貴船神社 本宮 その4
貴船神社 本宮(きぶねじんじゃ ほんみや)その4 2010年9月18日訪問
貴船神社 本宮 その3では、「上賀茂のもり・やしろ・まつり」(思文閣出版 2006年刊)を参照し室町時代から江戸時代にかけての貴布禰社と賀茂社の紛争を中心に見てきた。平安時代後期(寛仁元年(1017)頃)から800年以上続く関係が一変するのは、維新後の明治4年(1871)5月14日のことであった。この間、幕府や政権が交代しても旧例は事勿れ的に継承され、一度決まった評定を覆すことは実に困難であることを良く示している。この項では現在の貴船神社 本宮の境内の様子を中心に書いてみる。
貴船神社 本宮で書いたように、貴船川の水面よりかなり上った位置に本宮の建物は建設されている。現在、貴船川沿の京都府道361号上黒田貴船線の両側には料理旅館などが軒を並べているが、料亭の貴船荘の北側に家並みが途切れる場所がある。ここは貴船神社の駐車場で小さなトイレ以外の建物は建てられていないため、境内の高さを確認するのには絶好の場所でもある。この駐車場の奥には龍船閣が見える。境内から貴船川を眺めるために建てられた楼閣であることが分かる。駐車場奥の法面に植えられた樹木がやや邪魔になるものの、道路越しに貴船川が見下ろせるように造られている。この龍船閣が建てられた地盤の高さは2階建ての貴船荘の屋根位に見えるので6~8mというところであろうか。さらに龍船閣の床面(=境内の地盤面)までが3~5mであるので、貴船神社の境内は道路面から10~15m位上がっているように思える。つまり二之鳥居の先の春日灯籠が並ぶ参道は、石段によって10m近く上ることになる。これが貴船神社の有名な景観を作り出している。さらに境内西側にある拝殿と本殿石垣の上に築かれているので境内より1.5m位高い。このように現在の貴船神社は、龍船閣の地盤面(道路面+6~8m)、境内(+10~15m)、そして本殿(+12~16m)の3つのレベルに展開している。そして、このような空間構成は貴船山の斜面を切り開いて造営したことによっている。
秋里籬島によって安永9年(1780)に著された都名所図会には、江戸時代中期の貴布祢社の様子が分かる図絵が残されている。先ず画面中央下に鳥居と祠が見える。これは貴船神社の二之鳥居と白髭社であろう。この祠の先には上り勾配の参道とかなり急な石段が見える。残念ながら現在のような春日灯籠は図絵には描かれていない。石段を上り切った先には中門とカツラの神木らしき木が描かれている。境内の左側には社務所のような屋根、右側には現在の龍船閣に似た望楼が見える。さらに右側には中門と「河尾社」そして滝と欄干のある橋が描かれている。これは現在の川尾社と鈴鹿川にかかる鈴鹿橋と一致する。都名所図会では拝殿と本殿の間に石段があり、その先に「うし市社」が見える。現在は境内南西の石段を上り拝殿を経由して本殿へ昇殿する形式に改められているので図絵とは異なっている。これ以外は江戸時代中期から大きな変更が成されなかったことが分かる。
もう一度、南側の参道から北側の参道に抜ける順路で境内を見ていく。先ず府道361号の西側に貴船神社の二之鳥居と社号標石が建ち、その傍らには御神木の大杉そして末社の白髭社が祠がある。白髭社の御祭神である猿田彦命は、古事記で猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神、日本書紀では猿田彦命と表記される。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命を道案内した国津神である。つまり高天原にいる神々、あるいは高天原から天降った神々は天津神、葦原中国に現れた神々は国津神と呼ばれている。猿田彦命は邇邇芸命を道案内したことにより道の神や旅人の神と崇められ道祖神と同一視されている。三浦俊介氏は著書「神話文学の展開 貴船神話研究序説」(思文閣出版 2019年刊)で白髭社について以下のように記している。
