鳥羽殿跡
鳥羽殿跡(とばどのあと) 2008年05月18日訪問
秋の山のある鳥羽離宮跡公園の南には大きなグランドが現れる。この地の地下には鳥羽離宮南殿の遺構があることを記した京都市の看板がフェンスに掛けられ、鳥羽殿跡の碑が建つ。
鳥羽離宮は12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されてきた院御所である。敷地面積約180町(180万平方メートル)には南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などの御所が建設されると、寺院や広大な池を持つ庭園も築かれる。さらに院の近臣をはじめとする貴族から雑人に至る宅地が、鳥羽殿周辺に与えられたため、あたかも新しい都が出現したかのようだった。この鳥羽殿は白河上皇(天喜元年(1053)~大治4年(1129))による南殿建設に始まるが、その大部分は鳥羽上皇(康和5年(1103)~保元元年(1156))の代に完成されたとされている。
かつての鴨川は竹田の東側を流れ、下鳥羽の南で桂川と合流していた。現在の鴨川の流路よりかなり東側にあったため、桂川との合流点も上鳥羽と下鳥羽の中間である小枝橋あたりではなく、さらに南にあった。この旧鴨川と桂川の合流点付近を鳥羽と呼び、陸路は山陽道、水路は淀川を経て大阪湾そして瀬戸内海へ通じる水陸交通の要所であった。承平年間 (931~938)に編纂された辞書「和名類聚抄」では止波/度波という訓が残されており、貞観14年(872)に作成された「貞観寺田地目録帳」では鳥羽の地名が登場している。平安遷都以後、朱雀大路を羅城門から真南に延長した鳥羽作道が作られ、水路で運ばれてくる物資の多くは鳥羽の港で陸揚げされ陸送された。この道については、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の鳥羽で下記のように記されている。
「四ツ塚より鳥羽に至る、今の道にあらず。四ツ塚より半町ばかり東に、羅城門ありて是より鳥羽に至る街道筋なり。今堀川の下流の東に一壇高き細路あり、これ作り路の遺跡なり。今の封疆薮は秀吉公の時作れるなり」
この「秀吉公の時作れるなり」とは、伏見城築城の時に巨椋池に堤をめぐらせ交通体系を整備したことを指している。現在の下鳥羽・納所間の桂川左岸に堤を築き、鳥羽街道のルートを開いている。 また伏見からの淀堤の道と納所で合流し淀小橋を渡り、淀城下を経て、淀大橋を渡り淀川左岸に沿って大坂へ向かうという道も合わせて開かれている。
また鳥羽は水郷が広がる風光明媚な場所だったため、狩猟や遊興の地としての開発も行われてきた。平安時代前期には賀陽親王の別業や藤原時平の鳥羽別業・城南水閣が造営されたが、応徳3年(1086)白河上皇は藤原季綱から献上された巨椋池の畔の別業を拡張して馬場殿を城南宮の地に造営している。しかし上皇の生存中には鳥羽殿の完成は出来ず、孫の鳥羽上皇の時代に完成を見ている。その後、鳥羽殿は南北朝の内乱で荒廃するまで歴代の治天の君の拠点として政治的な意味も持ち続けている。
応徳3年(1086)白河上皇により最初に創建される。証金剛院は康和3年(1101)に建立。
現在は、鳥羽離宮跡公園として整備されている。公園の北側には、離宮の築山跡の遺構と考えられる「秋の山」が残る。
■02 北殿(勝光明院)
勝光明院は平等院阿弥陀堂を模して保延2年(1136)に建立される。鳥羽上皇により新しく創建された院御所。治承の乱の時、後白河法皇が幽閉されたところでもある。
■03 泉殿(成菩提院)
成菩提院は天承元年(1131)建立。
■04 馬場殿
応徳3年(1086)白河上皇により創建される。現在の城南宮の位置にあり、城南宮は離宮の鎮守社として祀られていた。境内に続く馬場では競馬や流鏑馬が行われた。
■05 東殿(安楽寿院)
安楽寿院は保延3年(1137)鳥羽上皇により創建された御堂。
■06 田中殿(金剛心院)
久寿元年(1154)鳥羽上皇により創建される。鳥羽上皇の皇女八条院の御所。釈迦堂・九体阿弥陀堂・小御堂・寝殿・庭園・築地跡などが発掘されている。
■07 中島
馬場殿の南の地域
鳥羽殿を営んだ白河上皇は,東殿に自らの墓所として三重塔を建立している。鳥羽上皇も白河上皇の例に倣い、安楽寿院に三重塔・本御塔と新御塔を築く。そして保元元年(1156)鳥羽上皇が安楽寿院で崩御すると遺言に従い本御塔に埋葬される。新御塔は鳥羽天皇皇后である美福門院の墓所に予定されていたが、女院は高野山に葬られたため、新御塔には鳥羽上皇と女院の子である近衛天皇の遺骨が埋葬されている。鳥羽殿は院政を推し進めた政治の舞台の他にも、白河・鳥羽二代の上皇と鳥羽・美福門院系統の天皇の墓所でもあった。
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