京都御苑 堺町御門 その5
京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その5
京都御苑 堺町御門 その3では、文久2年(1862)12月9日に制定された国事御用掛と翌文久3年(1863)2月13日の国事参政と国事寄人の顔ぶれを見ながら、急進派の躍進を記してきた。また、京都御苑 堺町御門 その4で、急進派の主張する西国鎮撫使と御親征に対する公武一和派及び穏健派の対応について見てきた。そして8月13日から始まる八月十八日の政変の準備状況と共に、この政変を企画した人物についていくつかの論文を参照しながら考えてみた。ここでは8月13日から18日に至る6日間の公武一和派の活動を見て行く。
この6日間の推移は、会津側の史料として北原雅長の「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))、広沢安任の「鞅掌録」(「日本史籍協会叢書 会津藩庁記録3」(東京大学出版会 1919年発行 1982年覆刻))そして山川浩の「京都守護職始末」(「東洋文庫 京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1965年刊))などがある。これに対して薩摩側の史料としてはいくつかの書簡等はあるもののまとまったものが少ない。北里闌の「高崎正風先生伝記」(啓文社印刷工業 1959年刊)に高崎正風の日記が引用されているので、これらを参照し時系列的に追いかけてゆく。
「七年史」によると薩摩藩士高崎正風が三本木の秋山悌次郎等を訪ねたのは8月13日としている。「高崎正風先生伝記」にも13日の日記として下記のようにある。
十三日
一 早朝秋江会、中江出、桜江昇、又中江参云々
五更 両尊より御書到来。
「(秋は秋月悌次郎、中は中川宮、桜は近衛公)」との注意書きがあるので、秋月との面会の後に中川宮、近衛忠煕、再び中川宮と精力的に動き回ったことが分かる。さらに夜更けには中川宮と近衛前関白からの書が届いている。「七年史」では、秋月は黒谷に馳せ松平容保に報告し、容保は帰国途上の藩兵を呼び戻している。その上で高崎と共に中川宮邸を訪れ宮に拝謁している。高崎等は中川宮に英略を請うたところ、14日が主上の御神事が終わる日なので、早朝に鎮西大使の命を辞するという口実で参内し内勅を奉じるという計画が中川宮から打ち明けられる。当時中川宮は、還俗していないため正式には尊融入道親王であり、御神事中の主上に法体のままで参内することができなかった。ただし「鞅掌録」では御神事の終了を16日としており、他の書籍にも中川宮が14日に参内した記述を見ることができないので、「七年史」の誤りかもしれない。なお中川宮家への訪問について、高崎の日記では「中江出」と秋月の同行については触れていない。いずれにしても、高崎は近衛父子との面談し、政変に対して慎重な態度を示していることを、その日の内に再び中川宮に報告している。
14・15日の会津藩及び薩摩藩の活動については「七年史」「鞅掌録」「京都守護職始末」にも記述がない。また高崎の日記の8月15日の条には以下のことが記されているのみである。
十五日
一 夜冨田亭ニ会
秋月悌次郎 広沢富次郎
大野 英馬 松坂 三内
また正確な日時は分からないが、薩摩藩が近衛家を、会津藩が二条家を担当し、政変実行のための説得を行っている。大野英馬は二条斉敬に謁見し、非常の手段を用いない限り国事為し難しと説明したものの、二条右大臣は会津と薩摩の兵力で長州藩と京の浮浪浪士達を駆逐できるかを疑い、なかなか賛同しなかった。大野は二条家の祖先にあたる藤原鎌足が賊臣蘇我入鹿を誅した事例を取り上げ、今日の時勢において躊躇することはないと説得したことが「七年史」「京都守護職始末」に記されている。
