泉涌寺 後月輪東山陵
泉涌寺 後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ) 2008年12月22日訪問
後堀川天皇の觀音寺陵の石段を下り、再び参道を進む。参道の終着点はかなり広い空間となり、トラックが2台止められていた。おそらく御陵の整備のためのものだろう。傍らには菊花の手水があった。月輪陵で見かけたものと同じ意匠のものだ。
後月輪東山陵には第121代孝明天皇が祀られている。
天保2年(1831)仁孝天皇の第4皇子・統仁親王として生まれている。兄の親王達がいずれも早世しているため、天保11年(1840)に立太子されている。弘化3年(1846)仁孝天皇の崩御を受け践祚している。
嘉永6年(1853)ペリー来航以来、政治への積極的な関与を強めている。安政5年(1858)40年にわたって朝政を主導してきた太閤・鷹司政通の内覧職権を停止し、落飾に追い込んでいる。そして更に関白・九条尚忠の内覧職権も停止して、朝廷における主導権確保を図っている。しかし井伊直弼が大老に就任すると、朝廷内の反幕府勢力への弾圧が始まる。幕府は、安政5年(1858)水戸藩に勅書を下賜した戊午の密勅とともに、親幕府派とされていた九条尚忠が朝廷内で排斥を受けていることに危機感を感じたのであろう。
幕府の支援を受けて九条尚忠に内覧職権が戻り、文久2年(1862)まで公武合体政策を積極的に推進している。特に和宮降嫁に当たっては積極的に進めたことにより、尊王攘夷派の糾弾を受け、関白と内覧をともに辞し落飾・重慎に処せられ、九条村に閉居している。
孝明天皇が目指した親政は、必ずしも成功とは言えるものではなかったように思う。安政の大獄が桜田門外の変で終わり、文久年間(1861~1864)に入ると薩摩・長州藩など雄藩による京都手入れが始まる。これは京都における天誅の時代の始まりでもあった。文久3年(1863)八月十八日の政変以降、孝明天皇は一会桑との連携を強めていくことで、政治的影響力の強化を図る。この関係は孝明天皇が崩御する慶応2年(1867)12月25日まで続く。
孝明天皇が政治的影響力を強めて実現したかったものは何であったのか?後醍醐天皇が目指した討幕を伴う天皇親政ではなかった。孝明天皇が望んだものは、
夷人願ひ通りにあひ成り候ては、天下の一大事のうへ、私の代より加様の儀にあひ成り候ては、後々までの恥の恥に候はんや
であったと思われる。これは安政5年(1858)孝明天皇が関白・九条尚忠に対し、幕府が進める開国通商路線の否定を表明した言葉である。開国否定の非現実性が明らかになると、やや変わっていくものの、この考え方はこの後の9年間変わっていない。
町田明広氏の著書「攘夷の幕末史」(講談社現代新書 2010年刊)では、攘夷思想の成立を東アジア的華夷思想に求めている。東アジアにおいては、中華を世界の中心に据える考え方が古代から存在してきた。この華夷思想と呼ばれる考え方の重心は、物質的なものではなく文化・思想という精神的なものにあった。中国を構成する漢民族以外を夷狄と見なし、その存在すら認めず教化の対象としてきた。そして中国の皇帝は東アジアの夷狄君主に王や侯などの爵号を冊封という形で与えることで近隣との国際秩序の形成してきた。この冊封体制で行われてきた交易方法が朝貢であった。
阿片戦争からアロー号事件に至る清国外交に、夷狄を相手にせずという姿勢が見えてくる。このような対応は中華思想という言葉で比較的容易に理解できる。そして幕末日本における攘夷思想の誕生も、町田は天皇制国家の東アジア的冊封体制からの独立と独自の冊封体制の構築にあると説明している。日本は朝鮮と琉球を朝貢国とし、冊封体制を維持するために鎖国(海禁)を江戸幕府初期から行ってきた。これにより近隣との紛争を避け、300年間に渡る泰平と繁栄を得た。つまり交易する相手を朝貢国と清国に絞り、それ以外の国々を夷狄としている。そして鎖国を盾に対外交渉せずとしている。さらにこれに朱子学を基にした水戸学と結びつき、ナショナリズムを煽り立てる尊王攘夷に変化していく。
孝明天皇の夷人を排除しようとする感情は、東夷の小帝国の皇帝として、英米仏露を純粋に夷狄と見なした結果であろう。
後月輪東山陵の傍らに造られた後月輪東北陵には明治30年(1897)に亡くなられた英照皇太后が祀られている。
英照皇太后とは、孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母にあたる九条夙子のことである。弘化2年(1845)13歳の時に、2歳年上の東宮統仁親王の妃となる。結婚翌年には孝明天皇が即位し、嘉永元年(1848)従三位、入内して女御宣下を被る。
孝明天皇は夙子の立后を望んだが、先ず准三宮に叙すべしという幕府の反対にあい、嘉永6年(1853)夙子は正三位・准三宮に上る。嘉永3年(1850)第1皇女順子内親王、安政5年(1858)に第2皇女富貴宮を生むが、いずれも幼児期に夭折したため、万延元年(1860)勅令により藤原慶子(中山慶子)の生んだ9歳の第2皇子祐宮を実子と称している。しかし孝明天皇の急逝に遭い、皇后を経ず、慶応4年(1868)皇太后に冊立されている。
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