大徳寺 塔頭 その10
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その10 2009年11月29日訪問
北派の塔頭その4に引き続き、北派の最後の塔頭までを記してゆく。
龍光院は筑前福岡藩主黒田長政が父黒田孝高の菩提を弔うために、玉林院の南に創建した塔頭。開山は第156世江月宗玩であるが、師である三玄院の春屋宗園を開祖に勧請し、自らは第2世となっている。創建年次は慶長11年(1606)と慶長13年(1608)の2つの説がある。
黒田孝高は通称の官兵衛あるいは出家後の号である如水の方が有名な豊臣秀吉の側近として仕えた戦国武将である。関ケ原の戦いにおいては、当主の長政が豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げている。如水も九州征伐後に入部した中津に帰国し、ここで東軍に呼応すべく挙兵している。9000の兵を集めた如水は慶長5年(1600)9月9日、大友義統軍の豊後上陸を阻止するべく豊後に侵攻を始める。同13日の石垣原の戦いに勝利し、大友義統を降伏させた如水は、9月15日の関ケ原本戦以降も10月3日に佐賀関の戦いで太田一吉の臼杵城を、そして毛利勝信の小倉城などの諸城を落とす。さらに11月に入ると、加藤清正とともに西軍に属した立花宗茂、鍋島勝茂勢を加えた4万の軍勢で島津討伐に向かうが、11月12日に肥後の水俣まで進軍した時、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散している。このようにして、如水は関ケ原の戦いによって生じた軍事力の空白期間を利用して、北九州の平定を成し遂げている。この親子の功名により、黒田長政は筑前52万3000石を与えられ、如水にも上方での加増が提示されるが辞退している。中央の政治に関与することなく隠居生活を送り、慶長9年(1604)京都伏見藩邸にて59歳で死去している。法号は龍光院殿如水圓清大居士。龍光院の創建年次から考えると、如水の菩提が弔われたのは没後しばらくしてからのことのようだ。
現在、船岡東通は大徳寺の山内を南北に貫いているが、龍光院の創建時には高桐院から玉林院を経て、龍光院の兜門で突き当たりになっていたようだ。龍光院の寺域はこの重要文化財に指定されている兜門を北限として南に55間半(101メートル)、西へ45間(82メートル)、さらに東に23間(42メートル)という3500坪を越える広大なものであった。慶長13年(1608)創建説をとる川上貢氏は、「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)の中で、慶長11年(1606)より黒田家によって造営が進められていた院内の諸建築は、龍光院文書により慶長13年(1608)9月に春屋宗園に引き渡されたとしている。これに先立ち、8月27日に塔頭開きの賀莚が行なわれている。創建時の建築は、本堂、玄関、二階書院、同御料理間、居間書院、庫裏、衆寮、雪隠、門、倉および卵塔から構成されていた。桁行11間半、梁行7間半の本堂は、月岑宗印によって再建された玉林院の本堂と同規模のものであった。この本堂を中心として、東に庫裏、北に二階書院、同御料理間、居間書院が並び、それぞれが廊下で連結されていたと考えられている。
開祖の春屋宗園は隠遁所として龍光院に住したが、慶長16年(1611)に遷化している。再び請われて江月宗玩が住するが、寛永20年(1643)に江月宗玩も入寂している。宗玩の寂後の祭享のために昭堂が建立され、翌21年(1644)正月に完成している。この昭堂は1間四方の小堂で、堂内は四半瓦を敷き、桧皮葺屋根の建物であった。しかしあまりにも小堂であったため、5年後の慶安2年(1649)に二階書院を取り壊し、その材を利用して新たな昭堂を造立している。これが重要文化財に指定されている現在の龍光院の本堂である。桁行六間、梁間四間で檜皮葺寄棟造の屋根の下、南正面側1間は吹き放し、その奥に桟唐戸を入れている。この吹き放しの南庇は、客殿の南広縁に相当する。東端には1間幅の玄関歩廊が突き出し、西端には鏡の間と呼ばれる1間四方の空間が作られ鐘が吊るされている。床は歩廊から南庇そして堂内四半瓦を敷いた土間となっている。本堂と共に重要文化財に指定されている盤桓廊は昭堂玄関と本堂及び書院を接続するための歩廊として造られたものである。
ホールの奥には、中央の柱間3間に仏壇が設えられている。この仏壇は建物から北側に張り出す方で造られている。中央間に本尊仏、東間に春屋宗園、西間に江月宗玩の各尊像が安置されている。また西庇には位牌所が造られ、中央間は黒田家の位牌所となっているが、当初は高松宮好仁親王の牌所であった。高松宮好仁親王は後陽成天皇の第7皇子であり、有栖川宮(かつての高松宮)の初代となる。寛永15年(1638)に薨去。享年36。なお有栖川宮は龍光院の檀越となっている。
