祇園閣 その4
祇園閣(ぎおんかく)その4 2009年11月29日訪問
祇園閣 その2と祇園閣 その3では、祇園閣の設計者である伊東忠太の建築とパトロンとなった大谷光瑞について記してきた。前段が長くなり、祇園閣に達する前に終わってしまった。ここでは大倉喜八郎と忠太の関係から祇園閣の創建について書いてみたい。
伊東忠太は、大谷光瑞と西域探検を通じて知り合えているが、大倉喜八郎とはどのようにして巡り合えたのだろうか?伊東忠太が明治25年(1892)帝国大学工科大学を卒業しているが、大倉喜八郎の甥にあたる喜三郎もその翌年に卒業している。卒業後は大倉家の経営する大倉組に入社、ロンドン支店に転じて欧米各国を巡遊している。大倉組札幌支店長を経て独立した後は、多くの会社の取締役や社長を歴任し、実業界で活躍する。鈴木博之氏の編書「伊東忠太を知っていますか」(王国社 2003年刊)に掲載されている倉方俊輔氏の「伊東忠太の設計思想 妖怪としての建築」によると、大正元年(1912)の大倉向島別邸の建設の際に、片山東熊や妻木頼黄とともに伊東忠太も相談を受けたことに始まったようだ。なおこの文中で喜三郎を喜八郎の息子の一人としているが甥の間違いだと思われる。忠太は大倉喜八郎邸の門や大倉葬儀場の設計を依頼されていたようだが、いずれも実現しなかった。同書には、大倉集古館の学芸員である譲原純子氏の「大倉集古館に過ごして」という一文が掲載されている。伊東忠太の教室に喜八郎から、向島の別邸に来てもらいたいという電話が入る。そして喜八郎から次のように祇園閣の設計を伊東忠太に依頼されたことが描かれている。
「ある風雨の日に、私の傘が風に揉かれて、漏斗状に上向きに反転した。(略)その形をそのまま建築にして造って貰いたい。」(略)無理とは思いながら兎に角試しに数案を作って翁に示したところが、翁は果たして「これはいかん」と言って諦められた
その少し後、博士は再度呼ばれて注文を受けた。それが実現した祇園閣の姿、即ち「祇園の鉾の形をそのまま建築化したものを造って貰いたい。(略)京都の全市を一眸の下に瞰視すべき高閣を作り、京都名所の一つにするのだ」というものだった。喜八郎は写真、画帖等を持参して熱心に鉾の形を説明し、博士もそれならばと快諾されて昭和3年6月に完成させるが、集古館同様、主は望楼に坐すことなく永眠している。
このエピソードは、喜八郎没後の昭和4年(1929)に纏められた「鶴翁餘影」に忠太が寄せた追悼文に記述されているとしている。
総高約34mの3階建塔状建築で,建物の形状からは創造しづらいが石張りされた下層及び基礎部分はRC造、中層以上はSRC造となっている。この建物の正面入口上に記された「祇園閣」の文字は西園寺公望公によるもので、上層正面「万物生光輝」の文字は大倉喜八郎の書である。
入口の青銅製の扉の内側には鶴が描かれている。これは喜八郎の幼名の鶴吉そして号として使っている鶴彦に因んだものと思われる。鉾の頂部に羽をひろげた鳥も鳳凰ではなく鶴を使用している。なお藤森昭信氏の編書「伊東忠太動物園」(筑摩書房 1995年刊)では、大倉家の家紋の鶴に因んだという記述があるが、護国寺の墓所を見る限り溝口菱紋を使用しているようだ。溝口菱紋は甲斐源氏武田氏の庶流である新発田藩主・溝口氏の家紋である。その後、新発田市の市章にも使われている。大倉喜八郎は新発田の出身であるから、この溝口菱紋を使用しても不思議ではない。
青銅製の扉の中に入ると入口ホールの天井には後述のように敦煌の壁画が描かれているが、その中に照明器具として角を生やした豚のような怪獣がランプを支えている。今回の訪問では見落としてしまったが、「伊東忠太動物園」には増田彰久氏撮影の美しい写真が掲載されている。恐らく壁画がなかった頃は、もう少し目立ち、訪れる人を脅かすような役割を果たしていたことと思う。最上階まで階段を上ってゆくと、天井の中心飾りとして十二支のレリーフが造られている。虎が兎の尻を噛み、猿が鶏の足を掴むなど、時の流れの無限循環を示している意匠となっている。この中心飾り以外は和風の伝統建築に用いられる格天井風に仕上げられている。格間のパネルは黄金色の装飾で天女の群舞が浮彫りにされている。天女の群れの中心部には蓮の花の形をしていて、そのさらに中心に3匹の兎が跳ね飛ぶような図になっている。藤森氏は先の編書で大倉喜八郎の干支がウサギであることから、伊東忠太のパトロンに対するサービスではないかと記している。