前関白近衛忠煕も同様に慎重であった。13日に高崎に送った書状には、「禁中之都合イカニモ無覚束」と朝廷内の対応がおぼつかないことを述べ、今一つ「熟案」がなければならないとし、中川宮に相談するようにと述べている。佐々木氏の「幕末政治と薩摩藩」では、15日も高崎は中川邸を訪問し「策略之次第」を説明したところ宮は「決断」したとしている。その上で近衛忠煕と共に参内し天皇を説得するべく、近衛邸に高崎を向かわせたが成功は覚束ないと同意しなかった。
8月16日早朝に中川宮は一人で参内している。徳田武氏の「朝彦親王伝 維新史を動かした皇魁」(勉誠出版 2011年刊)では、親王は寅の刻(午前4時頃)に参内する予定だったが、実際に参内できたのは辰の刻(午前8時頃)であったとしている。急進派の公家が2、3人参内していたので、唐門(公家門)前の幕の内で待機していた大野英馬、松坂三内、秋月悌次郎、柴秀次、広沢安任等は事破れたと思い、大野と柴は黒谷に報告に向かった。残る秋月と広沢そして高崎は宮邸に行き親王からの報告を待った。親王は一度早朝に参内したが、「痔痛在らせられ御用場にて殊の外時刻を移させられ」、辰の刻となり公家の参内が始まったため詳しい話ができずに「定策」だけ奏上して帰邸している。
ただし佐々木克氏は「幕末政治と薩摩藩」(吉川弘文館 2004年刊)において。「七年史」の記述による14日奏上が実際には行われ、15日に政変の実行が可能だと「英断」したのは、14日夜の奏上における感触があったからと考えている。そのため16日の参内は細部の説明を行うための奏上でもあったと推測している。
いづれにしても8月16日は不発に終わった。その理由については、「鞅掌録」の以下の部分を読めば明らかである。
天皇ニモ大ニ噴興シ玉ヒ叡断シテ暴徒ヲ除キ玉ハントス然共時稍早シトシテ大ニ危ミ親王ニモ其事ニ興ラスシテ武家ノ力ヲ以テセンヿヲ欲シ玉ヘリ依テ親王ニ戒メ堅ク秘シテ漏洩セサラシメ玉フ鎮撫ノ命如キハ天皇固ヨリ親王ノ固辞セラレシヿヲ欲シ玉フ
つまり主上は自らが行うのには時期尚早、今回は主上も親王も関与せずに武家の力を借りて行いたいと考えていたことが分かる。このため、会津・薩摩両藩も兵を動かすことができなかった。さらに、「鞅掌録」には「親王乃天皇ニハ叡決シ玉ヘ共勢ノ成シ難キヲ以テ後ノ機会ヲ待シメ玉フト云フヲ諭シ知ラセラル」と薩摩・会津両藩を慰撫する言葉をかけ、「天皇深密ノ勅ヲ蒙ラレシヲ知ルモノナシ然共親王ニハ事敗レタリトシ帰臥シテ屏息セラレタリ」という手詰まりな状況が見えてくる。薩摩藩士達の憤激した有様は、「伊達宗城在京日記」(「日本史籍協会叢書 伊達宗城在京日記」(東京大学出版会 1916年発行 1972年覆刻))の文久3年(1863)11月2日の条に高崎正風が8月17日の顛末を伊達宗城に陳述したとして残されている。
屋敷へ帰り同志之者へ申聞候処 御英断御処置ニ付不得止頭分ヘハ委敷申聞候由大ニ致憤激最早難堪是より転法輪殿へ押寄可申と騒き候故種々となためよふ々々鎮静の由、夫より強情者召連酒楼へ参り酒為呑居候
つまり薩摩主体で計画した政変が不発に終わったため、その鬱憤を晴らすため酒楼へ繰り出したのであろう。「高崎日記」もこの一日を「十六日 一 未明出発 次第略ス 昼頃帰宿」と非常に簡潔に纏めている。
上記の「伊達宗城在京日記」の続きの部分には17日の朝に宸翰が中川宮に下されたことが記されている。
御震(宸)翰ハ被下候処今夜決断処置可致尤 宮も薩も関係ハ為ニ不宜因州会津ニテ為取計可申
主上は17日夜に政変実行を決意したものの、中川宮と薩摩藩は関与せず会津と因州によって為させしめることに固執していた。決行日を定めたものの、方針は16日の「武家ノ力ヲ以テセンヿヲ欲シ」から変わっていない。これを原口清氏は「文久三年八月十八日政変に関する一考察」(1992年発表 「原口清著作集1 幕末中央政局の動向」(岩田書院 2007年刊)収蔵)で、クーデター失敗の場合への配慮と見ている。恐らくこの理由で正しいと思われる。主上の想いとは別に高崎等は薩摩藩の参加を中川宮もまた自らが企てに加わることを決め、同日中に再び近衛父子を薩摩藩、二条右大臣を会津藩が担当し説得を行っている。「高崎日記」では「十七日 一 会来 宮江出 陽明江出 策定ル」と云うように綴っている。