五山寺院とは異なり、大徳寺では本堂から独立して昭堂を造ることはなかった。これは本堂内の仏間に開山尊像の画像を祀ることで真前を設けることで昭堂建設に代えてきたためである。しかし寛永年間(1624~44)頃より、真前を拡張し木像の開山尊像を安置する傾向が現われてくる。龍光院にも当初昭堂はなかったが、寛永20年(1643)の江月宗玩の入寂後に建立されている。これは塔頭自体が開山の祭享の場から、檀那の位牌を安置し法要を営む場に変質しはじめたためとも考えられる。つまり開山の祭享の場を護るためには、法要に参列する檀那を接待する空間を本堂から分離する必要が生じたためである。
龍光院は明治初年に本堂と庫裏を失ったため、上記の昭堂を本堂と呼び院の中核施設としている。その際に本堂で祭祀してきた黒田家の位牌他を昭堂の有栖川宮位牌所に移し、新たに北側仏壇西隣に有栖川宮位牌所を新造している。この変更はGoogleMapで見ても分かるものとなっている。
昭堂の東側には国宝に指定されている龍光院の書院と茶室密庵席が建てられている、これらは寛永年間(1624~44)の建立と考えられている。寛永18年(1641)に行なわれた茶会が催され、これを記録した茶会記と現状が著しく異なっている点から、現在のような書院に変更されたのは、寛永18年(1641)以降のことと考えられる。書院茶室・密庵席は小堀遠州好みと伝えられ、四畳半台目で床の間が二つ持つ。その一つに密庵咸傑墨蹟(国宝)、他に利休の添状をかける。 この他にも寺宝として、国宝に指定されている竺仙梵僊墨蹟と大覚禅師筆金剛経、及び曜変天目茶碗が残されている。
看松庵は大破するも修理が行き届かず、明治7年(1874)に瑞源院に合併。この際に瑞源院の寺号が廃され看松庵と号するが、明治11年(1878)に廃庵となる
開基の佐久間実勝は、初め豊臣秀吉の小姓となり、後に徳川家康、秀忠、家光の3代に仕え、御使番、作事奉行などを務めている。また寛永9年(1632)には江戸城の作事に当たっている。茶は古田織部に師事する。烏丸光広から紀貫之色紙を譲り受けて所持したため、後に寸松庵色紙と呼ばれるようになる。
瑞源院:龍光院の開山となった江月宗玩の法嗣で第176世安室宗閑が開祖となる寮舎。寛永2年(1625)福山城主の水野勝成が父の忠重のために大光院の西に創建し、忠重の法名を院号とし江月宗玩に開祖を請う。江月は安室宗閑に付し塔頭としている。そのためか安室の伝では瑞源院二世となっている。元禄11年(1698)水野氏が断絶したため、塔頭を辞している。北派独住で護持されてきたが、明治の廃仏棄釈で廃寺となる。紫野高校北門横に瑞源院趾の石標が残る。なお寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会では、瑞源院を下記のように芳春院の寮舎としている。
瑞源院〔芳春院の寮舎、大光の西にあり。江月を開祖とす。
水野日向守源勝成所造、備後福山の城主なり〕
客殿中ノ間 墨絵人物 等益筆
礼ノ間 山水 同筆
檀那ノ間 耕作 同筆
時々欠住があったが北派独住で護持されてきた。延享2年(1745)の大徳寺本末牒には書き上げられているが、明治5年(1872)の「禅臨済宗本末寺明細帳」には見出せない。
傳心宗的は寛永元年(1624)泉南に生まれている。第195世翠巌宗珉の法嗣となる。延宝元年(1673)50歳で大徳寺に出世し開堂している。寸松庵第3世。元禄7年(1694)東山天皇より仏智無碍禅師の諡号を賜わる。元禄10年(1697)慈眼庵で遷化。
閑徹宗安は寛永10年(1633)肥前平戸に生まれている。第195世翠巌宗珉の法嗣となり、天和3年(1683)出生しh手大徳寺第234世となる。また平戸の正宗寺第4世住持も務め、静性庵、護国庵を創める。元禄8年(1695)遷化。
慶長17年(1612)小堀遠州は、大徳寺塔頭の龍光院内に江月宗玩を開祖として孤篷庵を建立している。当初の規模は不明だが、龍光院内に建てられていたことから、それ程規模の大きなものではなかったと考えられている。龍光院は現存する塔頭で、慶長11年(1606)黒田長政が同9年(1604)に亡くなった父の如水(黒田孝高・官兵衛)の菩提を弔うために建立している。開山は大徳寺111世春屋宗園であったが、慶長16年(1611)に示寂すると、その後を大徳寺156世江月宗玩が継いでいる。
この龍光院内に孤篷庵を建立してから、ほぼ30年を経た寛永20年(1643)に小堀遠州は現在の地に孤篷庵を移している。その後、寛政5年(1793年)の火災により焼失するが、遠州を崇敬した大名茶人で松江藩主の松平治郷(不昧)が古図に基づき、寛政9年(1797)に客殿、寛政12年(1800)に書院を再建している。
和田嘉宥氏の論文「松平不昧が弧篷庵に開いた茶室「大円庵」」によると、大圓庵は幕末の嘉永5年(1852)に焼失している。嘉永7年(1854)には大圓庵の牌堂は再建されるが、茶室の再建は行なわれなかった。嘉永6年(1853)はペリーが浦賀に来航した年であり、不昧が致仕後に茶禅一味の生活を送った大崎の鳥取藩下屋敷も幕府に没収されている状況ではやむ得ないものであっただろう。
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