妙心寺 その2
臨済宗妙心寺派大本山 正法山 妙心寺(みょうしんじ) その2 2009年1月12日訪問
等持院の中門から参道を下り山門を潜ると、普通の住宅地の中へと入って行く。京福電気鉄道北野線の等持院から乗車する。2つの西の妙心寺で下車すると、仁和寺から南東に延びる一条通に出会う。洛中では東西に延びる一条通も、この部分でほぼ45度の角度で進む。妙心寺駅から100メートルも東に進むと妙心寺の北総門が現れる。
妙心寺は臨済宗妙心寺派大本山で山号は正法山。
平安京の北西部に12町の敷地を占め、三門、仏殿、法堂などの中心伽藍と共に山内塔頭36箇院を持つ大寺院である。この他にも龍安寺などの境外塔頭10箇院を加え、現在妙心寺の塔頭は46箇院に及ぶ。妙心寺の公式HPには妙心寺山内図が掲載されている。北総門と南総門の脇にある案内所で、この境内図を10円で販売している。この図を使って塔頭の数を数えてみると、北総門に面した一条通より北側に3塔頭、そして龍安寺のある鏡容池の周辺に4塔頭がある。山外の10塔頭の内、残りの3塔頭は南総門の南側の妙心寺道と丸太町通に囲まれた三角形の地域にある。ちなみに妙心寺道は御前通から西に延びる道で、一本南側には下立売通に対して上ノ下立売通と呼ぶこともあるようだ。 妙心寺派寺院の総数が約3400か寺というのは、平成17年(2005)10月時点で妙心寺がまとめた数字である。
妙心寺の歴史は、日本の臨済宗の歴史と比較して、それ程古いものではない。
まず建仁寺派の大本山である建仁寺は、建仁2年(1202)に宋に渡って帰国した栄西を開山として開基・源頼家で創建されている。これは日本における最初の禅宗寺院の創立という意味ではない。そして東福寺派も開基・九条道家、開山・聖一国師円爾で嘉禎2年(1236)に東福寺を創建している。 鎌倉でも、建長寺派の建長寺が建長5年(1253)に開基・北条時頼、開山・蘭渓道隆で創建されている。やや遅れて円覚寺派も開基・北条時宗、開山・無学祖元で弘安5年(1282)に円覚寺を創建している。そして京都五山の別格とである南禅寺派の南禅寺は、亀山法皇が開基となり、正応4年(1291)無関普門を開山として、日本最初の勅願禅寺として創建されている。
妙心寺と共に林下の代表的な寺院である大徳寺派の大徳寺は、正中2年(1325)大燈国師(宗峰妙超)を開基として創建されている。そして妙心寺派の大本山である妙心寺も、大徳寺に若干遅れることの暦応5年(1342)に花園法皇が関山慧玄を迎えて創建されている。 この後に、天龍寺派の天龍寺が後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏が開基となり開山に夢窓疎石を迎え、康永4年(1345)に創建されている。さらに3代将軍足利義満の時代の永徳2年(1382)に義満によって相国寺派の相国寺を創建している。禅の師である春屋妙葩に開山を要請したが、妙葩はこれを固辞している。妙葩は師である夢窓疎石を開山とし、自らは2世住職となっている。
京都五山十刹を中心にまとめてみると
別格 南禅寺 正応4年(1291) 無関普門 亀山法皇
第一位 天龍寺 康永4年(1345) 夢窓疎石 足利尊氏
第二位 相国寺 永徳2年(1382) 夢窓疎石 足利義満
第三位 建仁寺 建仁2年(1202) 栄西禅師 源 頼家
第四位 東福寺 嘉禎2年(1236) 円爾弁円 九条道家
第五位 万寿寺 正嘉年間(1257~59年) 白河天皇*1
第一位 等持寺 暦応2年(1339) 夢窓疎石 足利尊氏 廃寺*2
第二位 臨川寺 建武2年(1335) 夢窓疎石 後醍醐天皇*3
第三位 真如寺 暦応3年(1340) 無学祖元 無外如大尼
第四位 安国寺 不明 大同妙喆 足利直義 廃寺
第五位 宝幢寺 康暦2年(1380) 春屋妙葩 足利義満*4
第六位 普門寺 寛元4年(1246) 円爾弁円 九条道家 廃寺第七位 広覚寺 不明 桑田道海 不明 廃寺
第八位 妙光寺 弘安8年(1285) 心地覚心 花山院師継
第九位 大徳寺 正中2年(1325) 宗峰妙超 赤松則村
第十位 龍翔寺 延慶2年(1309) 南浦紹明 後宇多天皇*5
*1 正嘉年間に十地覚空とその弟子の東山湛照が東福寺の円爾に帰依して臨済宗寺院となる
*2 別院北等持寺が等持院として現存
*3 開山塔三会院のみ臨川寺として現存
*4 開山塔鹿王院のみ残存
*5 寺地移転し大徳寺山内寺院として現存
そして、
妙心寺 暦応5年(1342) 関山慧玄 花園法皇
五山制度自体は、鎌倉時代後期に日本の禅宗寺院の普及に伴い、中国から日本に伝来してきた。正安元年(1299)鎌倉幕府執権北条貞時が浄智寺を五山とするように命じたのが日本における最古と伝わっている。
その後、室町幕府を開いた足利尊氏は、天龍寺を建立し五山に加えることを望んだ。暦応4年(1341年)北朝は院宣を出して尊氏に五山の決定を一任した。尊氏は同年、第一位南禅寺と建長寺、第二位円覚寺と天龍寺、第三位寿福寺、第四位建仁寺そして第五位に東福寺。さらに次席として准五山に浄智寺を選定している。准五山までの8寺の内、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺の4寺は鎌倉の寺院であり、それ以外の4寺は京都の寺院であった。さらに五山の決定及びその住持の任免権は足利将軍個人に帰するという慣例が成立することになる。
延文3年(1358)に第2代将軍足利義詮がこれを改訂して浄智寺を第五位に昇格させるとともに同じく第五位に鎌倉から浄妙寺、京都からは万寿寺を加えている。すなわち京都と鎌倉からそれぞれ5寺ずつが選ばれ、この時点で五山が完成していたともいえる。この後、臨川寺が一時的に五山に加わることもあったが、現在の京都五山の形になったとのは、第3代将軍足利義満が相国寺を建立した後のことであった。
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