本阿弥光悦京屋敷跡 その2
本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その2 2010年1月17日訪問
本阿弥光悦京屋敷跡では初代・妙本から光悦にいたる系図を参照しながら本阿弥家の成り立ちについて見てきた。この項では、室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆に法華宗が広まって行く過程を調べてみる。
本阿弥家が強力な法華(日蓮宗)信徒になったのは、初代・妙本の頃とも、あるいは熱心な法華信者であった松田家から養子を迎えた6代・本光の頃とも謂われている。本阿弥家初代の妙本と日静上人の出会いについて記述したものは、今のところ林屋辰三郎が「光悦」(第一法規出版 1964年刊)に寄せた「光悦の人と時代」という論文で引用した江戸時代の随筆「玉露證話」だけのようだ。
日静は永仁6年(1298)に駿河国の藤原北家の末裔上杉頼重の子として生まれている。姉の上杉清子が足利尊氏の生母となったため尊氏の叔父とされている。暦応元年(1338)に上洛、貞和元年(1345)光明天皇より寺地を賜り鎌倉松葉ヶ谷の法華堂を六条堀川に移している。これが現在山科に移転した本圀寺の始まりである。本圀寺は六条門流と呼ばれ、日像が開いた妙顕寺の四条門流とともに京都における日蓮宗の2大門流を形成した。日静は弘安5年(1282)の日蓮示寂後に生まれたため直接日蓮から教えを受けていない。日蓮六老僧の一人・日郎から教えを受けた日印に師事している。
本阿弥家の初代である妙本が日静上人に京で出会ったとすれば、暦応から貞治にかけてのことと思われる。これは足利尊氏が光明天皇から征夷大将軍に任じられ室町幕府が成立した頃から、足利義満の将軍職相続の時期に当たる。既に鎌倉時代より平安京の北限とされる一条通の北にも公家邸が建築されてきた。そして農村や野原だった北郊の土地が庶民の家として開発され、既に上町と呼ばれるようになっていた。これが今日の上京に変化していく。足利義満が花の御所を造営するのが永和3年(1377)のことであるので、妙本の時代よりやや後のこととなる。しかし花園天皇が土御門東洞院殿を皇居と定めたのが徳治3年(1308)、そして建武3年(1336)には足利尊氏が光明天皇をこの地で擁立している。この土御門東洞院殿は現在の京都御所の原型となるもので、規模は違えど現在の京都御所に近い場所(左京北辺四坊二町)に当時の禁裏は存在していた。上記の花の御所が今出川室町を西南隅とする東西1町南北2町の地に造営される以前、武家の政庁は三条から四条辺りの下京にあった。義満が土御門東洞院殿の北西にあたる室町殿に政庁を移したことにより、上京は内裏を取り巻く公家たちの邸宅と三管四職以下の諸大名及び武家の屋敷が建ち並ぶ地域へと変貌していった。これが庶民の街として発展してきた下京とは異なる性格を持つ町=上京となった理由でもある。
やや時代の下った応永(1394~1428)の頃、洛中洛外には酒屋が342軒存在していたと謂われている。当時、京都の町人の最上層部を構成していたのはこの酒屋などの醸造業と高利貸業を営む土倉であった。ついで各種の商工業者がおり、その中でも朝廷や社寺・公家などの権威を頼りに営業を行っていた座商人、すなわち商工業や芸能の同業者組合が、零細な商工業者や公武に仕える下部より上位に位置していた。そして町人の中でも上層を占める人々はその富裕振りより有徳者、有得者あるいは徳人と呼ばれていた。
一般的な町住人の中には、公家や武家に付属して雑役をこなす中間や小者、下人に下女そして牛飼いなどが主の邸館内の小屋や一般の町中に居住していた。世情が安定し幕府の権力が拡大すると公的機関に勤める小吏も増え、町人も町も拡充していく。公家はもとより京に住んでいたのに対して、武士は領国から京に上ってきた。そして都市に仕事を求めた人々たちも近郊の農村や他国から京に流入してきた。
こうして朝廷と公家を中心とした平安京は姿を消し、室町時代の初頭には商工業者が町人として生活するための街へと変化したのである。そして町人たちの間に自治的な意識が育まれると、治安を維持するための自衛手段として町人の武装化が進んでいく。
