妙心寺 塔頭 その2
妙心寺 塔頭(みょうしんじ たっちゅう) その2 2009年1月12日訪問
次に妙心寺9世雪江宗深の4人の弟子、景川宗隆、悟渓宗頓、特芳禅傑、東陽英朝の4庵、すなわち龍泉庵、東海庵、霊雲院そして聖澤院を見て行く。
02龍泉庵 文明13年(1481) 開山 景川宗隆 妙心寺10世)
開基 細川政元
03東海庵 文明16年(1484) 開山 悟渓宗頓 妙心寺11世
04霊雲院 大永 6年(1526) 開山 大休宗休 妙心寺25世
勧請開山 特芳禅傑 妙心寺12世
05聖澤院 大永 3年(1523) 開山 天蔭徳樹 妙心寺18世
勧請開山 東陽英朝 妙心寺13世
開基 土岐政房
02 龍泉庵
龍泉庵は、衡梅院の南、勅使門と放生池そして南総門の東に位置する。文明13年(1481)開山景川宗隆、開基細川政元によって創建された。開基の細川政元は既に、大心院、衡梅院の項でも触れたように、これらの塔頭を創建した政元は細川勝元の子で、足利幕府の管領、応仁の乱終結後の細川京兆家繁栄を築いた人物である。年次的にまとめると、以下のようになる。
衡梅院 文明12年(1480) 開山 雪江宗深 妙心寺 9世
龍泉庵 文明13年(1481) 開山 景川宗隆 妙心寺10世
西源院 延徳 元年(1489) 開山 特芳禅傑 妙心寺12世
大心院 明応 元年(1492) 開山 景堂玄訥 妙心寺29世
文正元年(1466)に生まれた政元は、文明5年(1473)に家督を相続している。そして文明10年(1478)元服し、8代将軍足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。明応2年(1493)に起こった明応の政変で、足利義高を第11代将軍に就任させ、自らは管領に就いている。しかし永正4年(1507)に家臣に暗殺される。元服後から明応の政変までの間に4つの塔頭を創建したこととなる。
開山の景川宗隆は、応永32年(1425)伊勢国三重に生まれる。雲谷玄祥、義天玄詔、桃隠玄朔らに師事した後、義天の入寂後に龍安寺を継いだ雪江宗深の法嗣。大徳寺、妙心寺(第10世)、龍安寺の住持を務め、明応元年(1492)大心院の勧請開山となる。景川禅師の修行ぶりは、「後御堂法坂 雪霜十六年」として伝えられている。法坂とは、妙心寺開山堂の東、龍安寺に向かって登る道で、その途中に地蔵堂があり後御堂と呼ばれていた。景川は16年間、雪の日も霜の日も厭うことなく龍安寺の師匠・雪江宗深のもとへ通った。このことから「禅は景川」と讃えられている。明応9年(1500)3月1日入寂。76歳。
龍泉庵山内塔頭の方丈としては最大級の規模を持っている。現在の建物は江戸時代のもので、書院は承応2年(1653)、表門は寛文4年(1664)、庫裏は寛政8年(1796)、そして方丈は、嘉永元年(1848)建立と比較的新しい。近世の中興祖は嶺南崇六。重要文化財に指定されている長谷川等伯筆「枯木猿猴図」を有する。方丈の襖絵は平成11年(1999)開祖500年遠忌にあわせ日本画家由里本出氏により描かれたものである。室中の間は越前海岸、東の間は水、西の間は山岳が描かれている。
03 東海庵
東海庵は、衡梅院の北、玉鳳院の西に位置する。文明16年(1484)雪江宗深より玉鳳院の西の地を付与され、悟渓宗頓が一庵を建立したのをはじまりとする。
妙心寺11世悟渓宗頓は応永23年(1416)尾張国に生まれる。悟渓も龍安寺の雪江宗深の法嗣。美濃守護代斎藤妙椿の招きで瑞龍寺をひらく。大徳寺を経て文明16年(1484)妙心寺の住持を務める。
ある暑い夏の日、悟渓禅師は法友とともに琵琶湖畔を行脚していた。暑さに耐えかねた法友たちは琵琶湖で水浴したが、悟渓禅師は「徳分を児孫に残そう」と身体を拭くに止められたと伝えられている。爾来、東海派の寺院は、水に不自由しないと伝えられている。これが「徳の悟渓」と讃えられる所以となっている。明応9年(1500)9月6日入寂。85歳。著作に「虎穴録」。
悟渓遷化の後、妙心寺21世の玉浦宗珉が利貞尼の援助を得て整備に努めた。利貞尼は、関白・一条兼良の娘で美濃守護代斎藤妙純の妻である。夫の斎藤妙純は悟渓を美濃に招聘した斎藤妙椿の養子にあたる。美濃斎藤氏は2代に亘って東海派を支援している。妙純は明応5年(1497)出兵した近江で郷民・馬借による土一揆により戦死しているから、利貞尼は夫の戦死後に出家し悟渓宗頓の弟子となっている。天文5年(1536)81歳で死去。ちなみに下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三は、美濃斎藤氏の名跡を継承している。
