善導寺
浄土宗知恩院派 真光明院 善導寺(ぜんどうじ) 2008/05/15訪問
木屋町通と二条通が交差する北側に善導寺の竜宮門が見える。浄土宗知恩院派・真光明院善導寺。永禄年間(1558~1569)筑後の善導寺の憎・然誉清善和尚によって六角堂附近に創立されたが、天明8年(1788)の天明の大火で焼失する。第4世旭誉のときに、長谷川重兵衛の寄進によってこの地に移る。江戸時代末期までは摂政院、宝昌院、清香院の3塔頭を有する大寺であったが、現在は廃絶し残っていない。境内には嵯峨釈迦堂の本尊を模した釈迦三尊石仏がある。高さ1メートルほどの自然石に三尊の立像を半肉彫りにしたもので弘安元年(1278)の銘がある。中央に釈迦薬師如来、両脇に弥勒菩薩と五髻文殊菩薩を配する清涼寺式と呼ばれる珍しいものである。
また庭内に2基の燈篭があり、1つは鎌倉時代の白大理石の石幢を燈籠に改めたもの。寺院の内陣の須弥壇を取り囲んで掛けられる細長い布製の旗を幢幡と呼び、幢幡を6枚または8枚を組み合わせてかけている様子を、石造物で表現したものが石幢と呼ぶらしい。
もうひとつの燈篭は火袋の面に茶碗、炭斗、火鉢、火著、茶釜、柄杓、五徳が彫刻されているもので、茶人の間では善導寺型燈籠と呼ばれている。
なおこちらの寺院はエステティックサロンにも使われている。
生年、出自不詳であるが、島根・石見国の農民出身で京の商家の手代となり、宮家に侍として奉公したという説と美濃国の神主の子に生まれ、烏丸家で養われた後、九条家代々の家令・島田家に婿養子として入ったという説がある。山陰中央新報では島田左近の子孫が米子に居り、島根県江津市には墓があると報じている(http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=507479034 : リンク先が無くなりました )。いずれにしても左近の業績と最期の状況からも郷土の名士として積極的に調査されることもなく現在に至っているのではないかと思われる。
島田左近が歴史の表舞台に現れるのは彦根藩主・井伊直弼が大老に就任したのちの安政年間(1855~1860)のことである。安政元年(1854)3月、ペリーが浦賀に再来し日米和親条約が結ばれる。安政5年(1858)3月、老中堀田正睦は条約勅許を得るために京に上る。しかし岩倉具視・中山忠能等の攘夷派少壮公家たちの抗議の座り込み、いわゆる廷臣八十八卿列参事件が引き起こされ、孝明天皇の条約締結反対の立場が明確になる。条約の勅許獲得は失敗に終わり、堀田正睦は辞職に追い込まれる。新たに大老に就任した井伊直弼は、孝明天皇の勅許がないままに独断で条約締結に踏み切る。
もともと条約調印に反対であった九条尚忠も幕府との協調路線を推進し、条約許可を求めるように働きかけたのは島田左近であったと考えられている。しかし条約締結に対して反対の意思を表明した孝明天皇は、幕府による勅許を得ない条約締結後の安政5年(1858)7月に前関白鷹司政通、9月に現関白九条尚忠の内覧職権を停止している。官位は残ったものの、天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書を先に見ることが出来なくなるため、事実上の停職処分に等しいものである。
条約締結後から始まる安政の大獄においても、左近は長野主膳と組み浪士狩りを行っている。井伊直弼の命を受けて上洛した老中間部詮勝と京都所司代酒井忠義による表の工作と共に、この活動は一橋慶喜擁立派への妨害と紀州藩・徳川慶福の次期将軍職への擁立につながって行く。安政5年(1858)10月、紀州藩・徳川慶福は第14代将軍に宣下され、名を家茂と改める。さらに桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された直後の万延元年(1860)4月、京都所司代・酒井忠義が関白・九条尚忠を通じて朝廷に和宮の将軍家降嫁を出願する。この内願は却下されるが、幕府が「十ヵ年以内の鎖国体制への復帰」を奉答したことで孝明天皇は和宮の降嫁を決断する。
文久2年(1862)に入ると長州藩と土佐藩による政治的な尊王攘夷の勢いが高まって行く。この時期、和宮降嫁で協力した岩倉具視や千種有文らも朝廷から退けられ、島田左近の身辺も危うくなりつつある。そのため京から離れ、中国路や彦根に潜むなどして所在を隠していたが、文久2年(1862)7月20日、木屋町の別寓に居るところを薩摩藩の田中新兵衛、鵜木孫兵衛、志々目献吉に襲撃される。塀を乗り越えて逃げようとするが、善導寺の前あたりで首を打たれる。左近の首級は鴨川筋四条北の先斗町川ぎわに、斬奸状と共に晒されている。これが幕末京都の天誅の始まりとなった。享年38あるいは35。
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