室町時代初頭の宗教界において、最も勢力を占めていたのは臨済禅であった。建仁寺、東福寺、南禅寺、万寿寺、天龍寺、相国寺などに代表される五山派の諸山やその住持は、朝廷や幕府と密接な関係を維持してきた。寺領や堂宇の寄進は寺院経営を安定化させ、また紫衣や国師号が勅賜されることによって寺格が高められた。将軍家の菩提寺として相国寺を建立した3代将軍・足利義満は、至徳3年(1386)に五山制度の大改革を実施している。これ以降京都五山、鎌倉五山ともに見直されることもなく、義満が設定した格付けが現在に至っている。五山制度とは将軍が僧録を通じて住持任命権を統制する仕組みであるが、管理される側にとっても官寺として幕府あるいは朝廷の保護下にあるので寺院経営は安定する。そのため幕府の基盤が安定し将軍の権威が最も高まった義満、義持の時代が、五山にとっても最も繁栄した時期となった。
朝廷・幕府と五山を始めとする臨済宗の良好な関係は、嘉吉元年(1441)に発生した嘉吉の乱によって大きく転換していく。室町幕府6代将軍足利義教が播磨・備前・美作の守護赤松満祐に暗殺されるという幕権を失墜させる事件が発生する。足利義教と嘉吉の乱については、百々橋 その2や本法寺で触れているのでそちらもご参照下さい。伏見宮貞成親王が日記「看聞日記」で「万人恐怖」と記すように、義教は些細なことで多くの者を罰してきた。永享12年(1440)3月、義教は満祐の弟である摂津の赤松義雅の所領が没収し、赤松氏の庶流の出身で寵愛している赤松貞村に与えている。つまり赤松家の家督相続に将軍自らが介入したことになる。さらに同年5月義教の命により大和出陣中の一色義貫と土岐持頼が誅殺されるという大和永享の乱が生じている。これにより世間は「次は満祐が粛清される」と騒ぎ立て満祐は隠居に追い込まれる。嘉吉元年(1441)に入っても将軍に敵対する勢力に対する攻撃が続く。同年3月には大和挙兵に敗れ日向へ逃れていた義教の弟の大覚寺義昭が島津忠国によって殺害されている。さらに4月には、対立してきた鎌倉公方足利持氏の遺児を擁して関東で挙兵した結城氏朝を結城合戦で破り、遺児・春王丸と安王丸も斬首に処している。6月18日には家督介入の圧力を受けた富樫教家が逐電、23日にも吉良持助が出奔している。
この緊迫した状況下で、赤松満祐の子の教康は6月24日に結城合戦の祝勝の宴と称して西洞院二条にある自邸へ将軍・義教を招く。自らを討とうとする者など存在しないと思っていたのか、将軍はこの要請を受けて赤松邸に入った。一族根絶やしになるという恐怖心を抱いていた赤松氏の決意は固かった。赤松の手勢によってあっけなく将軍の首は落とされた。その上、幕府内には将軍家に反乱を起こした赤松氏の帰国を阻もうとする者もいなかった。7月11日になって、ようやく幕府は赤松氏討幕軍を摂津経由で発進させている。山名一族も但馬や伯耆から播磨、備前、美作へ侵攻している。幕府は播磨攻略に2ヶ月近い時間を要し、ついに9月10日城山城で赤松満祐を切腹に追い込んだ。嘉吉の乱の首謀者である赤松満祐討伐を果たしたものの、その手際の悪さは、今まで義教が押さえ込んできた守護大名に勢いを与えることとなった。そして幕府の権威を背景に繁栄を極めてきた京五山派も、嘉吉の乱以降守護大名による寺領侵略に悩まされるようになる。荘園の直接経営を行ってきた五山十刹は農民から収奪した富を資本として土倉と結合して質屋や金融そして日明貿易への投資を行ってきた。これらの行為は在地の土豪や下層民衆の反感を生み出してきたと考えられている。守護大名でも将軍を殺害すること出来るといことが一度示されると、守護や土豪による諸国の五山領荘園への略奪が始まる。さらに下層民衆によって起こされた土一揆の襲撃対象にもなっていく。このように五山の衰退は嘉吉の乱によって始まったが、この傾向をより強くしたのは勿論応仁の乱の発生である。
五山の衰退が嘉吉の乱後に進行したのに対して、五山叢林から林下と軽視されてきた大徳寺と妙心寺が、在野的な性格から参禅学道を究明する道場としての道を歩み始める。応仁の乱で荒廃した大徳寺の再興に着手したのは、文明6年(1474)後土御門天皇の勅命により住持になった一休宗純である。一休は参禅していた堺の豪商・尾和四郎左衛門(宗臨)の力を借りて方丈や法堂を落成させている。文明13年(1483)の一休示寂後も堺の商人たちによる大徳寺への寄進が続き、延徳3年(1491)には尾和等によって一休の塔所である真珠庵が建立されている。
妙心寺の室町時代初頭は、五山が謳歌した世俗的な繁栄から遠く離れていた。開山・関山慧玄の禅風は厳格で、自らの生活は質素を極めたとされている。初期の妙心寺も開山の禅風をそのまま引き継いでいた。6世住持の拙堂宗朴が足利氏に反旗を翻した大内義弘と関係が深かったため、応永6年(1399)将軍・足利義満によって寺領を没収される。妙心寺の寺領は南禅寺の廷用宗器に与えられ、廷用は寺号を龍雲寺に改めるなど、妙心寺自体が一時中絶する事態になった。この後、永享4年(1432)まで状況が好転することはなかった。。