この建物は平成9年(1997)に登録有形文化財に指定されているため、文化庁が運営している文化遺産オンラインに掲載(1・2)されている。これを書いている2012年10月現在、尖閣島騒動によりHPは閉鎖されているので、改めて確認することができないが、以前に見た時には、昭和前あるいは昭和2年(1927)竣工としていた。ただし伊藤忠太などと記述していることからも信頼してよいものか疑問も残る。 また産経新聞に掲載された【もう一つの京都】信長父子弔う菩提寺の風変わりな塔 京の“銅閣”祇園閣(http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090418/acd0904181301002-n1.htm : リンク先が無くなりました )の記事の最後に、
大正15年着工、完工は昭和2年12月と3年6月の両説ある。
としている。大倉喜八郎は昭和3年(1928)4月22日に東京で亡くなっているため、昭和3年6月竣工だと祇園閣の完成を見なかったこととなる。一般に書かれている祇園閣の説明はこの説に拠っているのだろう。ちなみに、この工事を担当した大倉土木組の流れをくむ大成建設の社史では、
昭和二年(一九二七年)十二月鉄骨鉄筋コンクリート造り、高さ百二十尺(三六m余)の祇園閣が完成した。
としている。
大倉喜八郎は東京都文京区の護国寺に葬られている。この墓所の設計も伊東忠太が行なっている。釣鐘を伏せた上に方形の笠を載せた宝塔型の大きな墓碑であり、昭和5年(1930)に建立されている。
喜八郎の死後も、伊東忠太は多くの作品を生み出し戦後の昭和29年(1954)に没している。享年87。昭和2年(1927)東京商科大学兼松講堂(現一橋大学兼松講堂)昭和5年(1930)には震災祈念堂と靖国神社の遊就館、昭和8年(1933)靖国神社神門、昭和9年(1934)靖国神社石鳥居、そして築地本願寺と湯島聖堂を創っている。昭和16年(1941)には伊賀上野の俳聖殿と出身地である米沢の上杉神社を手がけている。忠太の年譜を眺めていくと、大正末の関東大震災以降から昭和初年にかけて設計した作品が代表作となっていることが分かる。そして僅か15年位の間に数多くの作品を残せたことと共に、その多くが幸運にも現存していることは特筆すべき点であろう。特に第二次世界大戦を越えて生き残った建物の多くが、未だに使用されているということは、宗教建築を多く手がけた結果とも謂える。
明治26年(1893)法隆寺建築論を以って建築史家の道を歩み出し、3年間に渡る中国、インド、トルコからヨーロッパへの探検のような留学を経て、明治38年(1905)に東京帝国大学教授となっている。「伊東忠太を知っていますか」に掲載されている鈴木博之氏の「伊東忠太 その私的全体性」という論文の中で、忠太が否定したファーガソンやフレッチャーなどの地理学的様式史こそが、当時の忠太の目指した建築史であったとしている。そして19世紀の建築史叙述の趨勢は、圧倒的に地誌的なものによっており、この方向性が各国の建築史を統合し、世界建築史を成立させる唯一の方法論でもあった。しかしフレッチャーの“A History of Architecture on the Comparative Method”(「フレッチャア建築史」古宇田實・齋藤茂三郎訳 岩波書店 1919年刊)は2部構成で、全体の88%を占める第1部を「歴史的建築(Historical Styles)」、第2部を「非歴史的様式(Non Historical Styles)」 としている。すなわち歴史的様式とは西洋建築であり、「非歴史的建築」にイスラムからインド、中国そして日本を含む全東洋建築を押し込めている。オリエントから始まった建築は、エジプト→ギリシア→ローマ→ロマネスク→ゴシック→ルネサンス→新古典主義→歴史主義→現在欧米建築へと進む正統建築系統樹に対して、東洋建築は全くの傍流に据え置かれている。
