北野天満宮
北野天満宮(きたのてんまんぐう) 2008/05/14訪問
とようけ茶屋の前の今出川通を横断すると北野天満宮の一の鳥居が目の前に迫ってくる。
北野天満宮の祭神は菅原道真公である。相殿に道真の長男・中将殿(高視)、夫人の吉祥女を祀る。梅宮大社や八坂神社と同じ二十二社の下八社の一社で、旧社格では官幣中社。
菅原道真の大宰府への配流やその後の怨霊話しは有名であるが、改めてまとめてみる。
道真は承和12年(845)父 菅原是善、母 伴氏の三男として生まれる。菅原氏は野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫であり、平安時代初期の菅原古人が大和国菅原邑に住んでいたことから、菅原氏を名乗る。古人から数えて4代目が道真となる。大江氏と並んで子孫は代々、紀伝道、すなわち文章道を家業として朝廷に仕えてきた。菅原家は学者の家系であり、当時は中流の貴族であった。母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している家系である。いずれも政治力の少ない家柄であった。
道真が生まれた時代は、既に藤原北家の藤原冬嗣は天長3年(826)に亡くなり、冬嗣の二男の藤原良房とその養子の基経の時代となっていた。当時、藤原北家は冬嗣の娘であり、良房の妹の順子が東宮 正良親王(後の仁明天皇)の妃でなっていた。正良親王は天長10年(833)に仁明天皇として即位する。仁明天皇の東宮には、先代の淳和天皇の皇子恒貞親王が立てられていた。しかし承和の変で恒貞親王が廃され、仁明天皇と順子との間に生まれた道康親王が立太子される。承和11年(844)道康親王が即位し、文徳天皇となると良房は娘の明子を女御に入れた。嘉祥3年(850)明子が第四皇子惟仁親王を生むと、僅か生後8カ月で直ちに立太子させた。これは先例のないことであった。そして天安2年(858)文徳天皇が31歳で崩御すると、良房は9歳の惟仁親王を清和天皇として即位させた。このように一族から2代に渡って入内し、2代の天皇と強い姻戚関係を結ぶことができた。
良房は貞観8年(866)に起きた応天門の変で、大納言伴善男を失脚させ、事件に連座した大伴氏、紀氏の勢力を宮中から駆逐するとともに、上古からの名族に対して大打撃を与えた。この年、清和天皇は良房に摂政宣下の詔を与えた。これが人臣最初の摂政であり、藤原氏の摂関政治の始まりとなった。
良房の後を継いだ基経は、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握る。元慶8年(884)陽成天皇が退位し、光孝天皇が即位すると大政を基経に委ねる詔が発した。宇多天皇の時代となり、先帝に従い基経に「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのちに奏下すべし」という詔を発した。しかし基経が儀礼的に固辞したため、改めて「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」との詔を出した。基経は「阿衡には位貴しも、職掌なし」として政務を放棄してしまった。半年も政務が渋滞した結果、宇多天皇は自らの誤りを認める詔を発布することで決着がついた。この一連の騒動を阿衡事件と呼ぶ。これにより藤原氏の権力が天皇よりも強いことをあらためて世に知らしめることになった。基経にとっては、光孝天皇の時に与えられていた政務の全面委任を示す言葉が2度の詔には明記されなかったため、天皇が自己の政治権限の削除を図っているとの反感を抱いたのではないだろうか。そして光孝天皇の時と同等の権限を求めたという説は、この事件の決着から見ても分かり易い。
阿衡の詔を起草した橘広相は罷免されたが、基経の怒りはそれで収まらず、なおも広相の流罪を求めた。菅原道真が書を送って諫言したことで事件は終結した。このような経緯で宇多天皇は基経の死後に菅原道真を重用するようになった。
寛平3年(891)関白藤原基経が亡くなると、宇多天皇は摂関を置かず源能有を事実上の首班として藤原時平と菅原道真、平季長等の近臣を重用し政治改革を開始した。この時、道真は46歳になっていたのに対して時平はまだ21歳だった。そのため時平には基経が掌握していた政治的権限が与えられていなかった。
寛平6年(894)の遣唐使廃止、寛平8年(896)の造籍、私営田抑制、清涼殿を警護する滝口の武士の設置等に加え、国司に一国内の租税納入を請け負わせる国司請負や、位田等からの俸給給付等を民部省を通さずに各国で行う等、国司の権限を強化する改革を次々と行ったとされている。この宇多天皇による親政が行われた治世を寛平の治と呼ぶ。この動きは、有力貴族や寺社などの権門を抑制し律令制への回帰を強く志向した王朝国家体制への再確立だったと考えられている。宇多天皇は阿衡事件を教訓とし、藤原氏の介入を抑制する方法で実現しようとした。これを推進したのが菅原道真であり、この動きに危機感を感じたのが藤原時平であったとも言える。
