妙心寺
臨済宗妙心寺派大本山 妙心寺(みょうしんじ) 2008/05/14訪問
仁和寺の二王門を潜り、きぬかけの道に出る。龍安寺方向にきぬかけの道を戻ると、仁和寺の東南の角で一条通に当たる。この一条通を東に進むと京福電鉄北野線の踏切と妙心寺駅に出会う。そのままさらに進むと右手に妙心寺の北総門が現れる。
妙心寺は臨済宗妙心寺派大本山で山号は正法山。
平安京の北西部に12町の敷地を占め、三門、仏殿、法堂などの中心伽藍と共に山内塔頭36箇院を持つ大寺院である。この他にも龍安寺などの境外塔頭10箇院を加え、現在妙心寺の塔頭は46箇院に及ぶ。また日本の臨済宗寺院 約6000か寺のうち、約3400か寺を妙心寺派で占める。
妙心寺の歴史はそれ程古いものではない。持明院統の花園天皇は文保2年(1318)大覚寺統の後宇多天皇の第2皇子(後醍醐天皇)に譲位して上皇となり、この地にあった離宮 萩原殿で暮らしていた。建武2年(1335)花園上皇は落飾して法皇となり、萩原殿を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。建武4年(1337)宗峰の臨終間近に花園法皇が
「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」
と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙し、正法山妙心寺の山号寺号を命名した。釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉に向かって述べた正法眼蔵涅槃妙心という句から取ったものである。妙心寺の公式HPでは宗峰によって山号寺号が定められ、宗峰が亡くなった建武4年(1337)を開創の年としている。 関山慧玄は建治3年(1277)信濃国の高梨氏に生まれる。嘉元4年(1307)建長寺に入り南浦紹明に師事、慧眼の法名を授かる。その後帰郷するが、建長寺開山・蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じた時に宗峰妙超に出会う。慧眼は大徳寺で宗峰に師事し、嘉暦4年(1329)宗峰より関山の号が与えられ、慧玄と改名した。 その後、後醍醐天皇に法を説くなどしたが、美濃の伊深に草庵を結んで隠棲していた。
翌年の暦応元年(1338)花園法皇は玉鳳院を建て、関山慧玄禅師に参禅される。そして宗峰より推挙された関山慧玄を開山として暦応5年(1342)妙心寺を創建した。
関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素を窮めたという。慧玄には他の高僧のような語録や生前に描かれた肖像もない。遺筆も唯一の法嗣である授翁宗弼に書き与えた印可状を除くとほとんど残されていない。そのためどのような人物であったか分からないところが多い。貞和4年(1348)花園法皇は52歳で崩御され、関山慧玄禅師も延文5年(1360)84歳で入寂すると、法嗣の授翁宗弼禅師が第2世住持となる。
3代将軍足利義満は有力守護大名の弱体化と将軍家への権力の集中を図っていた。康暦元年(1379)細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させた(康暦の政変)。康応元年(1389)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下す(土岐康行の乱)。明徳2年(1391)11カ国の守護となっていた山名氏の分裂を仕掛け、山名時熙と氏幸の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させた。さらに氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込み滅ぼした。これによって山名氏は3カ国を残すのみとした(明徳の乱)。
そして応永6年(1399)守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こし、堺に籠城して滅ぼされる事件が起こる。妙心寺第6世住持の拙堂宗朴は大内義弘と関係が深かったため、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉、妙心寺は寺領没収、龍雲寺と改名させられ中絶となった。
およそ40年後の永享4年(1432)日峰宗舜禅師の時代に妙心寺は将軍家から返還され中興する。既に3代将軍義満は応永15年(1408)に死去し、6代将軍義教の時代となっていた。しかし応仁の乱が起こると妙心寺は龍安寺とともに戦火によって焼失する。再び妙心寺や龍安寺が再興するのは、雪江宗深禅師が後土御門院から勅命を受け、細川勝元、政元の援助を受けたことによっている。
雪江宗深禅師は尾張国瑞泉寺の日峰宗舜に参禅し、京都龍安寺の開祖となる義天玄詔に師事してその法を継いでいる。すなわち義天玄詔が印可を受けた日峰宗舜に師事した後に、義天玄詔の元で学び、義天の没後は龍安寺を継いでいる。妙心寺、摂津国海清寺、河内国観音寺、尾張国瑞泉寺、丹波国龍興寺を歴住し、寛正3年(1462)には大徳寺の住持になっている。そのため応仁の乱後の大徳寺の再興も行っている。また禅師の元からは景川宗隆禅師(龍泉派祖)、悟渓宗頓禅師(東海派祖)、特芳禅傑禅師(霊雲派祖)、東陽英朝禅師(聖澤派祖)などの優秀な弟子を輩出すると共に、妙心寺住持を1期3年で順次交代させる制度を作り出している。また永正6年(1509)美濃国守護代斎藤利国の妻であり、夫の死後仏門に入った利貞尼が、仁和寺領の土地を買い求め寄進したことにより、妙心寺の境内は拡張された。その後の七堂伽藍が建てられ、塔頭が創建される基となった。
江戸時代に入ると紫衣事件が起こる。仙洞御所の項でも触れたように、幕府は慶長18年(1613)公家衆法度が制定された時、勅許紫衣之法度と大徳寺妙心寺等諸寺入院法度も制定している。さらにその2年後に、禁中並公家諸法度を定め、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。それにも関わらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えてきたため、事件は発生した。そして朝廷と共に幕府に対し異を唱えた大徳寺住職 沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧に寛永6年(1629)出羽国や陸奥国への流罪に処した。後水尾天皇が対するのはこの後のことであった。
五山十刹の寺院を「叢林」と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、妙心寺や大徳寺のような在野的立場にある寺院を「林下」という。妙心寺は先に記したように大内義弘に肩入れしたこと、大徳寺は後醍醐天皇と関係のが足利幕府から嫌われ、京都五山から外されている。(大徳寺の場合は政府の庇護と統制下にあり世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心する独自の道をとった。)このような在野精神が時代の変わった江戸時代にも紫衣事件という形で現れたのかもしれない。
境内は南総門の横に建てられた勅使門から放生池、三門、仏殿、法堂が直線状に配置されている。法堂の北には大方丈の右に小方丈、左に大庫裏が並ぶ。
三門は慶長4年(1559)に建てられ、境内で唯一の朱塗りの建物です。楼上には観世音菩薩と十六羅漢が祀られ、極彩色鮮やかに飛天や鳳凰、龍の図が柱や梁に描かれている。
仏殿は江戸時代後期 文政10年(1827)の作。妙心寺の本堂で本尊を祀る。
法堂は明暦2年(1656)に建てられ、仏像は安置されず、住持による法座や坐禅が行われる建物。鏡天井には狩野探幽が8年の年月を費やして描いた雲龍図がある。
大方丈は仏事行事を勤める際、控えの間、食事の場となる大広間。承応3年(1654)の建立。大庫裏は承応2年(1653)の建立。
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