いかにも西洋中心の世界建築史観に対して、当然の如く伊東忠太が強烈な反論を加えている。エジプトなどの「古代系」とギリシア、ロマネスク、ルネサンスなどの「西洋系」の他に、第3極としてインド、イスラム、中国を包含するその他の建築文明の円を古代系と西洋系に重ねている。この3つの円が今までの建築モデルであり、その3つの円から突出した円が、アール・ヌーヴォーとアメリカ建築と日本建築であるとしている。日本建築が欧米建築と同様に進化の最先端にあるという明治時代のナショナリズムの昂揚をそのまま世界建築モデルに映し出している。これは忠太が明治42年(1909)に発表した「建築進化の原則より見たる我が邦建築の前途」に掲載されている。鈴木氏が指摘している通り、伊東忠太の世界建築モデルもまた地誌的なものであることは明らかである。
この当時、法隆寺再建非再建論争が起こり、史学の方法論の深化が文献実証による考証によって推し進められている。これは地誌的記述とは異なった年代記的記述方法による史学の台頭と見ることもできる。昭和12年(1937)太田博太郎らを中心として建築史研究会が結成している。鈴木氏は大正9年(1920)に結成された分離派建築会が過去の建築圏からの離脱を目指した設計者の運動であったのに対して、建築史研究会を建築史家の新たな展開と指摘している。つまり忠太の得意とした様式史は類例の収集とともに帰納的に論理を組み立てていくことである。そこには多くの類例を知るために情報を世界各地に求められる上に、壮大な構想力も必要とされる。日本建築史が文献実証の世界に閉じ篭もり建築の編年を求めることは、伊東忠太が頼りとした構想力の全面的な否定となる。このことが忠太を建築史家から、次第に設計者に移行させた最大の理由のような気もする。
過去の様式建築から完全に離脱した分離派建築会とは異なり、過去の様式を新たに読み解くことで伊東忠太の建築として、または私的イメージを再構築している。これを折衷主義建築として見做してよいのかは、読み解く時代の建築思潮によって異なるのではないかと思われる。少なくともポスト・モダン以降の建築において、伊東忠太は過去の建築様式を貴重な遺産として扱う方法論を示している。それは忠太の建築のそこかしこに現われるガーゴイルのような妖怪が示しているように、あくまでも一般化する方法論ではなく、独特な設計者の私的イメージの再構築方法であることは間違いないだろう。
現在、比較的入手が可能な伊東忠太を取り上げた書籍に、「建築巨人 伊東忠太」(読売新聞社編 1993年刊)、藤森昭信氏の編書「伊東忠太動物園」(筑摩書房 1995年刊)、そして鈴木博之氏の編書「伊東忠太を知っていますか」(王国社 2003年刊)がある。藤森氏も鈴木氏も建築史家であり、藤森氏は忠太と同じく設計も行っている。そしてタンポポ・ハウスやニラハウス、高過庵などを手がけているが、設計者としての立ち位置は、建築史家を思い起こさせないものとなっている。この点では伊東忠太とかなり異なっている。また「建築巨人 伊東忠太」の編集にも建築史家の中谷礼仁氏が参加しているように、いずれも建築史を通じて再評価が行なわれていることが分かる。
