法成寺址
法成寺址(ほうじょうじあと) 2009年12月10日訪問
京都府立医科大学付属図書館の敷地の隅に建てられた立命館学園発祥地の碑の前を過ぎ、広小路通を西に進むと寺町通に突き当たる。ここより先は京都御苑となり、広小路に面して清和院御門が設けられている。京の通りの名称が分からない時には、いつもヌクレオチドさんが管理されている「大路・小路」を参照させて頂いている。特に平安京の大路小路と現在の通りを比較できる点でWikipediaなどより重宝する。
かつての都の最も東を南北に走る通りは東京極大路であった。今まで寺町通がこれに一致していると思っていた。かつての東京極大路に近いのは、五条から清和院御門の間の寺町通、清和院御門から北側は梨木町通である。現に丸太町通から寺町通は少しずつ東にずれて行く。そのため京都御苑と寺町通との隙間に駐車場が作られている。寺町御門から清和院御門の間は確認したことがないので分からないが、清和院御門から北側は御苑に沿って歩くことができる。即ち梨木神社の西側は自動車での通行は出来ないものの、歩行者道路は存在している。そして梨木神社より北側は自動車が通る梨木町通である。かつて仙洞御所の北側の公家町内にあった通りで、三条実萬・実美の邸宅があったことでも有名である。「京町鑑」(「新修 京都叢書 第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑」(光彩社 1968年刊行))の 縦町之分で、「寺町より西へ一筋目 梨木町通」「石薬師より広小路迄凡三丁程を 梨木町 此町両側公家衆又は地下役人衆也」とある。
清和院御門前を左に折れ、南に200メートル位下ると、東に向かう荒神口通が現れる。この通りには荒神橋が架けられているので鴨川を渡って川端通に直接行くことが出来る。現在、この通り南側に京都府立鴨沂高等学校の校舎、そして北側には運動場がある。この運動場側の塀に、法成寺址の石碑が京都市教育会によって大正4年(1915)に建てられている。以前は石碑だけだったが、現在では京都市による説明板が併設されている。
法勝寺、法住寺、法性寺、そして法成寺など似た読み方をする寺院が京都に数多くあるが、この法成寺は藤原道長が建立した摂関政治期最大の寺院であり、藤原氏の氏寺の一つである。藤原頼長が、その日記「台記」久安6年(1150)正月1日の条に藤原氏の氏寺として、興福寺、極楽寺、法性寺、法興院、法成寺、平等院の六寺を挙げ、さらに延暦寺、広隆寺、清水寺、六角堂の寺名を記している。ここでは法成寺の歴史を見て行く前に、藤原氏によって建立された寺院の年代的な流れを眺めることで氏寺の成立を考えてみる。
藤原頼長が最初に挙げた興福寺は、南都七大寺の一つに数えられ、藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院である。天智天皇8年(669)藤原鎌足夫人の鏡大王が、夫の病気平癒を願い鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、山背国山階(現在の京都府京都市山科区)に山階寺を創建している。鎌足は同年10月16日に没するが、その臨終に際して、天智天皇より大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ藤原の姓を賜っている。壬申の乱のあった天武天皇元年(672)、山階寺は藤原京に移り地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺と称した。さらに和銅3年(710)の平城遷都に際し、鎌足の子・不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し興福寺と名付けた。そのため山階寺が開創された天智天皇8年ではなく、この年が実質的な興福寺の創建年とされている。その後も、天皇や皇后また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720)には造興福寺仏殿司という役所が設けられ、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
極楽寺は、日本史上初めて関白に就任した藤原基経の発願で建立された氏寺である。現在、深草にある宝塔寺が極楽寺の後継とされている。基経は藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った人物でもある。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立て、次の宇多天皇のとき阿衡事件を起こして、藤原北家が天皇家を越える権勢を保持していることを世に知らしめた。
ところで藤原氏一族全体の氏長者を藤氏長者と呼ぶが、その初代の長者を藤原不比等とする説、藤原緒嗣あるいは藤原良世とする説がある。一般的には藤原冬嗣を初代とすることが多いようなので、これに従うと極楽寺を建立した藤原基経は、藤氏長者としては、冬嗣(1)-良房(2)-基経(3)と、3代目となる。初代藤氏長者の冬嗣は、藤原鎌足-不比等-房前-真楯-内麻呂-冬嗣(1)と鎌足から数えると嫡流としては6代目にあたる。そのため藤原基経は鎌足から数えると8代目となる。
