文書と写真・地図による「記憶」の再現

妙心寺 塔頭 その3



妙心寺 塔頭(みょうしんじ たっちゅう) その3 2009年1月12日訪問

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妙心寺 塔頭 徳雲院 山門への参道

玉鳳院と龍泉庵、東海庵、霊雲院、聖澤院の本派四庵以外の43の塔頭を南西、北西、北東、南東そして一条通の北側の5つのエリアに分けて見て行く。

南西エリア
06慈雲院 承応 2年(1653) 開山 湛月紹円 妙心寺194世
                開基 橘屋新兵衛 一空覚心居士
07退蔵院 応永11年(1404) 開山 無因宗因 妙心寺3世
                開基 波多野重通
08天授院 康暦 2年(1380) 開山 授翁宗弼 妙心寺2世
09徳雲院 永正 3年(1506) 開山 大休宗休 妙心寺25世
                開基 遠江守刑部宗晋
10大龍院 慶長11年(1606) 開山 鉄山宗鈍 妙心寺80世
                開基 中村一忠
11大法院 寛永 2年(1625) 開山 淡道宗廉
                開基 千種有能の室長姫
12玉龍院 慶長 3年(1598) 開山 大川紹潙 妙心寺99世
                開基 生駒一正
13通玄院 天正 7年(1579) 開山 虚櫺了廓 妙心寺219世
  あるいは元和 8年(1622) 開基 寺西織部信之

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妙心寺 塔頭 慈雲院 山門
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妙心寺 塔頭 慈雲院 庫裏

06 慈雲院 東海派

 慈雲院は南総門の西に位置する。承応2年(1653)大坂の橘屋新兵衛(一空覚心居士)が湛月紹円を開山として創建。当初は慈雲庵と称し、妙心寺北総門前に所在していた。湛月紹円は江戸前期の学徳兼備の名僧。慶長12年(1607)大和南京、すなわち奈良の中川氏に生まれる。元和7年(1621)15歳の湛月は興福寺、法隆寺で学び、比叡山に登り天台を修める。そして東海派下玉浦門派の妙心寺96世龍巌瑞顕の法嗣となる。妙心寺194世となり、その在任中に塔頭慈雲庵と松濤庵を開く。また泉州住吉龍源寺、大坂天瑞寺等の開山となる。文筆に卓絶し、和歌に優れ、道歌百人一首中にも選ばれている。また黄檗隠元と詩文をもって交流する。寛文10年(1670)入寂。64歳。

 現在の慈雲院の地には文禄年間(1593~96)に池田輝政が、春江門派の宙外玄杲を請じて創建した盛岳院があった。池田輝政は、戦国時代末期の武将であり、岡山藩池田家宗家の初代である。
 池田信輝すなわち池田恒興は、天正12年(1584)の長久手の戦いで嫡男の元助とともに戦死している。そのため恒興の次男である輝政が池田家の家督を継いでいる。なお恒興の母は養徳院と呼ばれ、織田信長の乳母であった。永正12年(1515)池田政秀の娘として近江国で生まれ、池田恒利の正室となる。天文5年(1536)恒興を出産し、夫・恒利の主君である織田信秀の嫡男吉法師(後の織田信長)の乳母となる。後に恒利とは離縁して信秀の側室となり、娘の小田井殿(栄輪院。信長の異母妹、恒興の異父妹。織田信直正室)を出産する。慶長13年(1608)94歳で死去。戒名は養德院殿盛嶽桂昌大姉。現在の慈雲院には池田信輝と養徳院の墓がある。
慈雲院が山内へ移ったのは明治11年(1878)であった。この時、湛月が中興した松濤庵及び大森の寿仏寺を併合している。北区大森東町の妙心寺派寿仏寺のことか?

