高台寺塔頭
高台寺塔頭(こうだいじたっちゅう) 2008年05月16日訪問
他の禅宗寺院と同様、高台寺にも江戸時代初期には圓徳院・永興院・岡林院・月真院・玉雲院・春光院・永昌院・昌純院の8つの塔頭があった。このうち圓徳院・永興院・岡林院・月真院・玉雲院の5つの塔頭は、寛永元年(1624)建仁寺から三江紹益和尚を迎え、臨済宗の寺院となった頃から存在していた。その後、春光院・永昌院・昌純院が加わった。しかし、そのうち現在に残るものは、圓徳院・月真院・岡林院・春光院の4つであり、常時公開されているのは圓徳院だけである。
高台寺の変遷には北政所とその一族の歴史が色濃く反映している。
秀吉の正室である北政所(ねね)は天文17年(1548)に尾張国朝日村の杉原助左衛門定利の次女として生まれたとされている。杉原家は織田家に仕える足軽であった。ねねの母・朝日は信長の足軽となっていたとしても百姓出の秀吉に、士分の家の娘を嫁がすことを反対している。そのため叔母の嫁ぎ先である浅野又右衛門長勝の養女となっている。秀吉とねねの結婚は永禄4年(1561)のこととされている。この後、天正元年(1573)長浜城主となり、天正6年(1578)からは播磨・中国制圧を受け持つ。そして天正10年(1582)本能寺の変の後、翌天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を確立し、天承13年(1585)に関白となる。同時にねねも従三位に叙せられ、北政所と称することとなる。ねねと共に出世街道を歩み始め、25年で達したひとつの頂点でもある。関白の妻として、朝廷との交渉や人質として集められた諸大名の妻子を監督するなどの役割を果たしている。
高台寺の項で触れたように、曹洞宗から臨済宗に宗派を変え、寛永元年(1624)建仁寺から三江紹益和尚を中興開山として迎えている。この三江和尚と木下家定は慶長9年(1604)に建仁寺塔頭の常光院を改修建立している。そして家定の七男は三江和尚のもとで出家し周南紹叔和尚となっている。またそれ以前にも秀吉の子鶴丸の菩提のため、天正19年(1591)に妙心寺の南化玄興和尚を開山に招き祥雲禅寺を建立している。この寺院は阿弥陀ケ峰の西麓、現在の智積院の位置に建てられ、後にその東に豊国廟が建立されている。そして関が原の戦い後の祥雲禅寺については、智積院の項で触れることとする。三江和尚は、祥雲禅寺の開山である南化玄興和尚の下で修行している。このような関係が三江和尚と木下家定、そして北政所の間にあったことが、高台寺に三江和尚を迎えることとなったのであろう。
木下家定には仏門に入った紹叔以外にも勝俊(長男)、利房(次男)、延俊(三男)、俊定(四男)そして小早川秀秋(五男)、秀規(六男)などの子がいる。
戦後の論功行賞で宇喜多秀家領であった備前と美作に移封され、岡山藩55万石に加増される。しかし関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602)に突然死去する。享年21。
神道の吉田兼右の次男で豊国廟の社僧を務めた神龍院梵舜が記した舜旧記には、秀秋が亡くなった同日に木下俊定ともう一人の兄弟も死亡したと書き残している。秀秋の死には不自然なことが多い。
圓徳院は、高台寺へ続く台所坂に対して、ねねの道を挟んだ反対側にある。現在、掌美術館や京・洛市ねねという商業施設が、ねねの道に面して建てられ、それほど大きくない長屋門が圓徳院の入口となっている。石塀小路から続くねねの小径が境内を横切り、この京・洛市ねねとねねの道に観光客を導いているため、広くない境内はさらに南北に分かれている。
圓徳院の始まりは木下家定の居館であり、北政所の警護のための武家屋敷であった。慶長10年(1605)高台寺開山の前年に、北政所が移り住むために伏見城から化粧御殿とその庭園をこの地に移し、新たに客殿(現在の方丈)を建立している。その後、寛永元年(1624)に亡くなるまでの19年間、北政所はこの地で過ごしている。
寛永元年(1624)に家定の次男利房はこの化粧御殿を北政所から賜り永興院と号している。寛永4年(1627)に木下利房は仙洞御所守護を辞し、圓徳院と号している。そして北政所没後9年目となる寛永9年(1632)に居館を改め、三江紹益和尚を開山として木下家の菩提寺・圓徳院とする。後に永興院も圓徳院の所管に移される。
