嵯峨野の町並み その7
嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その7 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問
長岡京から平安京に遷都が決まると、4郡の条里プランの上に新たな40丈=400尺単位の条坊が作られることとなった。平城京の条坊が180丈と大きかったのに対して平安京では40丈とかなり小さくなっている。この条坊の大きさ以外にも2つの都城には大きな違いがあった。平安京の条坊が40丈の宅地部分に大路・小路の道路幅を足し合わせる形で作られている。つまり28丈の幅を持つ朱雀大路の西側に40丈の宅地があり、その西側に4丈の西坊城小路が作られている。朱雀大路の中心から西坊城小路の中心までは28/2+40+4/2の56丈となる。
これに対して平城京の大路・小路の中心線間を180丈に定める方法となっている。道路中心線より区画を決定する方法は、予め都城の規模を決定すれば区画の分割は容易に行える。しかし大路に面した坊の面積が小路に面した坊と比較して著しく減少し、異なった面積の区画が多く生じる事となる。これに対して平安京の都市計画ではどのような大路・小路を配しても必ず40丈四方の1町が確保できる利点がある。すなわち面積管理を行う上では非常に有効な手法である。ただし平安京全体の規模は大路・小路の数とそれぞれの幅の設定によって異なるため、予め綿密な計画の立案が必要となる。つまり大路・小路をどのように配置するかを決めないと都城の大きさが決まらない。よってマスタープランの存在しない局所的な開発はできない仕組みとなっている。
「延喜式」巻第42左右京職 東西市司の中の京程で南北1753丈、東西1508丈と平安京の大きさが定められている。南北に38坊、東西に32坊。これに大路・小路を加えると南北1751丈東西1500丈となる。これでは「延喜式」の記述とは一致しない。このことについての解釈はいろいろと行われているが結論はまだ見出せていないようだ。南北方向の誤差については「平安京提要」の「第一章 条坊制の復元」で羅城外2丈を加えて1753丈とする説に対して、執筆者の辻純一氏は羅城外を京城としてよいのかという疑問を呈している。東西方向については「平安京-京都 都市図と都市構造」(京都大学学術出版会 2007年刊)の中で金田章裕氏が、堀川小路と堀川西小路の2つの小路は各8丈の小路ではなく、中央の堀川4丈の両側に4丈の小路を加え12丈であったと考えるのが一般的と説明している。これによって一応、南北1751丈東西1508丈となる。 1753×1508丈あるいは1751×1500丈のいずれにしても36丈の倍数でないため、既に定められた条里プランとは完全に一致することはない。また条里プランのいずれかの線を基準線として平安京を配置したようにも見えない。つまり新たな都を築く時に過去の条里地割を基準にはしなかったようだ。金田氏も前述の論文でも条里プランは平安京が造営される以前の8世紀中頃には既に完成していたとしている。それにもかかわらず条里と条坊に一致点が見つからないのは、平安京が条里プランを基準にしなかったためと推測している。
実際に現在の地図の上に葛野郡、乙訓郡、紀伊郡、愛宕郡の4郡の条里プランを乗せてみると以下のようになる。
条里地割の比定は、その痕跡がかすかに残る時代、すなわち都市化が始まる以前の1/25000の地図を用いているため、現在の地図上に乗せることはなかなか難しい作業であった。上記の地図はあくまでも金田氏の「条里と村落の歴史地理学研究」(大明堂 1985年刊)を参照し、1町=36丈=109.08mとして作成したため、必ずしも発掘された遺跡の位置から導き出したものではない。
