横井小楠殉節地 その3
横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その3 2009年12月10日訪問
横井小楠殉節地と横井小楠殉節地 その2では横井小楠の年譜に触れずに、いきなり対外政策について書き始めた。この項では小楠の生涯を追い、嘉永6年(1853)の「文武一途の説」や「夷虜応接大意」以降の思想的な展開と松平春嶽の活動に与えた影響について考える。
横井小楠は、文化6年(1809)肥後国熊本城下の坪内町に、熊本藩士横井時直の次男として生まれる。文化13年(1816)ころに藩校時習館に入学する。天保4年(1835)一般課程を終え、居寮生となる。天保7年(1836)4月に講堂(一般課程の最上級生)世話役を経て、11月には居寮世話役になっている。さらに翌年2月には居寮長すなわち塾長に抜擢されている。この経歴からも小楠が若い頃より優秀であったことが分かる。
なお天保6年(1837)に時習館訓導宅が藩士によって放火されている。この捜査の過程で藩士の子弟19名、近郷の百姓60余名による反乱計画が発覚する。天保7年(1836)7月、約1年間の吟味の末に士分19名から4名が死刑に処された。千石を越える大身の藩士の子弟をも含めた藩政に対する武装反乱であったため、肥後藩は大きな衝撃を受け、時習館の改革に着手する。天保7年(1836)江戸詰めより帰国した世襲家老長岡監物を文武芸倡方に復任させている。監物は中老の平野九郎右衛門や奉行の下津久馬と協力して時習館改革を推進する。この時、久馬と幼馴染の横井小楠もこれに加わったため、後に結成される実学党の中心メンバーはこの時に出会っている。
天保10年(1839)3月江戸遊学の命を受け、肥後を発つ。時習館居寮生より退寮者が多く出ることを不思議に思った藩が調べてみると、親睦会と称して酒宴が行われ、その中で多くの口論があったことが判明する。藩は小楠を時習館から遠ざけるために江戸遊学を命じたと考えられている。同年4月に江戸に着いた小楠は林大学頭に入門し、佐藤一斎、松崎慊堂そして藤田東湖らと交わる。しかし12月25日に東湖が主催で行われた宴席に出席した小楠は、酔って他藩士と喧嘩となる。これが藩に伝わり、天保11年(1840)2月酒失のため帰国命令が下る。帰国後逼塞70日の処分を受ける。この後、長岡監物、元田永孚、下津久馬、荻昌国らと講学を開始する。これが実学党の始まりであり、その時期は天保12年(1841)あるいは天保14年(1843)とされている。しかし弘化4年(1847)長岡監物が家老を辞職させられている。保守派の筆頭家老松井佐渡を頭目とする学校党との対立が伏線にある。これは監物一人の問題ではなく、監物のブレインとして藩政に乗り出して行こうと考えていた実学党にとって大きな痛手となった。
嘉永4年(1851)2月、上国遊歴に出る。熊本を発ち、北九州、山陽道、南海道、畿内、東海道、北陸道の21藩を巡り8月に帰国している。この旅の中で、6月12日から20日そして7月6日から20日の間、福井に滞在している。越前藩の学校の制についての諮問に対して、嘉永5年(1852)3月に学問は政治と不可分であり学政一致を目指した「学校問答書」を執筆し送っている。各藩競って学校を創立したが、藩主や家老の心が純粋でなかったために、文字章句の俗儒を養成する機関に留まり、経世済民の理想を抱く人材がなかなか生まれない。まさに人材が生まれないから政治が貧困になるという論理である。そして講学が第一にあるべきで、時間の許す限り藩主以下全員が出席して自由な討論の中で政策を決定していく、その基本の上に学校は創設されるべきだと小楠は考えている。
翌嘉永6年(1853)1月に「文武一途の説」、10月頃に「夷虜応接大意」を書いているが、これについては既に横井小楠殉節地と横井小楠殉節地 その2で触れているので繰り返さない。この年、長岡監物は家老職に復帰し、浦賀の守備隊長として江戸詰を任じられている。これは嘉永6年(1853)11月14日に彦根藩と川越藩に命じていた相模湾海岸の警備を肥後藩と長州藩に変更したためである。しかし嘉永7年(1854)1月16日旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて来航したペリーに対して、幕府が和議一点張りであることを見た監物は、戦闘を行わないならば自分は不要とし辞職して帰国している。 安政元年(1854)7月、兄の横井時明が病死する。享年48歳。そのため9月に家督を小楠が継いでいる。安政2年(1855)3月頃、実学党の長岡監物と絶交する。水戸家と交流の強かった監物は攘夷論者であり、この時期より開国論に転換して行く小楠と遂に袂を分かつこととなった。監物は明徳派(下津休也・荻昌国)を形成して小楠の新民派(大田黒惟信・山田武甫・嘉悦氏房・竹崎茶堂・徳富一敬)に対抗するようになる。さらに宮部鼎蔵らの勤皇党を加え、幕末の肥後藩では藩論を纏めることができず、ついには維新の政治舞台に上ることは無かった。長岡監物は小楠と絶交したまま、安政6年(1859)采邑八代で死去している。
