会津藩殉難者墓地 その2
会津藩殉難者墓地 (あいづはんじゅんなんしゃぼち) その2 2008年11月22日訪問
真如堂から金戒光明寺の境内につながる道の左側に会津藩殉難者墓地がある。
金戒光明寺にある会津藩殉難者墓地は、坂本龍馬や天誅組の祀られている霊山墓地と違い、訪れる人も疎らで永久の眠りを護る静寂さを常に保っている。前の道は真如堂から金戒光明寺へ抜ける裏道になっているので、ある程度の数の人が行き交っているが、この墓地内で人に出会うことは少ない。恐らく明治維新史に名を留めることのない無名の人々の墓であること、そして旧幕府軍として鳥羽伏見で戦い、敗れ去った人々の慰霊の場であるからかもしれない。同じ旧幕府軍でも壬生寺の新選組との間には大きな差がある。
薩摩や長州など幕末時期の雄藩は、いずれも天保年間(1830~43)に幕府が行った改革と期を一にして藩政改革に着手し成功している。
薩摩藩の家老調所広郷は、豪商から借り受けた借入金500万両を250年という長期間での返還という強硬策を実施し、藩の負債を帳消しにしている。その上で、奄美大島で採れる砂糖の専売、琉球との貿易を積極的に行うことで財政再建を実現している。
また長州藩は村田清風を抜擢し、藩による専売制の緩和を行っている。商人たちに運上銀を課し、藩に収めさせ、民間の活力を向上させている。また、下関を通る諸国の貨物に対し、資金を貸し与える越荷方と呼ばれる藩による金融業を始め、多大な利益を上げた。
このような殖産興業による藩財政の改善こそが、来る時代に積極的な軍備への投資を可能にした。そのため藩政改革は軍制改革にもつながって行く。
戦国時代の終焉と江戸幕府の開闢により、その後の250年もの期間、日本では軍制改革を行う必要性もなく封建軍隊のシステムと戦術がそのまま残ってしまった。しかしヨーロッパでは、甲冑を纏った騎士の時代は既に終わり、小銃を携えた歩兵を中心とする近代軍隊に変革していた。さらにアメリカ独立戦争、フランス革命そしてナポレオン軍の出現により、歩兵戦術の革新が急速に成されていった。つまり日本の長い鎖国の間に、種子島火縄銃がライフリングを刻んだミニエー銃に進化しただけのことではなく、軍のシステムから戦術までの全てが時代遅れになってしまったと考えるべきであろう。藩政改革で得た富を使い新式銃を購入しても、それを使いこなす歩兵隊自体が存在していなかった。そのため、幕府を始め各藩は歩兵隊の創設に着手しなければならなかった。
歩兵隊とは兵士の一人一人に小銃を所持させ、戦力の主力を徒歩兵にすることである。この説明は簡単に聞こえるかもしれないが、野口武彦著「幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団」(中央公論新社 2002年刊)には、軍制改革がいかに困難なものであったことが詳細に記されている。
安政元年(1854)の講武所の設置を経て、桜田門外の変の後の文久2年(1862)に幕府は兵賦令を布告し、本格的な西洋式軍隊である陸軍を創設している。陸軍奉行を長として、その下に歩兵奉行3人と騎兵奉行を置き、歩兵・騎兵・砲兵の三兵編制を導入している。もともとこの軍は全国御備のための国民軍であった。そのためか、この陸軍は従来の軍制と並立する形で創設されている。刀槍と銃砲の戦術の不統一が、第二次長州戦争や鳥羽伏見の戦で敗北する遠因になったとも考えられる。さらに兵士には旗本八万騎の一部を充てることや農民を徴兵することはなかった。講武所の時代に、既に旗本達が戦場において実用の役に立つことが見込めなかったことが分かっていたからである。また旗本自体が足軽扱いを嫌い、銃隊調練を避けてきたことにもある。そのため、禄高に応じて旗本から供出させた兵賦と称する人員で歩兵隊は編成された。兵賦の身分は最下層ながら武士に準ずるものとされ、脇差の帯刀を許されていた。また功績次第では正式に幕臣に登用されたようだ。