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妙心寺 塔頭 退蔵院 山門 2008年5月14日撮影
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妙心寺 塔頭 退蔵院 庫裏
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妙心寺 塔頭 退蔵院 余香苑

07 退蔵院 霊雲派

 退蔵院は慈雲院の北に位置する。応永11年(1404)波多野重通が、開祖に妙心寺3世無因宗因を迎え退蔵院を創建している。元は下京にあった波多野義重邸内に建立され、長禄年間(1457~60)以前に妙心寺境内に移建されている。当時霊雲院東の地にあり、後に東林院の東に位置し、永正年間(1504~21)に中興祖の亀年禅愉によって現在地に移されたという説もある。

 波多野氏は藤原秀郷の玄孫にあたる経範が、はじめて波多野を称したとされる。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、摂関家領である相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を本領としていた。そして承久の乱の終結後、関東御家人の多くが恩賞地を得て西遷していった。波多野氏の一族も大槻氏が和泉国、菖蒲氏が石見国、松田氏が出雲国へ。そして波多野義重は越前国比志庄に移ったとされている。この義重の流れは、かれが出雲守であったことから波多野出雲と称している。義重は曹洞宗の道元禅師を所領の比志庄に迎え、永平寺を建立している。また波多野出雲氏は京において六波羅探題評定衆を務めている。評定衆は、訴訟裁判や六波羅の政務を担当する重職である。
 退蔵院を創建した波多野重通は越前に入った義重の孫に当たる。重通も時宗四条派の開祖である浄阿上人真観を庇護している。
 無因宗因は正中3年(1326)尾張の平氏・荒尾一族に生まれる。9歳で建仁寺塔頭・可翁宗然の室に入り、出家する。正平16年(1361)妙心寺2世授翁宗粥の室に入り、建徳2年(1371)印可を受け、天授7年(1381)には妙心寺3世となる。大徳寺への誘いを断り、応永3年(1396)摂津国西宮の海清寺を創建する。応永8年(1401)同寺の光澤庵で入寂。

 近世に入り千山玄松の時、大岩庵や艮庵を併合しつつ諸堂宇の整備充実がはかられた。千山玄松は慶長8年(1603)生まれ、延宝3年(1675)入寂の江戸時代前期の僧で、妙心寺178世。妙心寺223世竺印祖門が創建した龍華院の勧請開祖でもある。
 如拙筆「瓢鮎図」(国宝)、「花園天皇宸翰」(重要文化財)、「後奈良天皇宸翰」(重要文化財)などを有する。方丈西庭は「元信の庭」と呼ばれ、狩野元信作と伝わる。方丈の南側には中根金作が昭和38年(1963)から3年をかけて作庭した余香苑が広がる。

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妙心寺 塔頭 天授院 山門
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妙心寺 塔頭 天授院 庫裏

08 天授院 東海派

 天授院は慈雲院の北に位置する。康暦2年(1380)妙心寺2世授翁宗弼が創建。開祖の授翁宗弼は、永仁4年(1296)藤原宣房の子として生まれる。建武の親政に失望し出家した万里小路藤房と同一人物とする説もある。元からの渡来僧で南禅寺13世、建仁寺24世を務めた明極楚俊、大徳寺の開山となる宗峰妙超に学ぶ。42歳で関山慧玄に師事し、印可されるのは61歳。関山の唯一の法嗣となる。関山が寂した後、妙心寺2世として20年間住持し、近江国三雲の妙感寺で隠棲する。康暦2年/天授6年(1380)入寂。85歳。授翁の墓は妙感寺三雲の妙感寺に建てられた。妙心寺に塔所として設けられたのが天授庵で、南朝の年号が付けられた特異な塔頭でもある。また妙心寺における年号寺の初めての例でもあった。授翁の法嗣に無因宗因を出す。
寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会にも天授院、あるいは万里小路藤房のことが6ページに渡って記されている。 応仁の乱後、妙心寺9世雪江宗深が再建し、文明年間(1469~87)に妙心寺11世で東海派の開祖である悟渓宗頓に付嘱される。その頃の東海庵と方丈の間に位置していたが、承応2年(1653)の増改築にともない、現在地に移建されている。今日、妙心寺の専門道場になっている。
藤原宣房筆の「法華経譬喩品」(重要文化財)を有する。

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妙心寺 塔頭 徳雲院 山門への参道
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妙心寺 塔頭 徳雲院 庫裏