寛平9年(897)宇多天皇は醍醐天皇に譲位し、その2年後には自ら造立した仁和寺で出家し法皇となる。即位した醍醐天皇は父帝の訓示に従い、藤原時平と菅原道真を左右大臣とし、政務を任せた。寛平の治は醍醐天皇の延喜の治、村上天皇の天暦の治と継承されていく。宇多天皇が道真を重用することで藤原氏の政治的権限の拡大を抑えてきたが、醍醐天皇にとっては藤原氏との結びつきを強くすることで、宇多法皇の院政を排除しようと考えがあった。このような背景の下で、昌泰4年(901)左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にする昌泰の変が起こったと考える。そして道真は延喜3年(903年)に大宰府で亡くなる。
道真の死後、京には異変が相次ぐ。延喜9年(909)藤原時平が39歳の若さで病死、延喜23年(923)醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨去、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王も延長3年(925年)に病死。そして延長8年(930)朝議中の清涼殿の南西の第一柱に落雷し、大宰府に左遷された道真の動向監視を命じられていた藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出た。このような異変に醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御された。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。また清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられるようになった。ちなみに雷除けとして唱えられる「くわばら」は道真のの領地 桑原には雷が落ちなかったと言う伝承から由来している。
北野天満宮の創建も、この菅原道真の怨霊信仰によっている。延喜22年(923)朝廷は歿後20年目に道真の左遷を撤回し、右大臣に復し正二位を贈った。天慶5年(942)右京七条に住む多治比文子に、「北野馬場に祠を建てよ」という託宣があった。文子の力では社殿を作ることもできず、自宅に小さな祠を建て祀ったのが文子天満宮の始まりとされている。天慶9年(946)にも近江比良宮禰宜神良種の子の太郎丸にも同様のお告げがあった。そして天暦元年(947)北野朝日寺の僧 最鎮と相談して祠を設けたのが北野天満宮のはじまりとなる。多治比文子については、満願寺の項で触れたように、生年も没年も不詳の平安時代中期の女性であり、童女とも巫女とも道真の乳母とも言われているが、乳母とするとどうしても年齢が合わない。 天徳3年(959)藤原師輔が自分の屋敷の建物を寄贈し壮大な社殿に作り直され、神宝を安置したと言う。藤原師輔の父 藤原忠平は藤原時平の弟にあたる。時平亡き後、朝政を司り、延喜の治を推進した。朱雀天皇のときには摂政、次いで関白に任じられる。時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされている。
永延元年(987)に初めて勅祭が行われ、一条天皇より「北野天満宮天神」の号が下賜された。そして没後90年の正暦4年(993)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。
境内は一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と続く。参道沿いには奉納灯籠とともに臥牛の像が多数置かれている。が並ぶ。牛は天満宮において神使とされている。しかしその理由についてはどうも明確でないようだ。道真の出生年は丑年である、亡くなったのが丑の月の丑の日である、道真は牛に乗り大宰府へ下った、牛が刺客から道真を守った、道真の墓所・太宰府天満宮の位置は牛が決めた など多くの伝承がある。参道の西側は梅苑となっている。
参道は緩やかに曲がりながら楼門に続く。そこから先は塀で囲まれた空間になっている。
楼門の西側には絵馬堂があり、その正面に重要文化財に指定されている三光門(中門)が置かれている。すなわち一の鳥居からこの中門までが一直線上に並ぶような配置にはなっていない。中門の左右には回廊がつながり社殿を囲む。国宝の社殿は慶長12年(1607)に造営されたもので本殿、石の間、拝殿が1棟となっている権現造となっている。すなわち入母屋造・平入の本殿13間、石の間7間、拝殿5間の3棟を、入母屋造・妻入の縦の棟で串刺し状に一体化している。
天正15年(1586)10月1日、北野天満宮の境内で北野大茶湯が豊臣秀吉よって催される。北野大茶湯については既に表千家と裏千家の項でも触れている。もともとこの茶会は10日間行われる予定であったが、10月1日の1日を以って終了となる。秀吉の気まぐれさの表れか、あるいは所期の目的を達成した結果だったのか分からない。身分制度にとらわれない、他には類例を見ない歴史的なイベントをプロデュースしたことは明らかである。
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