8月17日の深夜、すなわち18日子之半刻に主上の宸翰に従い中川宮が参内し、子之下刻には近衛父子、二条右大臣、徳大寺内大臣そして守護職・松平容保、所司代・稲葉正邦も前後して参内している。薩摩・会津藩兵が出動したのが子之半刻であった。九門は、勅命を以って当直の葉室左大弁長順が閉じている。なお会津藩を中核とした禁裏守衛配備は午前4時頃に完了している。次に在京の池田慶徳(因幡)、蜂須賀茂韶(阿波)、上杉斉憲(米沢)、池田茂政(備前)等諸大名に対して、兵ある者は兵を率いての即時参内が命じられた。因州候・池田慶徳の参内が遅れたのは、17日夜半に藩重役・黒部権之助、高津省己、早川卓之丞の3名が宿泊所としていた中堂寺と本圀寺本實院で尊攘派藩士22名により暗殺される本圀寺事件が起きたためである。
さらに、両役、国事参政・寄人の参内停止が命じられ、公家門に名前のない堂上方から非蔵人の参勤は停止されている。
この時点で朝議があり、三条実美以下急進派の公家には「以思召参内並他人面会無用之旨被仰候仍申入候也」の達が下された。「七年史」に記された氏名は、広幡忠礼、徳大寺実則、三条実美、長谷信篤、飛鳥井雅典、野宮定功、三条西季知、東久世通禧、河鰭公述、橋本実梁、豊岡随資、万里小路博房、滋野井實在、東園基敬、烏丸光徳、正親町公菫、四条隆謌、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉である。一方、柳原光愛と三室戸雄光、さらに庭田重胤と葉室長順を議奏加勢に任じている。前に辞職していた中山忠能、正親町三条実愛、阿野公誠も召されて議奏復職の命があったが、三卿共に固辞したため、議奏格とした。
長州藩の堺町御門守衛停止と藩兵の京都追放も決定し、夜明け時に中川家執事の烏山三河介と差添人大野英馬が堺町御門を守衛する長州藩屯所に出向き守衛解除の勅命を伝えている。11時頃に参内した関白・鷹司輔熙は朝議を覆すことができなかった。長州藩士も堺町御門内の鷹司邸と九条邸の間に集結し、引き下がる気配がなかった。これを会津藩坂本隊、長坂隊、丹羽隊そして薩摩藩と所司代の淀藩兵が取り囲んだ。「七年史」にはその経緯を詳しく述べると共に、正午以前之形勢と午後四時前之形勢の2枚の地図を附して説明している。
毛利元純、吉川監物そして益田右衛門介等が御所に到着したのは、堺町御門に勅命が伝えられてからのことであった。堺町門内に入ることができなかったので鷹司邸の裏門より入り関白に謁し、事情を確認している。また参内が停止された急進派の公家達も梨木町の三条実美邸に集まり、実美を擁して鷹司邸に移った。この時、勅使の柳原光愛が鷹司邸に下向し関白を召して参内した。御前に召された鷹司関白には、「夷狄御親征之義未だ其機会に無之叡慮に候矯宸慮御沙汰之趣施行相成候全く思召に不被為在尤於攘夷は叡慮少しも不被為替候へ共行幸は暫御延引被仰出候事」という勅言が下された。関白は三条等の弁護を行ったが聞き入れられなかった。
長州藩兵は鷹司邸前に出て三行に陣を組み、大砲を引き、槍鞘を脱し徐々に進み来た。薩会の兵も槍鞘を捨て銃砲に装薬した。両軍は百二三十尺で睨み合った。今度は柳原光愛の子の前光が勅使となり鷹司邸に下向し、「攘夷一件は長州処置叡感之御事に候精々御依頼被為在候但数多の藩中心得違之者有之候ては如何故厚く鎮撫有之様今以勅使被仰下候間心得違無之様候事」を伝えた。元純、監物、右衛門介等は藩邸に退き、勅使御待受仕らんとしたが、鷹司関白邸に勅命が伝えられた。
攘夷御親征之儀兼て叡慮被為在候へ共行幸等之儀に付疎暴之所置有之候段御取調被為在候攘夷之儀者何国迄も叡慮確乎被為在候事故於長州も益尽力可有之候是迄長州効力於朝家候に付人心も振興候事爾後弥御依頼に思召候間忠節可相尽候藩中多数之事故加鎮撫決て心得違無之様益勤王可竭忠力旨被仰出候事
益田右衛門介による三条実美等の嘆願書を提出した後、長州藩は堺町御門から去って行った。鷹司邸に参集した公家達の中から七卿が勅命にそむき大仏妙法院に移っていった。
この記事へのコメントはありません。