この4郡の条里プランの上に描いた平安京は、南北1753丈、東西1508丈であるが、こちらは「条里と村落の歴史地理学研究」の「第1章 条里プラン」P102を参考に、1丈=2.98445mとした。平安京の位置については京都市埋蔵文化財研究所の公式HPに掲載されている平安宮散策マップを参照した。大内裏の北にあった偉鑒門の位置が現在の千本通一条下ルにあたることが描かれている。これより一条大路の10丈と羅城外1丈を足した11丈=32.82895m(緯度で0.000359696度)を平安京の北限とし、1753丈=5231.74085m南を南限とした。さらに現在の千本通の中心線を平安京の東西中心軸としてそれぞれ754丈=2250.2753mを東限と西限とすると上記のような地図となった。 繰り返しになるが、あくまでもおおよその目安を基として作成したものであることに注意して下さい。先に作った条里プランに平安京の外形線を乗せると、「平安京提要」のP408に掲載されている「平安京周辺4郡の条里プラン概要」にかなり近づいていたことが確認できるはずである。ただし金田章裕氏の「微地形と中世村落」(吉川弘文館 1992年刊)のP46に掲載されている「平安京西南部郊外の条里プランと貞観13年(871)太政官符に記された大河」の図と比較すると条里プランと平安京の線の交差状況に、明らかな違いが認められるため、更なる微調整が課題として残る。
前述のように葛野郡、乙訓郡、紀伊郡、愛宕郡の4郡の条里プランの大部分は南北軸・東西軸に沿って定められたが、嵯峨野の条里プランはこれらとは異なっていた。嵯峨野の主要動線となっている朱雀大路すなわち出釈迦大路と造路は平安京の南北軸に対して反時計廻りに16度振れている。これは葛野郡の葛野川以北の6ヶ里の条里地割だけが西に16度傾いて設定されたことに大きな影響を受けている。金田章裕氏の「条里と村落の歴史地理学研究」(大明堂 1985年刊)によれば、通常の条里プランは36丈の正方形で1町を構成し、6町四方で里となる。里は正南北軸に沿って定められるのが一般的であるが、大規模な平野部の縁辺部などに方位が異なる小規模な条里地割が分布することは例外的な存在ではないとし、多度郡の条里プランを取り上げ例証している。
さらにこの西傾について以下の仮説を立てて検証を行っている。
1 葛野郡条里プラン確定の際に、すでに西傾している一・二条付近には地割が存在していた。
2 葛野郡条里プラン確定の際に、微地形条件などで西傾した条里プランを設定した。
3 葛野郡条里プラン確定の際に、正南北方向の条里プランが設定されたが後に修正された。
天平15年(743)の弘福寺田数帳に見られるように、久世郡の条里プランはこの時期までにほぼ完成している。このことより葛野郡の条里プランもほぼ同じ時期に完成していたと推測している。そして嵯峨野の地学的な特徴や嵯峨野開発の進捗状況より、嵯峨野の開発が平安時代初期、すなわち「山城国葛野郡班田図」に記載される天長5年(828)から30年前位に着手されたと考えられる。それ以前から開拓された部分はかなり限定されるためである。これは平安京遷都の延暦13年(794)、嵯峨天皇が皇子時代に造営した嵯峨山荘の頃と一致する。つまり嵯峨野の本格的な農地開拓は、宮中にとって嵯峨野が遊楽の地となってからのことだった。
その上で金田氏は、あえて条里プランを制定する際に16度傾けるほどの微地形的な強い条件が見いだされないことから、上記3の説を採用している。すなわち初期に正南北方向の条里プランを制定し、そして天長5年より前の実質的な嵯峨野開発が拡大した際に、6ヶ里分の条里地割を微地形に合わせて西に16度傾けたと推測している。
嵯峨天皇が即位前の神野親王時代から親しんできた嵯峨山荘を嵯峨院としたのは、弘仁5年(814)のことだったが、この頃にはすでに16度傾けられた条里地割によって嵯峨野の開発が始まっていたと考えてよいだろう。「よみがえる平安京」の模型を見る限り、嵯峨院は西傾することなく主要殿舎は南面するように建立されていたようだ。そして檀林皇后の檀林寺の造営、さらに嵯峨上皇の皇子である源融の棲霞観の建設と続くが、これらは条里プランの中心部に建立されたために西傾した条里プランの影響を受けている。
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