しかし第二次長州戦争で敗戦すると、慶応2年(1866)第15代将軍徳川慶喜は、慶応の軍制改革と呼ばれる大規模な改革を行う。兵員の増強のため調達の方法も改正が必要となった。そのため旗本に禄高毎に銃隊を整備させて、数家分を組み合わせて小隊や大隊級の銃隊を編成する組合銃隊の制度が施行された。このように複数の命令系統を持つ組合銃隊が、一糸乱れぬ集団行動が要求される戦場において活躍できるか疑問である。幕府はこの問題を解消すべく、翌慶応3年(1867)1月に更なる改革を行う。旗本に対して、兵賦を免除する替わりに十年間の知行高を半分召し上げる半知令を布告する。その資金で幕府が兵員を直接に雇用する形態と改めている。このことによって歩兵隊は幕府の完全な傭兵となり、そして軍役が免除された旗本八万騎は戊辰戦争において、ごく一部を除いて実質的な戦力となっていない。
これに対して薩摩と長州は、四国連合艦隊との戦闘や長州戦争の経験を活かして軍制改革を行い、奇兵隊や薩摩銃隊を作り上げている。藩の存続だけでなく自らの生存のために改革が必要であることこそが、幕府より短時間に戦闘能力の高いシステムに進化することが出来たのであろう。
さて話しを会津藩に戻す。
5代藩主松平容頌の時代(寛延3年(1750)~文化2年(1805))、家老田中玄宰による寛政の藩政改革が功を奏し、農村振興、殖産興業による財政基盤の拡大が成された。そして膨大な借金も長期返済の目途が立ち、文政12年(1829)頃には藩収支も黒字に転じるようになっている。
しかし天保元年(1830)以後、会津藩は不作・地震・水害などの相次ぐ災害に見舞われている。天保4年(1834)の大凶作をはじめ、不作は天保6年(1836)から9年(1839)まで続く。農民生活は非常に困窮し、藩は年貢の軽減、救済米の分配、農民に対する賦役の停止などの対策をとった。しかし農村人口の激減、耕作地の放棄などによる年貢収納の大幅な縮小が生じ、健全化した藩財政は再び大打撃を受けることとなった。
8代藩主松平容敬は、社会的そして経済的不安を振り払うため、農民や困窮町民のための借金棒引き、役人の綱紀粛正、価格統制による物価引下げ、株仲間の解散などの改革を実施している。弘化年間(1845~1848)に入ると、物価統制の停止、株仲間の再興など、行過ぎた天保改革の修正も行っている。
上記の寛政の藩政改革が実を結びつつある文化4年(1807)幕府は会津藩と仙台藩に樺太・蝦夷警備を命じている。翌文化5年(1808)1月より派兵が行われ、事態の沈静化が図られたため3ヶ月の駐留を経て、同年末までには全軍帰国している。これは会津藩にとっては初めての海防出兵であった。
このように嘉永6年(1853)ペリー艦隊の来航以前からロシアの南下動向はあった。ピョートル大帝は1702年に日本探索の命令を発している。そして元文4年(1739)には仙台湾と房総半島にロシア船が現れている。8代将軍徳川吉宗の治世の時代に、既にロシアは領土的な野心よりは交易の拡大を求めて日本に来ている。しかし財政窮乏や英・仏・普との関係悪化により、ロシアの東方政策の見直しがあり、その後来航は一時的に停滞する。再びエカテリーナⅡ世の治世となると東アジアへの積極的な進出政策が復活し、日本にも探索船が派遣される。安永7年(1778)に根室、その翌年には厚岸に来航し、松前藩に対して通商を求めている。勿論、松前藩は海禁の祖法により拒否している。その後、寛政4年(1792)にラックスマン、文化元年(1804)にレザノフが幕府に対して通商を求めて来航している。幕府はレザノフに対して、半年間長崎で待たせた挙句に通商拒否を申し渡したため、レザノフの部下のフヴォストフが文化3年(1738)に樺太の松前藩番所を、翌年には択捉島の日本拠点を襲撃(文化露寇)している。この辺りの歴史的な背景は、町田明広著「攘夷の幕末史」(講談社現代新書 2010年刊)に分かりやすく解説されている。そして先の会津藩の蝦夷・樺太警備はこのフヴォストフの引き起こした事件に拠っている。
