徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2010年 1月

新日吉神宮

 

新日吉神宮(いまひえじんぐう) 2008年05月16日訪問 新日吉神宮 楼門  耳塚の面する正面通を東に進み、豊国神社の鳥居を南に下る。京都国立博物館と蓮華王院の間を通る七条通を東に進むと東山七条の交差点に出る。左に豊国廟参道、右に新日吉神宮の石碑が建つ妙法院門跡と智積院の間の道は、京都女子大学そして豊国廟へと続く坂道となっている。新日吉神宮は、150メートル位進んだ智積院の境内の先に位置する。 新日吉神宮 豊国廟への参道入口 新日吉神宮 豊国廟への参道入口  新日吉神宮の祭神は山王七神と後白河上皇とされている。山王七神とは大己貴命、大山咋神、大山咋神荒魂、菊理姫命、田心比売… ►続きを読む

 

耳塚

 

耳塚(みみづか) 2008年05月16日訪問 耳塚  豊国神社の鳥居を潜り石段を下ると、目の前に正面通と呼ばれる広い道が現れる。この大和大路通から本町通の間は中央分離帯もあり、立派な通りとなっている。しかし道幅のある部分はあまりにも短いため、豊国神社前の広場という風情である。ちなみに本町通は五条通から始まり伏見区内で直違橋通となり、国道24号につながる、かつての伏見街道でもある。 豊国神社から左手角、すなわち正面通の南に耳塚公園が見える。この公園の西側に耳塚がある。寄進者と思われる名前の入った石柵で囲まれたおよそ25メートル四方の敷地には、円墳のように盛土がなされ、その頂部には五輪塔が建… ►続きを読む

 

方広寺

 

方広寺(ほうこうじ) 2008年05月16日訪問 方広寺 12本の柱を持つ巨大な鐘楼  豊国神社の鳥居と唐門を結ぶ参道の途中から北側に歩いていくと方広寺の境内へ入って行く。どこまでが豊国神社でどこからが方広寺かが良く分からない。 方広寺は天台宗山門派の寺院で文禄4年(1595)豊臣秀吉によって創建されている。方広寺の歴史は豊臣家の大仏造営の歴史でもある。天正14年(1586)秀吉は奈良の東大寺に倣って、京の地に大仏の建立を計画した。既に永禄10年(1567)松永久秀が引き起こした東大寺大仏殿の戦いの兵火により東大寺大仏殿は平重衡の時以来二度目の焼失に遭い、大仏も頭部を失っている。当時より… ►続きを読む

 

豊国神社

 

豊国神社(とよくにじんじゃ) 2008年05月16日訪問 豊国神社 鳥居  蓮華王院の境内を出て、京都国立博物館の前を通りながら大和大路通を北へ進む。博物館の北側には、石段の上に豊国神社の大きな石の鳥居が建ち、その正面の道路は広場のように開けている。 豊国神社 唐門に置かれた千成瓢箪の馬印  慶長4年(1599)豊臣秀吉の死去に伴い、阿弥陀ヶ峰に埋葬される。その麓に方広寺の鎮守社として豊国社と豊国廟が建立され、後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われる。現在の豊国廟の石段の始まる場所に約30万坪の広さの太閤坦を造成し、豊国廟と豊国社が造営された。しか… ►続きを読む

 

蓮華王院

 

天台宗蓮華王院(れんげおういん) 2008年05月16日訪問 蓮華王院 三十三間堂  智積院を出て、京都国立博物館とハイアットリージェンシー京都の間を西に進むと、七条通の南側に蓮華王院が現れる。大和大路通の角から境内に入る。 蓮華王院は、智積院の北側に位置する天台宗南叡山妙法院の境外寺院であるため、山号がない。また、広く三十三間堂と呼ばれているのは、蓮華王院の本堂内陣の柱間が33あるという建築的な特徴からきている。この33という数字は観音菩薩の変化身三十三身にもとづいて決められている。ちなみに建物外部の柱間は35となる。 この地にはもともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。後… ►続きを読む

 

智積院 その2

 

真言宗智山派総本山智積院(ちしゃくいん) その2 2008年05月16日訪問 智積院 庭園  東大路通から増田友也設計の智積院会館を右手に見ながら境内に入る。二本の柱に横木を渡した冠木門を潜り、拝観受付所を過ぎると正面に金堂が現れる。この金堂は宗祖弘法大師の生誕1200年記念事業として昭和50年(1975)に建設されたものである。もとの金堂は元禄14年(1701)智積院第10世専戒僧正が発願し、 5代将軍綱吉の生母である桂昌院より与えられた金千両を基に寄付を集め、宝永2年(1705)に建立されたものであった。しかし明治15年(1882)の火災により焼失している。 智積院 庭園 中央の… ►続きを読む

 

智積院

 