基経が寛平3年(891)に没した後、嫡子の時平がその遺志を継ぎ造営し、基経の死から8年後の昌泰2年(899)頃には建立されたと考えられている。極楽寺は現存していない。宇多天皇の中宮藤原温子が延喜7年(907)に没し、その墓を後深草陵としている。延喜式ではこの墓の位置を下記のように記している。
在山城国紀伊郡深草郷 守戸三烟 東限禪定寺
南限大墓 西限極楽寺 北限佐能谷
また宝暦4年(1754)に刊行された「山城名跡巡行志」(「京都叢書 第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑」(光彩社 1968年刊行)では、
極楽寺村名 在二竹ノ下道ノ南ニ一 古ノ街道也
極楽寺 昭宣公ノ建立開基聖寶僧正 本尊阿弥陀仏
永平寺道元和尚住二当寺ニ一 見二伝記一
当寺改レ 宗号二寶塔寺ト一
と記し、都名図絵でも
極楽寺の旧跡は宝塔寺瑞光寺の境地なり
と書いている。京都市の遺蹟詳細地図索引の中の86番の勧進橋の1122(https://g-kyoto.gis.pref.kyoto.lg.jp/g-kyoto/APIDetail/Gate?API=1&linkid=b8aa2eed-a3df-4be4-9747-91393856842d&mid=671 : リンク先が無くなりました )を参照するとよいだろう。ただし昭和60年(1985)に行われた公共下水道工事の立会調査あるいは平成11年(1999)のJR複線化工事に伴う立会調査でも遺構らしきものの発見には至っていない。
三番目の法性寺は藤原忠平によって延長元年(923)頃から造営された寺院である。創建者である忠平の日記「貞信公記」によれば、延長2年(924)2月10日に法性寺に参り鐘の音を視聴している。また7月9日には四菩薩を造り始めている。そして7月17日に鐘楼が落成し、11月28日に四菩薩を南堂に安置していることが分かる。この頃には造営工事がかなり進んでいたものの、まだ完成に至っていなかったようだ。翌延長3年(925)3月8日には五大尊を造り、同年8月10日に新造の五大尊の開眼供養を行ったと思われる。この辺りの時期が法性寺の開山とされているようだ。延長7年(929)には忠平の五十の賀が執り行われている。朱雀天皇は承平年間(931~938)に法性寺内に御願堂を二棟建てたことより、法性寺は御願寺、すなわち定額寺となっている。 忠平は藤原基経の四男であったが、兄時平が39歳で早世した延喜9年(909)に、次兄の仲平を飛び越えて藤氏長者として嫡家を継いでいる。藤氏長者として3代目となる藤原基経以降は、基経(3)-良世(4)-時平(5)-忠平(6)と続く。忠平は延喜14年(914)右大臣を拝し、延長2年(924)正二位に叙し、左大臣となる。延長5年(927)時平の遺業を継いで延喜格式を完成させている。朝政を司り延喜の治と呼ばれる政治改革を行い、延長8年(930)朱雀天皇の時に摂政、次いで天慶4年(941)に関白に任じられ、以後村上天皇の初期まで長く政権の中心にあった。また時平と対立した菅原道真とは親交があったとされている。
天暦3年(949)8月14日、藤原忠平は京内の小一条第で没する。享年70。正一位が追贈され、貞信公と諡された。翌日遺体は法性寺に移され、同月18日に「法性寺艮地」(「日本紀略」)に埋葬される。福山敏男は「法性寺の位置について」(仏教芸術100号 1975年刊 「寺院建築の研究 下 福山敏男著作集 三」中央公論美術出版 1983年刊)において、忠平の埋葬地を正安元年(1299)の「法性寺御陵山指図」を参照し、東福寺北方、泉涌寺西方の岡の上に記されている「貞信公御墓」より、東福寺の即宗院と泉涌寺の悲田院の間にある京都市立日吉ヶ丘高校の地と推測している。上記の指図によると、藤氏長者第21代で法性寺のそばに別業を造ったことより法性寺殿と呼ばれた藤原忠通の墓も忠平の墓の東に並んでいる。この地は平安京の九条大路の延長線上にある。少なくとも指図の描かれた正安元年までは、旧来の位置にあったと考えても良いだろう。また貞信公御墓が法性寺の東北にあったということから、法性寺の中心部は九条大路の南側にあったとも考えられる。 忠平の死後、法性寺は藤原氏一族によって護られている。天徳2年(958)3月30日、法性寺は焼亡している。伽藍全てを失ったかは分からないが、同年6月に法会が行われていたことからも、焼亡は一部に留まった可能性もある。翌天徳3年(959)に法性寺の諸堂の資材を東大寺領からではなく、他国のものを利用するような要請が出ていることから、復興工事に着手していたことが分かる。
寛弘2年(1005)12月21日、藤原道長による丈六五大尊の造立が始まり、翌寛弘3年(1006)7月27日、五大堂の上棟が行われる。8月7日に新堂に五大尊が安置され、10月25日に開眼、12月26日に五大堂供養が盛大に行われている。法性寺は藤原一門の人々によって復興されたことから、氏寺の機能を果たしてきたことが確認できる。道長は長和4年(1015)12月26日に五十の賀を五大堂で行っている。そして寛仁2年(1018)4月16日、病を発した道長は同堂に籠り、29日には気分が良くなって堂を出ている。道長の五大尊に対する篤い信仰が窺える。
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