた歴史を後世に残すための作業なのだろう。ともかく陵墓監区事務所と勤労奉仕の努力によって、これからも長く美しく保たれていくであろうことを思うと、事務所の前を避けて通ることもできず、日頃の感謝も込めてこの項を書き残した次第である。
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