真言宗智山派総本山智積院(ちしゃくいん) その1 2008年05月16日訪問 智積院 金堂  並河靖之七宝記念館から、神宮道に出る。平安神宮の大鳥居に向かい進むと京都市営バス 京都会館美術館前停留所が現れる。ここから京都市営バス100号に乗り、東山七条に向かう。京都国立博物館の裏側で下車し、交差点を渡り智積院の総門の前に立つ。拝観者は総門の南側にある二本の柱に横木を渡した冠木門から入ることとなる。 智積院は真言宗智山派総本山智積院で、山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺という。真言宗智山派には有名な成田山新勝寺、金剛山金乗院平間寺(川崎大師)、高尾山薬王院など3つの大本山と高幡山明… ►続きを読む

 

並河靖之七宝記念館

 

並河靖之七宝記念館(なみかわまさゆき しっぽうきねんかん) 2008年05月16日訪問 並河靖之七宝記念館  佛光寺本廟の山門を出て、粟田神社からの道を再び戻る。粟田神社の感神院新宮の額がかかる石造りの鳥居の前から三条通へと続く参道を抜け、三条通を西に進む。白川の手前を北側に入ると並河靖之七宝記念館が左手に現れる。 並河靖之七宝記念館 外観 京格子と虫籠窓 並河靖之七宝記念館 主屋 池が床下に流れ込んでいく  明治大正期を代表する七宝作家・並河靖之は江戸時代末期の弘化2年(1845)武蔵国川越藩の藩士高岡九郎右衛門の3男として京都柳馬場に生まれる。その後、安政2年(1855)… ►続きを読む

 

佛光寺本廟

 

佛光寺本廟(ぶっこうじ ほんびょう) 2008年05月16日訪問 佛光寺本廟  粟田神社の急な参道を下り、青蓮院から来た道をさらに東に入ると道幅は次第に細くなる。この道の右側に佛光寺本廟の山門が現れる。 佛光寺は下京区高倉通仏光寺下ル新開町にある真宗佛光寺派本山。山号は渋谷山。佛光寺の公式HPによるとその起源は、越後に流罪にされた親鸞が、赦免の翌年建暦2年(1212)に京都に戻り、山科の地に草庵を結んだことに始まる。真宗開闢の根本道場を意味して、興隆正法寺と号していた。この後、親鸞は弟子の真仏に任せ、関東での布教活動に旅立ったとされている。 元応2年(1320)第七世了源により、教化活動… ►続きを読む

 

粟田神社

 

粟田神社(あわたじんじゃ) 2008年05月16日訪問 粟田神社 鳥居には旧社名の感神院新宮の額がかかる  青蓮院の長屋門と楠を見ながら、再び神宮道を北に向かう。三条通に出る手前を東に入り、京都市立白川小学校を過ぎると三条通から続く粟田神社の参道に出会う。主座 素戔嗚尊、大己貴命(大国主命の若い頃の名前)左座 八大王子命右座 奇稲田媛命、神大市比賣命、佐須良比賣命旧社名は、感神院新宮、粟田天王宮と称されていたが、明治になり粟田神社と改称された。 粟田神社 鳥居の先にある狛犬 この先参道は2段続く 粟田神社 鍛治社 駒獅子の左手前にある 粟田神社 鍛治社 社の右側にある石碑… ►続きを読む

 

青蓮院門跡

 

天台宗 青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき) 2008年05月16日訪問 青蓮院門跡 長屋門  十樂院上陵の門を過ぎて、さらに神宮道を北に進むと石段の上に青蓮院の四脚門・御幸門が現れる。後水尾天皇の第二皇女・明正天皇(元和9年(1624)~元禄9年(1696))の中和門院の旧殿の門を移築したもので、明治26年(1893)の火災をまぬがれている。この辺りから楠の巨木が多く植わり、新緑の木陰を神宮道に落としている。 青蓮院門跡 御幸門 青蓮院門跡 長屋門  御幸門を過ぎると程なくして、見事な枝振りの楠を両脇に控えた石段の上に建てられた長屋門が現れる。この門もまた御幸門と同様に中和… ►続きを読む

 

十樂院上陵

 

十樂院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ) 2008年05月16日訪問 十樂院上陵 参道の門 神宮道より  再び知恩院の三門下に出る。ここから神宮道を北に進むと、東大路通から西に走る華頂道に出会う。この道の正面には知恩院の黒門があり、神宮道と華頂道の交差点には柵で囲まれた石がある。これは忘れ傘や鶯張りの廊下とともに知恩院の七不思議に数えられている瓜生石である。知恩院が建立される前からあったとされる大きな石で、一夜にしてこの石から蔓が延びて花が咲き、瓜が実ったという言い伝えがある。  さらに神宮道を北に進むと、知恩院と青蓮院の間に小さな門が現れる。ここが第95代花園天皇の御陵・十樂院上陵… ►続きを読む

 

知恩院 方丈庭園

 