日本近海への外国船の来航頻度が高くなり、幕府は樺太や蝦夷の警備に留まらず、お膝元の江戸湾自体の警備にも着手しなければならなくなった。文化7年(1810)幕府は会津藩に三浦半島の湾岸警備を命じ、観音崎、久里浜、城ケ島に砲台と陣屋が建設されている。この江戸湾警備は10年に及び、派遣された将兵や家族の墓が現在も横須賀市や三浦市などに残っている。文政3年(1820)財政逼迫や東北外様藩に対する抑えなどを理由に、警備免除を願い出て許可される。しかし天保の藩政改革が続く弘化4年(1847)再び房総警備の幕命を拝する。安政元年(1854)房総警備から江戸湾砲台守備に転じ、安政6年(1859)品川第二砲台管守を免除されるまで続く。これも蝦夷に領地が与えられ、開拓とともに警備が任されたためのものであった。
このような幕命による海防出兵は、幕府から付与された準備金では到底賄うことが出来ず、再び藩の借入金は拡大し、確実に財政悪化につながっていった。
会津藩主・松平容保が文久2年(1862)京都守護職に就任し、その年の12月24日1000の兵と共に上洛し、金戒光明寺に入っている。京都守護職は御所の守衛と近畿の庶政を担う職として文久2年の職制改革によって設置されている。すなわち京都における幕権の回復と損攘夷派台頭を防ぐ目的で京都所司代の上位に位置づけている。容保は政事総裁の松平春嶽の説得により、国家老の西郷頼母、田中土佐の諫止があったものの最終的には受諾している。藩財政の苦しい中、当時23万石と称された会津藩には荷の重い役割であることは間違いないことである。しかし親藩では32万石の越前福井藩に次ぐ位置にあることからも止む得ない人事であったことも確かである。
元治元年(1864)容保の実弟である桑名藩主松平定敬が京都所司代任命され、京の地に一橋慶喜を中心とした一会桑体制を形成する。一橋家が10万石、桑名藩が11万石と会津藩を加えても44万石にしかならないのに対して、薩摩藩77万石、長州藩36万7000石、土佐藩24万2000石と公称の石高でも及ばない。恐らく幕末の藩政改革によって一会桑と西国雄藩の間には大きな実力差があったし、さらに軍制改革の進捗状況にもそれ以上の差が生じていたと思われる。だからこそ会津藩が京都守護職を受諾することは藩を滅ぼすことと感じたのであろう。
本間精一郎遭難地や洛東の町並みの項で触れているように容保が入洛した文久2年(1862)は、京の町は天誅の嵐の真っ只中であった。京都守護職は京都所司代や京都町奉行を傘下にしていたが、平時の組織であったためあまり役に立たなかった。そのため会津藩士以外の戦力として見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組や守護職御預かりとした新選組に頼むところが多くなる。
会津藩殉難者墓地には352人が祀られている。文久2年(1862)の入洛から慶応3年(1867)の6年間に京の地で亡くなられた237霊、そして鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀る明治40年(1907)に建立された慰霊碑がある。なお禁門の変の戦死者は22霊を除いても6年間に200人以上の人が亡くなっていることは異常な状況であるように感じる。大佗坊さんのHP 会津いん東京 の中にある 黒谷会津藩墓地 では、この墓地に祀られている方々を詳しく記している。興味のある方は是非ご参照ください。
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