さらに、「建築巨人 伊東忠太」では藤森昭信氏と荒俣宏氏による対談、「伊東忠太を知っていますか」では鈴木博之氏と中川武氏と藤森昭信氏の建築史家3人よる対談と安藤忠雄と石山修武氏の2人の設計者に倉方俊輔氏と鈴木博之氏の建築史家を加えた対談を行なっている。これらは複眼的に見ないと伊東忠太の本質に迫ることが困難であることを示していると思われるが、これがまた伊東忠太を鵺のように捉え所のない人物像としているように思われる。つまり対談する人が百人居れば百通りの人物像が浮かび上がり、そのいずれもが伊東忠太を現わしているものの、的確に適合する回答がないという状況に似ている。その中でも鈴木博之氏の「伊東忠太 その私的全体性」が、単なる印象論に留まらず、比較的分かりやすい伊東忠太像を提示している。さらに伊東忠太のことに興味を持たれるならば、是非お読みになられることをお勧めする。
話しを再び祇園閣に戻す。
喜八郎の没後、大倉財閥の事業と共に祇園閣は子息の喜七郎に継がれる。若くしてイギリス・ケンブリッジ大学に留学し、バロン・オークラと呼ばれた英国紳士であった喜七郎にとって祇園閣はキッチュな日本趣味に溢れた怪異な建物として映ったのではないだろうか。いづれにしても祇園閣を含む真葛荘は、ホテルニューオータニを開業した大谷重工業社長・大谷米太郎の手に移り、その後高島屋の所有となっていった。
現在、祇園閣の初層から最上層に至る内部には敦煌莫高窟の壁画模写が描かれている。これは伊東忠太の手によるものではなく、昭和62年(1987)大雲寺創建400年を記念して、中国人画家・葛新民氏によって描かれたものである。この経緯は拝観時に手渡された「洛東 龍地山大雲院 祇園閣」と題された栞に記されている。この壁画を護るために堂内は撮影禁止とされているため、ここで写真を掲載することは出来ない。仏教伝播の歴史を説話的に説明するために描かれたのだろうか?あるいは伊東忠太や大谷光瑞による大谷探検隊に因んだ訳でもないであろう。大雲院は浄土宗で大谷瑞光の浄土真宗とは異なる。できれば伊東忠太の設計したままの姿を残して欲しかったと思うのは、建築に携わる者だけだろうか?
最後に譲原純子氏が「大倉集古館に過ごして」で祇園閣誕生のエピソードとして引用した「鶴翁餘影」(編纂兼発行者:鶴友會 昭和4年3月2日発行)を閲覧できる機会を得たので、伊東忠太が大倉喜八郎を追悼した文を下記に書き残しておく。
趣味の鶴彦翁
工學博士 伊東忠太
事業の人としての鶴彦翁の盛名は、苟も耳ある者は鼎鐺と雖も亦、よく之を聞いて居る。趣味の人としての翁に就いても、既に夙に世に知られ、翁の光悦流の一種獨特の書や、昔取つた杵束の名残の一中節や、老て益々發展された狂歌やは、世人の熟知する處であるが、これ等の外に如何なる隠し藝を有て居られたかは私は知らぬのである。私の知つて居るのは私の専門の關係から、建築に關する翁の趣味の一端である。
或る時私の教室へ翁の許から電話がかゝつた。夫は今直ぐに向島の別墅へ來て貰ひ度いと云うのであつた。早速行て見ると、翁は莞爾として握手をされた後、次の如き空前絶後の注文を提出された。『或る風雨の日に、私の傘が風に捲かれて、漏斗狀に上向きに反轉した。その形が如何にも面白かつたので忘れ難い。その形をその儘建築にして造つて貰ひ度い。』
私は生まれて始めてこんな奇抜な注文を受けたので驚いた。併し翁の性質として一旦言ひ出されたら決して取り消されぬのであるから、無理とは思ひながら兎に角試に數案を作つて翁に示した處が、翁は果たして『これはいかん』と言つて諦められた。夫からまた若干の時日を經て、再び翁から向島に呼ばれた。往て見ると今度はまた變つた注文であつた。翁は『京都の眞葛ヶ原に小さな別荘を建てようと思ふ。その敷地内に祇園の鉾の形をそのまゝ建築化したものを造つて貰ひ度い。目的は私の記念事業の一つとして、京都の全市を一眸の下に瞰視すべき高閣を作り、京都名所の一つにするのだ』と語り出でられ、寫眞、畫帳等を取り出されて熱心に鉾の形式を説明された。私は、これならば物になるといふ自信が湧いたので卽坐に快諾し、爾來若干の考究を重ねて設計を整へ、松田登三郎氏始め諸氏の蕫督の下に進工し、終に本年三月全部完成し祇園閣となづけられたのである。翁は工事中數回現場を視察され、色々批評や注文をされ、竣成を樂みにして居られたのに、僅かの處で開閣式擧行を遂げられずして永眠されたことは洵に殘念至極である。