09 徳雲院 霊雲派

 徳雲院は庫裏の西側、佐久間象山先生墓道の道標がある角を西に入り、春光院と大龍院の間を北に入って行った先に位置する。永正3年(1506)細川勝益の三男刑部宗晋の檀越によって妙心寺25世大休宗休が創建。妙心寺の公式HP(https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/uk113.html : リンク先が無くなりました )には、「遠江守勝益」としか記されていない。また、安藤次男 梶原逸外著の「古寺巡礼 妙心寺」(淡交社 1977年刊 旧版)の妙心寺法系図の大休宗休の脇に「徳雲院(遠江守刑部宗晋)」と書かれている。 恐らく時代から見て土佐守護代細川遠州家に連なる細川勝益のことだと思われる。勝益は応仁元年(1467)京兆家の細川勝元の代官として土佐守護代を務めている。勢力は次第におとろえる中、文亀2年(1502)死去。なお勝益の家督を継いだ細川政益は、細川政元が暗殺された永正4年(1507)に土佐守護代としての実権を失い香美郡田村荘の一領主となったとされている。

 開山の大休宗休の出自は明らかでないが、応仁2年(1468)に生まれている。東福寺永明庵で出家し、龍安寺の特芳禅傑(妙心寺12世で霊雲派の開祖)に師事して参禅し、その印可を受ける。特芳の死後、西源院、龍安寺の住持を経て妙心寺25世住持となる。霊雲派の本庵である霊雲院の開創も大休が行なっている。今川義元の招きにより、駿河国に臨済寺を開山、尾張国瑞泉寺等を歴住する。後奈良天皇に臨済宗の宗義を進講し、円満本光国師の諡号を賜る。天文18年(1549)入寂。82歳。著作に「見桃録」。
 当初は霊雲院に対面する庫裏の位置にあったが、大休より当院を付嘱された元梁が微笑庵東に移した。のち一時、麟祥院の隠寮へ移転したこともあったが、やがて現在位置に移建された。なお明治に入って大龍院の取畳みの際、その本尊は徳雲院に安置されていたという。

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妙心寺 塔頭 大龍院 山門
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妙心寺 塔頭 大龍院 庫裏

10 大龍院 霊雲派

 大龍院は春光院の西に位置する。慶長11年(1606)米子藩主中村一忠が父である一氏の七回忌に臨んで、妙心寺80世鉄山宗鈍を開祖として創建。一氏は鉄山を崇敬していたことから、子の一忠が養源院寮舎愈好軒に退居していた鉄山を開祖に招請したものである。
 中村一氏は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名で豊臣政権の三中老(生駒親正:讃岐高松17万石、堀尾吉晴:遠江浜松12万石、中村一氏:駿河府中14万石)の1人。はやくから織田氏の家臣であった羽柴秀吉に仕え、天正元年(1573)頃に秀吉より近江長浜のうち200石を拝領している。天正18年(1590)小田原征伐において羽柴秀次隊の先鋒を務め、ほぼ単独で松田康長の守る山中城の主要部分を攻略する。その功により駿河国駿府14万石を拝領する。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、合戦前に病死。戒名は大竜院殿一源心公大禅定門。墓は静岡市の臨済寺にある。
 中村家の家督は年少の一忠が継ぎ、家康より伯耆一国が与えられ、米子17万5000石の城主となる。しかし父の代からの家老・横田村詮を誅殺したことに家康は激怒し、一忠の側近を切腹に処した。慶長14年(1609)20歳の若さで一忠が急逝したため、中村家は改易となった。
 鉄山宗鈍は、天文元年(1532)甲斐国に生まれている。甲斐の恵林寺で出家、駿河の清見寺で妙心寺42世東谷宗杲、天龍寺の策彦周良らに学び、宗杲の法を嗣ぐ。天正3年(1575)妙心寺80世住持を務める。徳川家康に招かれ武蔵の平林寺の住持も務める。元和3年(1617)入寂。86歳。
当時は妙心寺北総門に接する龍安寺道東側に位置し、明治期に太嶺院の所在地であった現在地に移されている。

