文書と写真・地図による「記憶」の再現

嵯峨南陵 その2

嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)その2 2009年11月29日訪問

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嵯峨南陵 左は亀山陵 右は嵯峨南陵

 前回の訪問の時は、日没が近いうえに御陵への入口が見つからなかったが、今回は天龍寺方丈の拝観が始まる前に嵯峨南陵と亀山陵の参拝を行なうこととした。天龍寺の庫裏の脇を北に進むと小振りな門が現れる。恐らく天龍寺の墓地へと続く参道と思われる。門の右手の木の後ろに、「後嵯峨天皇嵯峨南陵 亀山天皇亀山陵」の碑が建つ。前回はこれを見落としたため、無駄な時間を費やしてしまった。この碑は総門前に建てられた「後嵯峨天皇嵯峨南陵 亀山天皇亀山陵 西二町」の道標と対になっている。 今回も門には竹が渡されていた。本来ならば庫裏の受付で許可を取るべきであったのだろうが、方丈の拝観時間前だったのでそのまま中に入りました。

 紅葉の美しい墓地への道を進むと、左手に天皇陵を示す案内が立てられている。ここを左に曲がると白砂の先には2つの平入り唐門と天皇陵を囲む木製の垣が現れる。唐門の奥には松が植えられており、その木々の隙間から檜皮葺宝形造の法華堂2棟が見える。向かって右手(北側)が第88代後嵯峨天皇の嵯峨南陵で左手(南側)が第90代亀山天皇の亀山陵である。

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嵯峨南陵 総門前の道標

 大覚寺妙心寺 その3、そして嵯峨南陵と何回も書いてきたように、後嵯峨天皇は両統迭立とそれに続く南北朝時代を生み出す契機となった天皇であり、天龍寺の元となる亀山殿の建設に着手した人物である。ある意味で現在の嵯峨野の町並みを作った1人でもある。

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嵯峨南陵 嵯峨南陵と亀山陵への入口

 後嵯峨天皇は承久2年(1220)に土御門天皇の第二皇子・邦仁親王として生まれている。後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた承久の乱は翌年の承久3年(1221)5月14日に起きている。この乱の戦後処理として、同年7月に後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流が行なわれる。また討幕計画に反対していた土御門上皇も、自ら望んで土佐国(後に阿波国へ移される)へ配流されている。さらに後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。

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嵯峨南陵 2009年1月12日撮影

 第80代の高倉天皇には、第一皇子の言仁親王(後の安徳天皇)、第二皇子の守貞親王(行助法親王 後堀河天皇実父)そして第四皇子の尊成親王(後鳥羽天皇)がいたが、安徳天皇は幼くして壇の浦で亡くなっているため、当然のことながら皇子は存在しない。後鳥羽天皇は承久の乱を引き起こした張本人であることから、鎌倉幕府としてはこの血脈から新たな天皇が即位することは、承服しがたいものであった。そのため既に出家して行助法親王となっていた守貞親王の第三皇子の茂仁王を、廃帝となった第85代仲恭天皇の代わりとした経緯がある。また行助法親王は、既に出家しているにもかかわらず太上天皇号を奉わり、院政を敷くことになった。太上天皇号を贈ることは全くの異例であったが、後鳥羽上皇の院政勢力を駆逐するためにはこれが最適な処置と考えた結果であろう。治天の君となった守貞親王は、公武関係の融和にも努めるなど、実績を残したものの、貞応2年(1223)腫物を患って崩御している。

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嵯峨南陵

 10歳で即位した後堀河天皇も、11年後の貞永元年(1232)には、まだ2歳の第一皇子秀仁親王に譲位している。これは自らが院政を行うための譲位であり、3日後に太上天皇となっている。しかしながら、後堀河上皇も元来病弱であったため、院政開始後2年足らずの天福2年(1234)に23歳の若さで崩御している。四条天皇以外に、後堀河上皇には男子はいなかった。
 また即位した四条天皇も仁治3年(1242)に不慮の事故により亡くなっている。享年12である。「増鏡」には、

     御なやみのはじめもなべてのすぢにはあらず、
     あまりいはけたる御遊びより、
     そこなはれ給ひにけるとぞ。

とどのようなことで病没したか分からない書き方になっているが、「五代帝王物語」には、

     主上あどけなくわたらせ給ひて、近習の人、
     女房などを倒して笑はせ給はんとて、
     弘御所に滑石の粉を板敷にぬりをかれたりけるに、
     主上あしくして御顛倒ありける

と非常に明確に記されている。つまり四条天皇は人を滑らせて笑ってやろうとして滑石を塗っていたところ、自分が滑って転倒し、打ちどころが悪くて数日寝込んだあと脳挫傷を起こし死亡したということになる。子供の遊びの中の事故死といえば、それまでだが、非常に不名誉な死に方を「五代帝王物語」は忠実に記したということだろうか。

 いずれにしても非鳥羽派と目される天皇は四条天皇の崩御を以って終了し、皇位継承は難航を極めることとなる。九条道家ら公卿勢力は、順徳上皇の皇子である忠成王を擁立しようと試みたが、執権北条泰時および現地六波羅探題の北条重時の承認を得るに至らなかった。承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示したことになる。幕府は、乱において中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立するため、鶴岡八幡宮の御託宣があったとし、同年1月20日の後嵯峨天皇の即位にこぎつけている。四条天皇が崩御されたのは仁治3年(1242)1月9日のことであったため、この朝廷と幕府の間の擁立騒動によって11日間の空位期間が発生している。

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嵯峨南陵

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