翁が建築及建築的事物に就ての趣味は多くは甚だ變つたもので、中には到底常人の夢想することの出來ないものがあつた。普通の人の建築に對する考へ方、批判、注文と云ふものには大抵型のあるもので、夫を承知して居る建築家は誰に對しても驚かぬものであるが、この型を外れた翁の超凡なる提案に對しては何人も驚かざるを得ぬのである。祇園閣に就ても色々の注文を出された、が玆に翁の性格を赤裸々に露はしたと思はれる二つの御話しを申し述べる。
閣の工事が六分通り進んで、第二層も略ぼ完成する頃、翁は現場に來られ、周到に視察された後、『この閣の第一層の腰積の部分が二尺低すぎた。早速二尺高く致せ』と厳命されたので、工事關係者一同は途方に暮れた。今更二尺高くすることは絶對不可能であることを反覆懇説しても翁は頑として聽かれない。翁の眼中には天下に不可能と云ふことは無いらしいのである。私は、之は工事擔任者の辯解が惡いのであると考へたので、改修可能不可能には多く觸れぬことゝし、『私は二尺低過ぎるとは思はない。これで丁度よいと確信する。若し二尺低過ぎたと云ふことが世の定評であつたならば、私は切腹致して御詫を致す覺悟である』と申した處が、翁は始めて欣然として會心の笑を漏され、『夫れ程の自信と決心があれば夫で好い』と言はれたのである。
夫から又『閣の正面の階段の袖石の上に一對の狛犬を載せて見やう』と注文されたので、高さ二尺餘りの狛犬の原型を造つて見た處が、翁は一言の下に『こんな小さなものは大嫌ひだ、見上げる様な大きなものでなければならぬ。狛犬も普通の型ではいけない。ウンと胸の張つた、筋肉の充分に發いくしたのが好い』と言はれた。私共は翁の意を體し、苦心の結果出來上がつたのが今祇園閣の前に在る狛犬で、出來榮へは兎に角、今日に於ける日本第一の大狛犬である。翁の英靈若し之を見て滿足せらるゝならば洵に歡喜に堪へない次第である。
翁の建築に關する趣味に就ては、申し述べ度いことも澤山あるが今は遠慮致すのである。要するに翁は何事にも極めて強い自信を有て居られ、その自信力を建築方面にも向けられるので、往々甚だ奇抜なる考案を提出して技術家を困らせられる。しかもその中に甚だ暗示に富むものがあつた。而して一旦釋然として諒解せらるゝ時は決して自案を固執されぬのである。要するに翁は磊々として毫も屈托なく、落々として些の頓着なく、意の適する所に從て言行自ら肯綮に中る。翁の偉大なる所以の一面は蓋しまた玆に在ると思ふ。
「祇園閣 その4」 の地図
祇園閣 その4 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 大雲院 総門 | 35.002 | 135.7805 |
02 | ▼ 大雲院 南門 | 35.0019 | 135.7799 |
03 | ▼ 大雲院 本堂 | 35.0021 | 135.78 |
04 | ▼ 大雲院 鐘楼 | 35.0019 | 135.7804 |
05 | ▼ 大雲院 佐土原藩戦没招魂塚と豊烈曜後之碑 | 35.0019 | 135.7803 |
06 | 大雲院 龍池会館 | 35.0023 | 135.7805 |
07 | ▼ 大雲院 真葛荘 | 35.0023 | 135.78 |
08 | ▼ 大雲院 祇園閣 | 35.0021 | 135.7797 |
09 | 大雲院 島津以久墓所 | 35.0019 | 135.7795 |
10 | ▼ 大雲院 織田信長・信忠父子の墓 | 35.002 | 135.7794 |
11 | ▼ 大雲院 石川五右衛門の墓 | 35.0022 | 135.7797 |
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