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妙心寺 塔頭 大法院 山門
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妙心寺 塔頭 大法院

11 大法院 龍泉派

 大法院は大龍院の西、庫裏から西に折れる参道の突き当たりに位置する。寛永2年(1625)淡道宗廉を開祖として、千種有能の室長姫が、祖父である真田信之の遺命に応じ、信之の菩提所として創建した。真田信之は信濃上田藩の初代藩主で、後に信濃松代藩の初代藩主、そして真田幸村の兄である。慶長5年(1600)の関が原の戦いおいて、父・昌幸と弟・幸村が西軍、信之は東軍の徳川秀忠軍に属して、第二次上田合戦で対戦する。関が原の戦いの終結後、昌幸と幸村父子は流罪となる。昌幸は慶長16年(1611)九度山で死去するが、幸村は慶長19年(1614)大阪城に入城し、大阪冬の陣そして夏の陣で戦い、戦死する。一方、沼田城主であった信之は、病気のため大阪の陣に出られず、長男の信吉と次男の信政を出陣させている。元和8年(1622)沼田3万石を継承しながら、信濃国松代藩に加増移封され13万石の所領を得る。明暦元年(1656)次男の信政に家督を譲って隠居する。そして万治元年(1658)死去。享年93.戒名は大法院殿徹岩一明大居士。
 千種有能の室となった長姫は、長男信吉の長女で初めに関長政の正室、後に千種有能の室となっている。長姫は妙心寺175世絶江紹隄に帰依しており、その法嗣である淡道を開祖に請じた。また長姫の姻戚開係から、久我、千種、真田、内藤四家の香火寺ともなっている。
 光国院の梁南禅棟が中興し、このとき盛徳院を併合している。さらに明治11年(1878)に松林院を併合し今日に至っている。
 大法院は真田家の菩提寺であるため、松代藩士・佐久間象山の墓所となっている。庫裏の脇から大法院に入ってくる参道の入口は、佐久間象山先生墓道の道標がある。

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妙心寺 塔頭 玉龍院 山門
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妙心寺 塔頭 玉龍院 庫裏

12 玉龍院 龍泉派

 玉龍院は大法院の南に位置する。慶長3年(1598)生駒一正が妙心寺56世九天宗瑞下の妙心寺99世大川紹潙を開祖に請じて創建された生駒家の菩提所。
 生駒一正は、弘治元年(1555)戦国武将で豊臣政権の三中老(生駒親正:讃岐高松17万石、堀尾吉晴:遠江浜松12万石、中村一氏:駿河府中14万石)の1人となる生駒親正の嫡男として生まれる。はじめ織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどで活躍する。信長死後は羽柴秀吉に仕え、天正19年(1591)従五位下讃岐守に叙任される。朝鮮出兵にも参加し、蔚山城の戦いなどで活躍する。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、会津出兵に参加し、そのまま東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げる。国許の親正は西軍に加わっていたが一正の功により罪を問われず、1万5千石の加増となる。慶長6年(1601)高松藩2代藩主を継ぐ。慶長15年(1610)死去。法名は玉龍院殿前讃州大守四品安岫崇泰大禅定門。讃岐の法泉寺に葬られる。
 開山の大川紹潙は妙心寺56世九天宗瑞の法嗣で、天正16年(1588)生駒親正により讃岐宇多津の海蔵寺の開山として迎えられている。海蔵寺は玉龍院が創建された慶長3年(1598)高松にうつされ法泉寺となる法泉寺は生駒一正の墓所でもある。玉龍院の境内には寛永年間(1624~44)に建立された生駒家の廟(霊屋)がある。
 なお、妙心寺の公式HPの玉龍院(http://www.myoshinji.or.jp/k/root4/8.html : リンク先が無くなりました )は海福院の誤りであろう。

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妙心寺 塔頭 通玄院
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妙心寺 塔頭 通玄院 山門