知恩院 方丈庭園(ちおんいん ほうじょうていえん) 2008年05月16日訪問 知恩院方丈庭園 大方丈南庭  知恩院の諸堂は法然上人御廟を頂点に、華頂山の裾野に切り開いた台地の上に一つ一つ時間をかけて、お互いの位置関係を確認しながら建設されたようにも見える。これは禅宗寺院の軸線を強調する幾何学的な配置とは明らかに異なっている。そのため、境内のおおまかな構成が理解しづらい。この記事も知恩院の公式HPに掲載されている「総本山知恩院境内地図(http://www.chion-in.or.jp/sanpai/p_k-map.html : リンク先が無くなりました )」を参考にしながら書いている。… ►続きを読む

 

知恩院 友禅苑

 

知恩院 友禅苑(ちおんいん ゆうぜんえん) 2008年05月16日訪問 知恩院友禅苑 補陀落池  知恩院には昭和29年(1954)に改修造園された友禅苑と江戸時代初期に僧玉淵によって作庭されたと伝わる方丈庭園がある。友禅苑の入口は三門の南側にある階段を登ると現れる。ここで2園共通拝観券を購入するとかなり安くなる。 知恩院友禅苑 高村光雲作の聖観音菩薩像 知恩院友禅苑 鎮守八幡宮へと続く石段  友禅苑は、宮崎友禅斎生誕300年を記念して、昭和29年(1954)に京都の染織業界の寄進により改修造園されている。 友禅斎の詳しい来歴は明らかではないが、江戸時代前期の承応3年(1654… ►続きを読む

 

知恩院

 

浄土宗総本山 華頂山 知恩院(ちおんいん) 2008年05月16日訪問 知恩院 三門  ねねの道を北に進むと祇園閣のある大雲院に突き当たる。ここを右に折れ、円山音楽堂を右手に見ながら北に向かって歩くと円山公園の中に入り込む。そのまま公園内を横切り、南門をくぐると右手に知恩院の巨大な三門が現れる。 知恩院 女人坂を上る 知恩院 男坂から三門を眺める  知恩院は、浄土宗の宗祖・法然が東山吉水、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵を起源としている。  法然は平安時代の末期、長承2年(1133)に現在の岡山県にあたる美作国久米南条稲岡庄、押領使(律令制の令外官の一つ。警察・軍事的官職)… ►続きを読む

 

西行庵 芭蕉堂 大雅堂跡

 

西行庵 芭蕉堂 大雅堂跡(さいぎょうあん ばしょうどう たいがどうあと) 2008年05月16日訪問 西行庵 門前には不許葷肉入門内の石碑が建つ  高台寺を出てねねの道を北に向かい、祇園閣のある大雲院の突き当りを右に曲がり円山公園に至る間に、西行庵、芭蕉堂そして大雅堂跡という文人・画人の住居跡やその足跡を偲ぶものが並んでいる。安養寺の六阿弥の也阿弥がホテルになり、正法寺の塔頭の叔阿弥が翠紅館に代わって行く経緯や、京都画壇を代表する竹内栖鳳の邸宅跡も残るように、この地は風光明媚で遊興に適した場所であったことが分る。 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士、僧侶そして歌人である西行は、永… ►続きを読む

 

祇園閣

 

祇園閣(ぎおんかく) 2008年05月16日訪問 祇園閣  産寧坂から二年坂そして一念坂を下り、ねねの道を歩く時、町並みの屋根の上に見えるものは法観寺の五重塔(八坂の塔)と祇園閣である。 大倉財閥の創始者・大倉喜八郎は大正15年(1926)老後保養の地として真葛ケ原に別邸を建てている。しかし喜八郎は、この地で普通の隠棲生活に入るのではなく、さらに展望台を兼ねた記念塔を建て、行く行くは一般に公開し、京都の名物にすることを考えていたようだ。こうして祇園閣は真葛荘の一角に伊東忠太に設計によって建てられた。伊東忠太は、既に明治28年(1895)に平安神宮を手がけ、同じ時期に大倉の依頼で大倉集古館… ►続きを読む

 

ねねの道

 

ねねの道(ねねのみち) 2008年05月16日訪問 ねねの道  清水寺の参道である松原通を七味家本舗の角で分かれ、産寧坂、二年坂そして一念坂を下り、高台寺の前に出ると「ねねの道」となる。この道は大雲院で突き当たり、右に曲がり円山公園の中を通り知恩院、青蓮院へとつながる。さらに三条通を越えると平安神宮の広大な境内がその正面に広がる。そのため、この道は円山公園を抜けたところから神宮道と呼ばれている。 ねねの道 観光客で賑わう  京都市は昭和47年(1972)に「京都市市街地景観条例」を制定し,特別保全修景地区制度によって京都の特色ある歴史的な町並みの整備行ってきた。昭和50年(1975… ►続きを読む

 
 

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