慶長4年(1599)に石川一宗が、妙心寺58世南化玄興を請じて兄一光の十七回忌を営み、庵の中興をなしている。石川一宗とは、安土桃山時代の武将で大名となった石川頼明のことである。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いに参戦した兄・兵助一光は、賤ヶ岳の七本槍に並ぶ戦功であったが、同合戦で戦死している。羽柴秀吉より兄の一番槍の感状を得て、一宗は1000石を賜り、小姓として取り立てられている。慶長3年(1598)播磨国、丹後国内において、6450石を加増され、慶長5年(1600)時点で同国内にて12000石を領している。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いには西軍に与し、7月の伏見城の戦い、8月の安濃津城攻め、9月には大津城の戦いに従軍し、城主京極高次退去後の大津城を守備する。西軍が敗れると知人の脇坂安治を通じて、井伊直政に降伏するが、切腹となり首は京の三条河原に晒されている。これは兄の17回忌を東海庵で行なった翌年のことである。
石川一宗から寄進を受けた南化玄興は天文7年(1538)美濃国に生まれている。邦叔宗禎、のち快川紹喜に師事し、快川の法を嗣いでいる。美濃の稲葉一鉄の招きで花渓寺をひらく。悟渓が開いた美濃瑞龍寺、尾張妙興寺に住し、豊臣秀吉の要請で京都祥雲寺も開く。後陽成天皇や豊臣秀吉をはじめ諸大名の崇敬をうけ、妙心寺内に一柳直末が大通院を、稲葉貞通が智勝院を、脇坂安治が隣華院を創建した際、各院の開山に招請されている。慶長9年(1604)入寂。67歳。著作に「虚白外集」など。
東海庵の現在の建築は江戸時代のものといわれ、とくに書院は江戸初期にさかのぼるとされる。狩野元信筆「瀟湘八景図」(重要文化財)、「孝明天皇宸翰徽号勅書」(重要文化財)、元時代の十六羅漢図(重文)、陳子和筆「花鳥図」(重要文化財)を有する。
東海庵には印象異なる3つの庭があり、学生時代に訪問した時に撮影したモノクロ写真が数枚残っている。こちらも先の写真を使いもう少し書いてみたい。
04 霊雲院
霊雲院は庫裏の西、聖澤院の北に位置する。大永6年(1526)妙心寺25世大休宗休が妙心寺12世特芳禅傑を勧請開山として清範尼の援助を得て創建。清範尼は薬師寺国長の室とされている。国長は細川京兆家の重臣で摂津国守護代を務める。父の薬師寺元一は永正元年(1504)に謀反の罪で誅殺されている。国長は幼少だったことから罪を許され、永正4年(1507)主君の細川政元が暗殺されると、その養子である細川高国の家臣となる。そして政元を殺した叔父の薬師寺長忠討伐で功績を挙げている。永正5年(1508)摂津守護代に任じられ、以後高国に属して各地を転戦し、大永7年(1527)山城山崎城主に任じられる。しかし細川晴元の部将波多野稙通に敗れて摂津高槻城に逃走し、やがて晴元に降伏する。 以後は晴元に仕え、天文2年(1533)晴元の命令でかつての主君高国の弟である細川晴国と戦い、山城高雄にて敗死する。
繰り返しになるが清範尼は薬師寺国長の室とされている。国長が戦死したのは天文2年(1533)で、霊雲院が創建された大永6年(1526)には、まだ健在であった。それなのに模堂清範尼というのも不自然な気がする。安藤次男 梶原逸外著の「古寺巡礼 妙心寺」(淡交社 1977年刊 旧版)に掲載されている妙心寺法系図の特芳禅傑には、
霊雲院(薬師寺国長母)
と記されている。こちらの方が年代的に適合しているように思われる。
勧請開山となっている特芳禅傑は、応永26年(1419)尾張国の生まれ。義天玄詔、雲谷玄祥らに師事した後、雪江宗深の法を嗣ぐ。文明10年(1478)大徳寺、ついで妙心寺などの住持となる。文明14年(1482)に雪江宗深に印可されたが、法嗣を出さず諸方を行脚していた鉄船宗熙を住するために多福院を創建している。そして細川政元により中興祖に請じられ、長享2年(1488)龍安寺4世住持となり龍安寺の再建に尽力する。現存する石庭もこの時に特芳によって整備されている。そして延徳元年(1489)には、やはり政元が開基となり龍安寺の近くに西源院を創建している。「寿は特芳」と讃えられている。永正3年(1506)入寂。88歳。語録に「西源特芳和尚語録」。