13 通玄院 龍泉派

 通玄院は玉龍院の向かい、徳雲院、大法院そして玉龍院へつづく参道の最後に位置する。妙心寺219世虚櫺了廓が開祖、寺西織部信之が檀越となり、即心院と称する経蔵に納められる「一切経」の写経道場として創建される。ただし創建時期については天正7年(1579)と元和8年(1622)の2説がある。
 虚櫺了廓は日向国飫肥出身、江戸東禅寺で修行する。泰叔玄昌の法嗣。
 寺西信之の祖父にあたる之政は、滝川一益の家臣だったが、賤ケ岳の戦いで一益が破れたために浪人となる。後に織田信雄に属し、小牧長久手の戦いでは尾張・伊勢で戦う。信雄が烏山に配流されるとまた浪人し、天正19年(1591)に浅野長政に仕える。之政の子の利之も浅野長晟の馬廻り役として二百石を給される。慶長19年の大阪冬の陣及び夏の陣では、老年の父に代わって出陣する。慶長19年(1614)11月在陣中、紀伊国湯川中島郷での一揆が伝わったため鎮圧に帰る。浅野家が広島に入封するのは福島正則が改易後の元和5年(1619)のことであり、それまでは紀伊国和歌山藩主であった。また夏の陣でも紀伊国日高郡・有田郡で起こった一揆の征討を命じられている。元和2年(1616)父隠居の後をついで知行1500石、番頭となる。寛永7年(1630)二代藩主長晟のとき300石を加増され、足軽20人を預かり近従となり、さらにのち700石の加増を受け、同10年(1633)には都合2500石となった。正保3年(1646)病没。息子は五人あり、嫡子権右衛門へは1500石、次男織部へ1300石、三男彦右衛門へ300石、四男加左衛門へ200石、五男善右衛門へ300石が与えられ、それぞれ別家を立てる。歴代の墓所は安芸の国泰寺。寺西利之の次男が通玄院の檀越となった寺西織部信之である。
 増田裕さんの管理されている 裕の広島ぶらり旅に掲載されている 通玄(山)観音によると、寺西信之は元和2年(1616)に生まれ、晩年己斐村に暮らし延宝2年(1674)加加桑山麓に養志庵と通玄堂などを建立したされている。そして貞享4年(1687)に没している。また信之は、加加桑山の巨岩に「通玄山」と彫っている。これは承応3年(1654)隠元禅師が瀬戸内海から見えた山を通玄と名づけたことによっている。信之は虚櫺了廓を通じて隠元禅師の書を得たとされている。 承応元年(1652)妙心寺196世禿翁妙宏は、隠元隆琦の語録を読み、龍安寺の龍渓性潜と共に隠元禅師を尊崇していたが、来朝した隠元禅師の動向を伺うべく、法兄弟である虚櫺了廓に隠元禅師の滞在する長崎往きを依頼する。虚櫺は、承応3年(1654)に来朝した隠元禅師の求めに応じ、禅師の初めて行った安居で日本人僧侶の指導に当たり、大法会の様子を報告している。そのような経緯から、虚櫺は寺西信之の依頼に応えることができたのであろう。
 隠元は長崎の興福寺に次ぎ、摂津の普門寺に住し、そして黄檗宗総本山萬福寺の開創に続いて行く。
 さて再び通玄院の開創時期を見てみると寺西信之の時代とずれていることに気が付く。
 なお写経の願主は水月院を開創した無門座元で、虚橘の弟子にあたる。写経は建仁寺の高麗版蔵経を借用してなされたという。明治11年(1878)に、水月院は通玄院に併合される。

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妙心寺 塔頭 大龍院の塀

「妙心寺 塔頭 その3」 の地図


大きな地図



妙心寺 塔頭 その3 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
06 妙心寺 慈雲院 35.0214 135.7195
07 妙心寺 退蔵院 35.0219 135.7192
08 妙心寺 天授院 35.0224 135.7192
09 妙心寺 徳雲院 35.0245 135.7191
10 妙心寺 大龍院 35.0239 135.719
11 妙心寺 大法院 35.0241 135.7182
12 妙心寺 玉龍院 35.0235 135.7182
13 妙心寺 通玄院 35.0233 135.7188

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