北書院の面する北庭は伏見城の化粧御殿の前庭を移したと言われている。賢庭作で後に小堀遠州が手を加えた桃山時代の代表する庭園である。もとは池泉回遊式の枯山水庭園であったが、この地に移された時に庭の広さにあわせて回遊式から座視式に改められている。東北墨の枯滝石組みと築山を中心にして左右に多数の石組を二等辺三角形にまとめている。特に池泉にかかる橋に使われている巨石群は豪快であり、豪華さを感じさせる桃山時代の庭園を演出している。
方丈南庭は森蘊指導による徳村宗悦作の枯山水の庭である。
月真院は圓徳院のねねの道を挟んだ反対側、高台寺の庫裏の建つ高台の西側下にある。山門の前には御陵衛士屯所跡の碑が建っている。以前はこれのみであったが、現在は鉄道先覚者 谷暘卿先生の墓所を示す碑と京都指定保存樹の看板も建ち見難い状況になっている。
月真院は元和5年(1619)岩見国津和野藩主亀井茲政が亀井家の菩提寺として建立している。
月真院は亀井政矩の亡くなった元和5年(1619)に建立されている。寛永元年(1624)建仁寺から三江紹益和尚を迎え、高台寺は曹洞宗から臨済宗に転派したため亀井政矩のみの菩提寺となっている。
現在、月真院は建立の歴史より、御陵衛士の屯所としての方が有名かもしれない。
ヒロさんが「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」の中でまとめられた御陵衛士年表&日誌を参照させていただき、御陵衛士の活動をまとめてみる。 慶応3年(1867)3月10日に伊東甲子太郎ら十数名は、孝明天皇の御陵衛士を拝命する。これには孝明天皇陵のある泉涌寺の塔頭・戒光寺の長老・堪念の働きがけがあったようだ。そして3月13日夜には新選組局長近藤勇らと分離策について話合い了承を得ている。御陵衛士は新たな屯所を定めるのに時間を要している。3月20日にようやく新選組屯所を出て三条城案寺に泊まる。翌日には五条善立寺に移るが、月真院を屯所としたのは慶応3年(1867)6月のことだったようだ。11月15日、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲撃される。この暗殺の前に伊東は坂本と中岡に危険を伝えていたようだ。そしてその3日後の11月18日、近藤の招きに応じた伊東は近藤勇の妾宅で議論した帰り道、木津屋橋近くで新選組の待ち伏せに遭い殺害される。そして翌日未明の油小路の闘いへとつながっていく。伊東の暗殺から油小路の闘いについては、また別の機会に譲るとする。ともかく伊東甲子太郎を頭取とした御陵衛士10数名が慶応3年(1867)6月から油小路の闘いのあった11月までの半年弱の期間、この月真院で生活していたこととなる。
月真院は非公開のため、普段は高台寺通から山門越しに覗きこむことしかできない。今回は芦屋小雁氏の個展のお陰で庫裏の前までは見ることができた。また以前は宿泊もできたが、それも現在では行われていないため、中の様子を伺うことは難しい。前述のヒロさんのHPには、月真院の内部を説明したページがありますので、興味のある方はご参照下さい。
岡林院は月真院の北側にあり、ねねの道より東に入る美しい石畳の先に山門がある。岡林は「こうりん」と読む。この寺院は高台寺の公式HPでも慶長13年(1608)に僧久林元昌によって建立されたと書かれているのみである。月真院にも豊臣秀吉の外戚久林が元和2年(1616)に開創したという記述があるので、あるいは同一の開山かもしれない。ちなみに現在は、高台寺の執事を務める寺前浄因和尚が岡林院と月真院の住職をも務めている。
一念坂の終着点、旧竹内栖鳳邸、現在のThe Garden Oriental Kyotoと青龍寺の向かいにある春光院は家定の長男勝俊の娘の菩提を弔うために、寛永四年にその号をとって建立した寺院である。北政所はこの娘をたいそう可愛がり、自らの傍らに置いていたが早世した。木下家の人々は、この娘の早世を大いに惜しんだと伝えられている。
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