東山本町陵墓参考地
東山本町陵墓参考地 (ひがしやまほんまちりょうぼさんこうち) 2008/05/10訪問
霊雲院から芬陀院に行く途中、東山本町陵墓参考地に寄る。退耕庵の前を通り北門から境内を出て本町通(伏見街道)を南下する。なかなか分かりづらい場所のようなので注意深く進むと左手に町並みが途切れる場所があった。
天皇、皇后、皇太后などの墓所を「陵」と呼び、その他の皇族の墓所を「墓」とする。「陵墓参考地」は皇族の墓である可能性があるものとして、被葬者を特定せず、宮内庁が管理している墓所を示す。宮内庁のサイトでは陵188、墓552そして陵墓参考地46としている。この東山本町陵墓参考地もそのひとつである。
江戸時代の尊皇思想の高まりとともに、天皇陵探索の気運が高まり、本居宣長、蒲生君平等が所在地の考証や現地調査を行い、幕府による修陵も行われてきた。特に文久2年(1862)から幕府「文久の修陵」を行い、各陵の工事前と工事後の様子を絵師に描かせ、上下二卷にまとめ、「文久山陵図」として慶応3年(1867)に朝廷と幕府に献上した。現在、朝廷献上本は宮内庁書陵部で、幕府献上本は国立公文書館の所蔵となっている。このように天皇陵の探索および治定のほとんどは既に江戸時代に終わり、一部のものについて明治時代以降も引き続いて行われた。
江戸時代の治定作業が完全なものとはいえなかったため、その後も調査は継続的に行われてきたようだ。2005年の読売新聞の記事(2005/05/08)によると、「歴代天皇や皇族の陵墓と、その可能性のある陵墓参考地について、宮内庁(旧宮内省)が戦前から戦中、戦後の昭和30年代にかけて、一部指定の見直しを本格的に検討していた」とある。昭和24年(1949)の「陵墓参考地一覧」には、すでに確定している天皇陵の他の候補として9つの事例が記載されており、その中には仲恭天皇を被葬者として想定した東山本町陵墓参考地については「現陵よりも確かなり」との記述があった。この記述は昭和32年(1957)ころまでに追記されたと見られている。
承久3年(1221)に順徳天皇は懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、鳥羽上皇の挙兵に協力したのが承久の乱の始まりである。承久3年(1221)5月14日 挙兵は成功し京を制圧した。しかし鎌倉幕府の反攻は早く、5月22日には軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けた。6月5日と6日に東山道と東海道で京方を撃破した幕府軍は6月13日翌14日の宇治川の合戦でも勝利し、そのまま京になだれ込み勝敗が決したのは開戦からわずか1ヵ月後のことだった。
7月に入ると首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された戦後処理が行われた。この処理の中で2歳で即位した仲恭天皇はわずか81日間(1221年5月13日~1221年7月29日)と歴代天皇の在位期間の中でも最短で廃位されただけでなく、その即位すら認められずに摂政九條道家(東福寺を造営)に渡御、天福2年(1234)、17歳で崩御された。そのため諡号・追号がつけられず、九条廃帝、半帝、後廃帝と呼ばれていた。
明治3年(1870)に天皇として認められ、仲恭天皇と追号されたが、このような経緯のため葬られた場所も不明であり、九条殿で崩じたという史実をふまえ、明治22年(1889)に九条通に改めて円墳が作られたものが現在の九条陵である。
ともかく九条陵は明治になって設営したものであることは事実である。しかし仲恭天皇の葬られた場所を記した確たる記録はないが、東福寺周辺の九条家の寺院等に埋葬されたという推測も否定もできない。
かくて東山本町陵墓参考地は「陵墓参考地」という名称のままで、今後も長い時を過ごしていくのではないだろうか。
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