妙心寺もまた応仁の乱によって伽藍を焼失している。乱後の復興に尽力したのは六祖雪江宗深であった。雪江の禅風を敬慕し参禅した管領細川勝元は文明5年(1473)一族を挙げての妙心寺復興に乗り出した。勝元は志半ばで没するが、子の政元が父の遺志を継ぎ同9年(1477)に方丈を建立している。その後、妙心寺が繁栄の時期を迎えたのには、厳重な会計制度を敷いたためと謂われている。妙心寺を「そろばんづら」と呼ぶのはこの堅実な寺院経営に拠っている。
この室町時代において、五山十刹あるいは諸山に帰依していたのは朝廷や公卿、将軍や管領・守護大名を始めとする武士階層、そして裕福な堺などの商人であった。これに対して一般的な民衆は何に帰依していたか?当時の禅宗は民衆の求めていた仏に対する信仰や後世を保証する極楽往生の理念が欠落していた。日々の生活に精一杯の民衆にとって、自力で得悟を求める禅宗は非常に遠い世界のものに感じたであろう。民衆の心を掴んだのは、信心為本、絶対他力を説く日蓮の法華、法然の浄土、親鸞の真宗、一遍の時宗であった。
法華宗の京都への伝道は鎌倉時代末の日像による妙顕寺建立に始まる。永仁元年(1293)日像は、日蓮の遺命により京都での布教を始めている。上洛して間もない同2年(1294)には、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い造酒屋の柳屋仲興や大覚寺の僧で後に妙顕寺2世となる大覚らの帰依を受ける。しかし徳治2年(1307)延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの諸大寺から迫害を受ける。さらに朝廷に合訴され、京都追放の院宣を受けてしまう。 徳治2年(1307)に追放となった日像は延慶2年(1309)に赦され京都へ戻る。しかし翌3年(1310)になると再び諸大寺から合訴され京都から追放される。同4年(1311)赦免、元亨元年(1321)に追放そして赦免と、目まぐるしく追放と赦免を繰り返す。
日像は布教の拠点となる法華堂を綾小路大宮(四条大宮の南)に建てた。これは裕福な洛中の商工業者を信徒とするためであり、この地は京における有数の商工人街でもあった。日像の門流は法華堂が建立された地名より四条門流と呼ばれた。元亨元年(1321)今小路に妙顕寺を建立する。現在の上京区大宮通上長者町で安居院の旧地とされている。その後も各地を転々とし応仁の乱や天文法難を経て、二条西洞院の地に移っている。そして現在の地である小川寺之内に移転したのは豊臣秀吉の命による。
続いて日蓮直弟の天目派が二条西洞院の地に本門寺、富士日興派の日尊が上行院を六角油小路に建てている。上行院からは日源を開山とする住本寺が二条堀川に分立している。さらに六条堀川には日静を開山とする本国寺が建立され、公武とも接近し妙顕寺に匹敵する地位となっていた。日静の本国寺は六条門流と呼ばれていた。応永16年(1409)に日秀が本満寺を興している。このように東国で宗教的基盤を築いた法華宗各派が、京都に流入し応仁の乱勃発前には、妙顕、本国、大妙、宝国、上行、住本、本門、妙覚、弘経、本満、本覚、立本、妙連、妙満、本禅、本能、学養の諸寺が下京に集中した。
以上のように室町中期の京都で台頭した法華宗も2つの宗風への分離が始まる。一つは寺門の貴族化と摂受的な宗風。建武元年(1334)妙顕寺は後醍醐天皇より綸旨を賜り勅願寺となり、本圀寺も公家・武家の帰依を得て勢力を伸ばすと共に勅願寺の綸旨を賜っている。つまり法華宗が普及し拡大化する過程で、時の権力者やその周辺の上位の人々に信仰を広める動きが出てきたということである。
もう一つの宗風は不受不施を堅守し説伏伝道を貫くためには法難をも甘受するという決意に依るものである。これは上記のように新しい宗派の誕生による分離ではなく、各門流から派生したものであった。主だったものは、六条門流の日静の弟子である日陣による本禅寺、中山門流の日什による妙満寺、四条門流・妙顕寺から分かれた日実・日成の妙覚寺、妙顕寺の日隆による本能寺、そして日親の本法寺であった。
門流の分立や門流間の対立が激化する中、延暦寺からの他宗排斥の圧力も日増しに増加した。そして寛正7年(1466)に折伏弘通と不受不施を推し進める門流によって寛正の盟約が結ばれた。これは後の日蓮教団の発展へと繋がっていった。以上が応仁の乱勃発直前の状況である。
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