東福寺 その3
臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その3 2009年1月11日訪問
東福寺 その2に続き、福山敏男氏の「法性寺の位置について」(佛教芸藝術100巻 毎日新聞社 1975年2月)を参照しながら、どのように法性寺が東福寺に替わって行ったかについて考えていく。
九条道家の日記・玉藻から、嘉禎3年(1237)10月、最勝金剛院の地より東福寺造営に着手したことが分かるようだ。東福寺 その2で記したように、この時期の法性寺と最勝金剛院の力関係は逆転していたから、法性寺を改めて東福寺とすることは最勝金剛院の敷地や建物自体に改変を行うことと同じであったのだろう。
暦仁元年(1238)4月25日、道家は法性寺別業で出家している。この法性寺別業とは、発掘調査の行われた光明峯寺を指すのかは分からない。また同年9月13日に法性寺一音院で観月の詩歌会を催している。寛元元年(1243)3月15日に法性寺鎮守惣社を東福寺の鎮守として遷宮を行い、成就宮と号している。そして8月22日に盛大な祭礼を行っている。この遷宮では社地の移動が行われたと考えられる。この頃から延応元年(1239)、正嘉2年(1258)、そして正元2年(1260)と法性寺の保有地を東福寺に委譲している。このように法性寺から東福寺への改装は、東福寺開創を思い立った嘉禎2年(1236)から、およそ25年余の時間をかけて行ってきた。
そして建長2年(1250)11月に九条道家が定めた家領初度処分状によると、東福寺の西鐘楼の鐘は忠平等が鋳造した法性寺の鐘であるが、同寺が廃絶したので東福寺に移したという記述があるようだ。この記述が正しいならば、この時点で既に法性寺は存在していないこととなる。また同じく惣処分状には惣社の社領として最勝金剛院の阿弥陀堂を挙げているが、藤原宗子や皇嘉門院の頃の最勝金剛院の様子とは異なり、規模が縮小され御殿も失われていることが分かる。
また、惣処分状によると、東福寺には仏殿、法堂、三門、僧堂、庫裡、浴室、東司など七堂伽藍や、方丈、経蔵、宝蔵、鐘楼などに加え、五重塔・灌頂堂(荘厳院)などがあり、寺内の堂宇として先の阿弥陀堂、円堂(宝光院)などの建造物を備えていたことが分かる。この本寺に付随して観音堂(後に説明する普門院)があり、本堂、僧堂、庫裡、方丈、湯屋などの建物があった。また、九条兼実の終老地である報恩院には多宝塔一基を安置し、さらに光明峯寺が建立され九条道家終老の寺としている。
弘安3年(1280)聖一国師は五大堂を建てている。既に天永3年(1112)に藤原忠平が建設した五大堂は倒壊していたので、藤原道長が寛弘3年(1006)に建設した五大堂を改修したたように思われる。この五大堂が法性寺に残された最後の主要建築物であった。福西氏はこの時点が法性寺の最期と捉えている様だ。この後、増鏡の元弘3年(1333)5月7日、赤松則村の軍勢が六波羅を攻略し、八幡、山崎、竹田、宇治、勢多、深草そして法性寺が炎上したとしている。鎌倉幕府の終焉の時である。この火災により法性寺は灰燼に帰したとされているが、既にそれ以前に堂宇は失われ、この兵火によって法性寺の在家が焼かれたのではないかと推測している。
さて法性寺が存在した場所である。天暦3年(949)8月18日、忠平公を公寺東北原に葬ったという記述がある。公寺とは忠平公の寺、すなわち法性寺であり、その東北に埋葬されたという意味であろう。また正安元年(1299)の法性寺御領山指図(かげまるくん行状集記の管理人さんによる普門寺について記載されたページに、白石虎月編纂「東福寺誌」〈大本山東福寺 1930年〉から転載された図があります。)には普門寺の北側に貞信公御墓と法性寺公御墓という文字が見える。恐らく現在の泉涌寺・悲田院から市立日吉ケ丘高校の高台に葬られたと考えられる。この位置は平安京の九条大路の延長線上に位置していることからも、九条家の墓所として選ばれた場所とも考えられる。この墓から西南方向には現在の東福寺の主要伽藍が建ち並ぶこと、そして三ノ橋渓谷を避けて大規模な建築群を配置できる場所を考えると、かつての最勝金剛院の地に現在の東福寺が建てられたということは、ある程度同意できる。