長岡監物と袂を分かつこととなる安政2年(1855)頃より、小楠は欧米諸国の政情を知るために「海国図志」を読んでいる。
海国図志とは清朝末期の学者で経世家であった魏源が著した海外事情紹介をも兼ねた地理書である。欽差大臣としてアヘン厳禁策を実施した林則徐は、ヒュー・マレーの「地理全書 An Encyclopædia of Geography: Comprising a Complete Description of the Earth」を翻訳し、「四洲志」として道光18年(1838)に刊行している。原本は1500ページを超す大著であるが、漢訳はその抄本となっていたため全体の20分の1程度の分量になっていた。この本を林則徐の依頼により魏源が増補して道光23年(1843)に「海国図志」全50巻として刊行している。魏源は増補を続け、道光27年(1847)に60巻本、威豊2年(1852)には100巻本も刊行している。
源了圓氏の「幕末・維新期における『海国図志』の受容 佐久間象山を中心として」(国際日本文化研究センター 1993年刊)によると、嘉永4年(1851)中国渡来船によって「海国図志」60巻本が3部輸入され、奉行所を通じ御文庫、学問所御用、老中牧野備前守忠雅に納められた。嘉永5年(1852)にも1部入るが長崎会所で保管される。そして嘉永7年(1854)9月に入った15部(荷主陶海12部+荷主姚洪3部)の内、7部が幕府御用となったが、残りの8部は競売に付されている。源氏はこの嘉永7年に「海国図志」が日本人の知的共有財産になったとしている。そして威豊2年(1852)刊行された100巻本も同じ年に日本に入っている。そのため漢文の「海国図志」によって海外事情を学んだ佐久間象山などの先覚者達も、どちらかの本を目にしていたと思われる。 上記のように日本に入ってきた漢文による「海国図志」の翻刻版は非常に早くに出ている。嘉永7年(1854)に15、安政2年(1855)に5、安政3年(1856)に2そして明治3年(1871)に1と23種類の翻刻が現れている。この内、書き下し文にした和訳版が16あったことからも、一部の知識階層だけではなく多くの一般民衆までに広がったことが想像される。このあたりの危機感と好奇心の現れが、1850年代における清国と日本の違いを作り出したともいえるのだろう。
「海国図志」に触れた横井小楠は、その5年後の万延元年(1860)に「国是三論」において下記のように記している。「続日本史籍協会叢書 横井小楠関係史料1」(日本史籍協会 東京大学出版会 1938年刊 1977年覆刻)による。
(前略)方今萬國の形勢丕変して各大に治教を開き、墨利堅に於ては華盛頓以来三大規模を立て、一は天地間の惨毒殺戮に超たるはなき故天意に則て宇内の戦争を息るを以て務とし、一は智識を世界萬國に取て治教を裨益するを以て務とし、一は全國の大統領の権柄賢に譲て子に傳へず、君臣の義を廃して一向公共和平を以て務とし政治治術其他百般の技藝器械等に至るまで凡地球上善美と稱する者は悉く取りて吾有となし大に好生の仁風を掲げ、英吉利に有つては政體一に民情に本づき、官の行ふ處は大小となく必悉民に譲り、其便とする處に隨て其好まざる處を強ひず。出戒出好も亦然り。仍レ之魯と戦ひ清と戦ふ兵革数年死傷無数計費幾萬は皆是を民に取れども、一人の怨嗟あることなし。其他俄羅斯を初各國多くは文武の學校は勿論病院・幼院・唖聾院等を設け、政教悉く倫理によつて生民の為にするに急ならざるはなし、殆三代の治教に符合するに至る。
嘉永6年(1853)10月頃の「夷虜応接大意」との違いは一目瞭然である。無道としたアメリカについても、戦争のない平和な世界を作り、万国の知識を集め、大統領は世襲せず君臣の関係をなくし公共和平を実現したことなどを取り上げ明らかに賞賛している。このように欧米諸国の勝れた点をただ単に技術だけに求めるのではなく、宗教から政治まで広げることができるようになっている。ここにおいて小楠の積極的開国論が完成し、問題の矛先は日本や清などのアジア的国家の在り方に向けられるようになる。
この記事へのコメントはありません。