霊雲院の開山となった大休宗休は応仁2年(1468)生まれ。幼い時に京都の東福寺永明庵で出家して学び、後に龍安寺の特芳禅傑に師事して参禅し印可を受ける。特芳の死後は西源院と龍安寺の住持を経て、妙心寺25世住持となる。今川義元の招きにより、駿河国に臨済寺を開山し、尾張国瑞泉寺等も歴住する。後奈良天皇に臨済宗の宗義を進講し、円満本光国師の諡号を賜った。晩年は霊雲院に住し、天文18年(1549)入寂。82歳。著作に「見桃録」。
重要文化財に指定されている書院は、室町時代末期のもので、西北の間を後奈良天皇御幸の間と伝え、書院造初期の構造を示している。名勝史跡の庭園は是庵の作と伝え、室町時代末期の枯山水で極めて狭小な地域に絵画的手法をもって樹石を配置している。寺宝に狩野元信筆・紙本水墨淡彩・山水花鳥図49幅(重要文化財)がある。なお、門内左手に哲学者西田幾多郎の墓もある
05 聖澤院
聖澤院は霊雲院の南、妙心寺の主要伽藍を挟んで東海庵と対象となる場所に位置する。
妙心寺13世東陽英朝の寂後20年となる大永3年(1523)に、妙心寺18世天蔭徳樹が、かつての東陽の外護者であった細川氏や土岐政房の援助を受けて創建したのが聖澤院の始まりとされている。
東陽英朝は正長元年(1428)美濃国賀茂郡の土岐氏に生まれている。幼い頃、天龍寺で得度し、龍安寺の雪江宗深の法を嗣ぐ。文明13年(1481)には大徳寺53世になり、延徳元年(1489)には妙心寺13世になる。「才は東陽」と讃えられる。丹波龍興寺、尾張瑞泉寺などの住持を務め、美濃の薄田加賀守が厚見郡新加納に少林寺を中興した際、英朝を少林寺第1世に招請している。土岐政房の帰依を受け、八百津の大仙寺、下麻生の臨川寺、恵那郡大川の林昌寺等を再興開山している。永正元年(1504)少林寺において入寂。77歳。塔所は寺の本堂の西側に船形の自然石の石塔が建てられている。
その後一時衰微したが、文禄3年(1594)庸山景庸は外護者早川長政の私館、黄金の提供を得て、庫裏、方丈、門、玄関などを造営、再興をなしとげている。現在の方丈は当時のものである。高麗時代の「摩利支天像」(重要文化財)を有する。
早川長政は、甲斐国の武田忠頼の子で早川八郎信平を祖とする早川家に生まれる。豊臣秀吉の羽柴時代より馬廻衆を務め、小牧の戦い、四国攻め、九州の役、小田原の役で活躍。天正14年(1586)方広寺大仏造営では作事奉行を務める。文禄の役では高麗舟奉行、後に漢城へ駐屯する。慶長の役では軍監として従軍する。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは西軍に所属。日田領主の毛利高政と安久口に布陣し、戦後改易される。国許の豊後では府内の留守城代 早川内右衛門が、東軍の細川忠興に降伏し開城している。浪人生活を経て、慶長19年(1614)大坂の冬の陣で豊臣方として大坂城に入城する。翌慶長20年(1615)大坂夏の陣では真田幸村の寄騎として戦い、最終決戦の5月7日は天王寺口に布陣する。大坂落城後の消息は不明。長政が外護できたのは関ヶ原の戦いまでの間であろう。 庸山景庸は永禄2年(1559)美濃の土岐氏に生まれている。妙心寺63世以安智察に学び、後に智察の弟子で妙心寺71世東漸宗震の法を嗣ぐ。 聖澤院を復興し、慶長4年(1599)妙心寺86世住持となる。医学にも通じ、子供の病気をなおすのを得意とした。寛永3年(1626)入寂。68歳。
東陽英朝の禅の流れを嗣ぐ江戸時代の禅僧に、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠慧鶴がいる。貞享2年(1685)に駿河国原宿の長沢家の三男として生まれる。15歳で地元の松蔭寺の単嶺祖伝のもとで出家し、沼津の大聖寺息道に師事する。元禄16年(1703)頃より諸国を行脚し修行を重ねる。美濃国の瑞雲寺で修行、宝永5年(1708)信州国飯山の道鏡慧端のもとで大悟、嗣法となる。正徳6年(1716)遊歴を終え、松蔭寺に帰郷。宝暦13年(1763)三島の龍澤寺を中興開山する。明和5年(1768)松蔭寺で入寂。
現在も臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。
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