また鴨川とJR奈良線に囲まれた地域の福稲岸ノ上町、福稲御所ノ内町、福稲高松町、福稲柿本町と伏見街道の東西に広がる本町地域が、法性寺伝承地とされている。御所ノ内町などの地名に法性寺殿を思い起こされる。
福西氏の研究に先立って西田直二郎の「藤原忠平の法性寺及道長の五大堂」(京都府史蹟名勝天然記念物調査報告第九冊 1928年)がある。西田は一ノ橋の北側の本町10丁目から本町22丁目までを法性寺の旧地と推定していたようだ。これは九条通の北側部分を大きく含み、法住寺殿の南にあった最勝光院の苑池(上村和直著 「法住寺殿の成立と展開」のP15参照)に、恐らく泉涌寺道を挟んで接することとなる。さらに二ノ橋の南西の福稲御所ノ内町を藤原忠通の法性寺殿、三ノ橋の南の西御殿と呼ばれる地に法性寺西御殿があったと考えている。
先にもあげた「東福寺誌」では、本町15丁目から17丁目の東福寺境内の西側から福稲の地名の着く地域に法性寺殿があったと推測している。すなわち二ノ橋と三ノ橋の間、現在の東福寺北門と中門の間ということになる。この方二町の敷地には福稲御所ノ内町も含まれている。
これに対して福西氏は京内の条坊線を京外に延長した九条御領辺図を使い位置の特定を考えている。九条御領辺図は享禄3年(1530)に没した九条尚経の筆によるもので紀伊郡に散在する九条家の所領を記すために描いた図であるようだ。そこから昔の法性寺大路の位置を導き出し、それを法性寺殿の西側の基線と考えている。導き出された法性寺大路は本町通より約二町(220メートル)西を走っている。そして法性寺の中枢部の規模も、いわゆる法性寺八町にわたる広大なものではなく、二町四方から三町四方程度と考えている。これらは築地塀で囲まれていた仮定し、現在の月輪小学校を南西隅とした二町四方、あるいは東南隅に置いた二町四方でなかったかと推測している。前者のほうならば、洗玉澗や臥雲橋から月下門そして同聚院が含まれ、三門、法堂、通天橋そして開山堂や普門院などは外側にあたる。また後者ならば、霊雲院や現在の法性寺が含まれるが、大部分の東福寺の塔頭は除外される。 また法性寺殿の位置も現在の東福寺の三門を出た辺りを南境とし、東福寺の伽藍の西側にあったと考えられる。つまり三ノ橋川を挟んで北側に法性寺の主要伽藍、南に法性寺殿が建てられていたと推測している。
上記のように福西氏が法性寺の位置を推測した1975年以降も、この周辺での発掘調査が続いている。京都市埋蔵文化財研究所が2011年1月から3月にかけて、本町二十丁目他地内、すなわち新十条通と伏見街道が交差する地点で行われた発掘調査の報告書(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告 2010-19)によると、この発掘で大量の伏見人形の土型が見つかっている。これ以前にも、1980年度に月輪小学校、1987年度には高松町の下水道埋設工事に伴う調査、1996年度には今回の調査の西に位置する新十条通、1999年度のJR奈良線複線化工事に伴う調査、そして2010年度にも任天堂株式会社の敷地北西部で調査が行われた。弥生時代から古墳時代の遺構は見られるものの、残念ながら明確な法性寺の遺構の発見には結びついていないのが現状である。
「東福寺 その3」 の地図
東福寺 その3 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 東福寺 北門 | 34.9798 | 135.7709 |
02 | 東福寺 中門 | 34.9765 | 135.7711 |
03 | 東福寺 南門 | 34.9753 | 135.7711 |
04 | ▼ 東福寺 月下門 | 34.9776 | 135.773 |
05 | ▼ 東福寺 日下門 | 34.9765 | 135.7728 |
06 | ▼ 東福寺 六波羅門 | 34.9753 | 135.7732 |
07 | ▼ 東福寺 勅使門 | 34.9752 | 135.7734 |
08 | ▼ 東福寺 臥雲橋 | 34.9774 | 135.7728 |
09 | ▼ 東福寺 通天橋 | 34.9772 | 135.7736 |
10 | ▼ 東福寺 偃月橋 | 34.9769 | 135.7747 |
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