今は二の鳥居横の小さな末社でしかないが、江戸時代前期には現在地より南の河畔の岩上に祭祀されていた。祭神は猿田彦命である。残念ながら、現在地に遷った時点をまだ特定できていない。
三浦氏はこの白髭社と白石社そして一之鳥居の傍らにある梶取社の三座を、白髭族が白髭神を祀った「白髭社」と考えている。白髭族とは静岡浅間神社の宮司であった小野迪男が著した「白髭神社について」に出てくる白髭神を奉ずる集団のことで、海浜から川の源流まで開拓しながら遡上してきた人々のことである。三浦氏によれば白髭族は「白・シラ」の一族であり、基本的には新羅系の渡来人と考えられている。この一族は淀川、鴨川そして賀茂川を遡上しこれらの水系の水源地にほど近い貴船の地に到達し、白髭神を祀ったのが貴船神社の始まりと考えられる。この白髭族の遡上は、鴨県主の先祖にあたる賀茂氏が上賀茂の地に進出する5世紀後半の雄略天皇から清寧天皇の頃より以前の出来事であったと思われる。
遷都された平安京の治水や祈雨止雨などを願うために、ささやかな地域神であった貴布禰社に大和国丹生川上神社から罔象女神が勧請される。この平安時代初期の大きな変化によって、それまでの御祭神であった白髭神は地主神である猿田彦命となったと三浦氏は考えている。つまり新たな御祭神を祀るために本社の川下に末社として遷ったということである。そして新たな貴布禰社には朝廷の官吏達が多数派遣されたことは、何度も祈雨止雨の祭祀が行われたことからも想像される。そして洪水被害から復興する際に高龗神もしくは闇龗神という竜神を奉じて再起する。これを契機として賀茂氏の支配下に入っていったとも考えられる。
白石社の項で記したように、末社 白石社の御祭神は下照姫命。古事記では本名を高比売命(たかひめのみこと)、別名を下光比売命、下照比売命(したてるひめのみこと)、日本書紀では下照姫あるいは高姫、稚国玉(わかくにたま)と記されている。しかし貴船神社に伝わる秘伝書「黄舩社秘書」には、白石社の御祭神は「白髭大明神也。本地ハ地蔵菩薩也」という記述があるようだ。三浦氏は白髭社と白戸社の2社が同じ御祭神を祭祀している点を「創建の経緯が異なるのであろう。」と記している。また末社 梶取社の御祭神・宇賀魂命(うがのみたまのみこと)は、「古事記」では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、「日本書紀」では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記される。しかし梶取社の旧名・鑰取社が三重県松阪市の神山神社の鑰取大明神と類似すること、そして同社の社記にある「白髭大明神は近年俗に鑰取大明神と称するようになった。」記述から白髭神に関係するものと見ている。
上記の都名所図会では参道の最後の部分に石段が設けられているようにも見えるが、現在の貴船神社は白髭社の部分からほぼ同じ勾配で始まっている。京都府立京都学・歴彩館のデジタルアーカイブに収蔵されている黒川翠山撮影写真資料の黒川翠山撮影写真資料の写真001 798と写真001 802を見ると現在と同じように白髭社の前から石段が始まり中門まで続いていることが分かる。撮影者の黒川翠山は本名を種次郎といい、明治15年(1882)京都市上京区に生まれている。明治33年(1900)から本格的に写真家を志し、昭和19年(1944)に没するまで明治、大正、昭和にわたり写真を撮り続けてきた。明治後期から戦前にかけての写真であることは確かであるがそれ以上の情報がない。また石井行昌撮影写真資料の写真寄託001 795にも同じような光景がある。石井行昌撮影写真資料は明治27年(1894)ら大正12年(1923)頃にかけて撮影されたものなので撮影時期の幅がやや狭い。この2つの写真を見比べると鳥居の周辺に写り込んでいる建物や点景から前者の方がやや新しいようにも見える。しかし何れの写真にも春日灯籠が写っていない。どうやらこの有名な光景はそれほど古くからあるものではなかったようだ。
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