天龍寺 その5
臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その5 2009年11月29日訪問
既に嵯峨野の町並み その4でも触れたように、天龍寺はその創建から室町時代までに、延文3年(1358)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安4年(1447)そして応仁元年(1467)の6度、そして江戸時代に入ってからも、文化12年(1815)の火災、さらには元治元年(1864)の禁門の変の長州兵討伐のため全山焼失にみまわれている。
この項では禁門の変と天龍寺について記してみる。
禁門の変は、その前年の文久3年(1863)8月18日に発生した政変、すなわち八月十八日の政変に端を発している。各地から尊皇攘夷派を自任する志士と呼ばれる人々が京都に集結し、反対派に対する暗殺として天誅が繰り返して実行されてきた。同年2月22日に足利三代木像梟首事件が起こると、それまで言路洞開の宥和政策を取ってきた会津藩も、壬生浪士組を用いた強行路線に転じる。 これに対して、朝廷内において三条実美や姉小路公知に代表される尊攘急進派公家が朝議を取り仕切り、同年2月に新設された国事参政と国事寄人の二職に、急進派が登用されたことにより、実権は急進派に移った。また公家の子弟のための公式の教育機関として弘化4年(1847)に創設した学習院では、陳情建白の受理が常態化していた。そのため草莽の者でも時事を建言できることから、学習院御用掛あるいは学習院出仕に任命された高杉晋作、久坂玄瑞、真木和泉、福羽美静ら各藩の志士が、急進派公家とともに攘夷決行の密謀を巡らす環境を提供していた。同年3月から4月にかけて天皇は、攘夷祈願のための賀茂や石清水行幸などが相次ぐ。ついに4月20日に幕府は将軍退京及び慶喜東帰とひきかえに、朝廷に対して外国拒絶期限を約束せざるを得ない状況に追い込まれる。幕府は即日諸大名に布告し、攘夷決行日が20日後の5月10日と決定する。
そして5月10日長州藩は下関でアメリカ商船を砲撃し攘夷を実行に移す。しかし幕府を始めとした他藩はこれに追随しなかったため、ひとり長州藩のみが四国艦隊から報復攻撃を受ける下関戦争へとつながっていく。尊攘急進派は、長州藩の窮状を打開し国論を攘夷に向けて一致させるため、天皇による大和行幸を計画する。既に行なわれた賀茂社や石清水社への行幸とは異なり、神武天皇陵や春日大社へ攘夷を祈願し、御親征軍議を行なった上で伊勢神宮へ報告するという大和行幸の詔(偽勅)が、急進派の手によって8月13日に発せられる。この詔を受けて吉村寅太郎らは公卿中山忠能の子の中山忠光を担ぎ、大和行幸の魁となるべく天誅組を結成し進発する。
これに対して会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派が、中川宮朝彦親王を擁して朝廷における尊攘派を一掃するクーデター計画を実行に移す。8月15日京都守護職・松平容保の了解のもと、 薩摩藩の高崎正風と会津藩の秋月悌次郎が中川宮を訪れて計画を告げる。翌16日に中川宮が参内して天皇を説得し、翌17日に天皇から中川宮に密命が下る。そして文久3年(1863)8月18日午前1時頃、中川宮と松平容保、ついで近衛忠熙、二条斉敬、近衛忠房らが参内し、早朝4時頃には会津・薩摩・淀藩兵により御所九門の警備配置が完了している。そして三条ら急進派公家に禁足と他人面会の禁止を命じ、国事参政、国事寄人の二職が廃止となる。朝議が開かれ、大和行幸の延期、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議され、長州藩は堺町御門の警備を免ぜられたばかりか京都から追われることとなる。翌19日長州藩兵千余人は失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに、妙法院から長州へと下って行く、いわゆる七卿落ちである。
この政変により決起した天誅組は、幕府が討伐を命じた紀州、津、彦根、郡山藩の包囲網によりあえなく壊滅している。また10月には平野国臣が但馬国生野で代官所を襲撃して挙兵するが、これも幕府軍の追討を受けて敗北している。
禁門の変は、この八月十八日の政変により京都を追放された長州藩が、京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵したことによって起きている。
長州藩内において、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張したのに対して、事態の打開には京都に乗り込む以外にないとする来島又兵衛や真木和泉らの急進派が次第に主導権を握りつつあった。そして6月5日の池田屋事件が長州に伝わると、藩論は激高し慎重派による沈静化は不可能な状況となった。ここにおいて福原越後、益田右衛門介そして国司信濃の三家老は、藩主の冤罪を朝廷に訴えることを名目に挙兵を決意する。慎重論を唱えていた久坂も藩論を抑えきれず、止むを得ず挙兵に加わることとなった。6月の中頃に長州を発った長州軍は、22日に福原越後隊が大阪に到着している。そして24日は伏見長州屋敷に入り、長州藩京都留守居役乃美織江を通じて所司代へ上京の届出を提出している。同日、益田右衛門介隊も淀川を遡り山崎に到着し、宝積寺に布陣している。真木和泉と久坂玄瑞がこの隊に加わっている。そして来嶋又兵衛が天龍寺に布陣したのが6月27日の夕方であった。
しかし6月27日に行なわれた朝議により長州入京不可が決し、29日は禁裏守衛総督一橋慶喜に京都周辺に布陣する長州藩の処分に関する諸事委任の勅命が下る。徳川慶喜は7月17日までに長州軍に対して退京の勧告を5度にわたって行なうが、交渉は決裂し7月19日より長州軍の進攻が始まる。3隊の目指すものは御所の西南の御花畑(凝華洞)を仮本陣としていた京都守護職松平容保で、3方面よりが時を同じくして容保の仮本陣に攻撃することであった。伏見長州藩邸を出た福原隊約700名は御所を目指し伏見街道を北上するが、伏見稲荷のあたりで彦根・大垣藩兵と遭遇し戦闘状態に入る。行手を阻まれた福原隊は京に入ることができず、山崎に敗走することとなる。
嵯峨を2手に分かれて進発した国司隊約800名は、さらに国司、来島、児玉の3つに隊を分け午前7時頃に、中立売御門、蛤御門、下立売御門で交戦状態に入る。来島又兵衛が率いる長州軍と蛤御門を守る会津藩との間で、禁門の変における最大の激戦となった。中立売御門で筑前兵を破った国司隊、そして下立売御門を攻略していた児玉隊も蛤御門に向かい、一時は長州軍に戦況が傾きかけていた。しかし乾門方面から駆けつけた薩摩兵により、来島は清水谷家の椋のあたりで狙撃され、形勢は一転する。
山崎に布陣し西国街道を北上した益田隊約600名は、国司隊より遅れて御所に到着している。既に堺町御門は越前兵によって固められ、鷹司邸の裏門から邸内に入る。久坂は、参内の支度を整えていた鷹司輔煕に取り成しを願うが聞き入れられなかった。既に蛤御門での戦闘も決していたため、鷹司邸に立て籠もった長州軍は諸藩兵に包囲される。会津兵が堺町御門の西側の九条邸より砲撃を加え、鷹司邸の塀を崩し、そこから邸内に入った諸藩兵によって益田隊は撃退される。この戦闘で負傷した久坂は寺島忠三郎と共に邸内で自刃している。
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