二尊院 時雨亭跡
天台宗 小倉山 二尊院 時雨亭跡(にそんいん しぐれていあと) 2009年12月20日訪問
二尊院の本堂の西側の斜面に墓地が広がる。この広い墓地の中で迷わないように、湛空上人廟の前に道標が建てられている。北側は角倉家墓地と三帝の塔、そして南側に進むと時雨亭跡に至る。この道標に従い、湛空上人廟の前から凡そ南側に5分弱歩くと、ぽっかりと開けた広場に出る。この間、さして上り道になっていなかったので、恐らく湛空上人廟とほぼ同じ標高にあったと思われる。建物の礎石と思われるものが数個残されており、説明板にはここが二尊院の時雨亭跡だと記している。GPSで確認すると、庫裏や書院のある地点から西側30メートルの斜面の上であることが分かった。
鎌倉時代初期の歌人・藤原定家は、応保2年(1162)に藤原北家御子左流の藤原俊成の次男として生まれている。御子左流は藤原北家の藤原道長の6男・藤原長家を祖としている。御子左流とは醍醐天皇の皇子兼明親王の御子左第を長家が伝領し、御子左民部卿と呼ばれたことに依っている。長家、忠家、俊忠、俊成そして家定と連なり、定家は道長から数えると御子左流6代目となる。定家の孫の代に御子左流から京極家と冷泉家が別れ、御子左流嫡流の二条家とあわせて三家となる。なお京極家は武家の京極家とは別であり、嫡流の二条家も五摂家の二条家ではない。
嫡流の二条為氏が大覚寺統に近侍し、保守的な家風になっていったのに対して、為教を祖とする京極家は為兼の代になると持明院統と結んで清新な歌風を唱えた。さらに両家は二条派と京極派に分かれ、勅撰和歌集の撰者の地位を争い互いに激しく対立した。しかし観応元年(1350)から始まった観応の擾乱により、光厳院らが南朝側に監禁され持明院統は打撃を受けることとなる。さらに持明院統を継いだ後光厳院が二条派を重用したため、京極派は有力な後嗣を得ないままにここで断絶している。「玉葉和歌集」「風雅和歌集」「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占し京極派に勝利した二条派も、為氏の子の為世に師事していた僧頓阿に実権が移り、二条家の嫡流も為世より5代後の為衡の死によって断絶してしまう。
上記のように御子左流の嫡流である二条家も室町時代までに絶えてしまったことで、藤原定家の流れをくむのは冷泉家のみとなった。冷泉家は定家の孫・冷泉為相を祖としている。為相は為家が60歳を過ぎてから後妻の阿仏尼との間に儲けた子であり、為家は嫡男為氏に与えるはずであった所領や伝来の歌書などを為相に相続させている。そのたため御子左家所伝の典籍類は冷泉家に伝わることになった。これが為家の時代に三家に分かれた原因となり、後の対立の基となっている。為相は京を離れ、鎌倉幕府と親しく長らく鎌倉の藤ヶ谷に居を構えていた。そして娘の一人が鎌倉幕府の8代将軍久明親王の側室となり、久良親王を生んでいる。久明親王が持明院統の後深草天皇の皇子であったため、冷泉家は持明院統の外戚として鎌倉の地で栄えることとなった。為相の子の為秀も相模国鎌倉での在国が長く、冷泉家は鎌倉の藤ヶ谷にも邸宅を構え、鎌倉将軍宮家の伺候衆として将軍の近臣でもあった。大覚寺統と濃い姻戚関係にあった二条家も、大覚寺統が衰えるとその勢力を弱めることとなる。それに伴い冷泉家は京都における活動も行えるようになっていった。
冷泉為尹は応永23年(1416)次男の冷泉持為に播磨国細川荘などを譲って分家させている。足利将軍家が冷泉持為の実力を認め、独立した一家の新設を許したためである。長男である為之を祖とする上冷泉家と次男である持為を祖とする下冷泉家に分かれることとなった。そして所領及び家に伝わる文書はこの時に二分され、播磨国細川庄は下冷泉家が相続することとなった。
戦国時代には、上冷泉家は北陸地方の能登守護畠山氏や東海地方の駿河守護今川氏を頼り地方に下向しており、山城国に定住することはなかった。織田信長の時代に京都に戻ったが、豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された天正14年(1586)には勅勘を蒙り、再び地方に下っている。秀吉の死後の慶長3年(1598)に徳川家康の執り成しによって堂上への復帰がかなう。これより以前、秀吉の都市改造により御所の周辺に公家たちの屋敷を集め公家町を形成されていた。上冷泉家が都に戻れたのは、公家町が完成した後だったため、公家町内に屋敷を構えることができず、京都御苑に隣接した現在の敷地を家康から贈られている。江戸時代に入ると、上冷泉家は徳川家に厚遇されて繁栄する。
一方の下冷泉家の冷泉持為とその子の政為は、それぞれ足利義持、義政に偏諱を賜るなど将軍家より厚遇されてきた。そのため、この時期は下冷泉家が冷泉家の本流であったとも言える。しかし細川庄に下向し荘園を管理していた為純とその子の為勝が別所氏に殺害され荘園も横領されるという事件に巻き込まれる。為勝の弟の為将は京都に戻り下冷泉家を再興し、自らの子の為景を下冷泉家の当主としている。播磨下向時以来、下冷泉家は別所氏と敵対する豊臣秀吉と親しい関係を保ってきた。関白太政大臣となった秀吉は下冷泉家の京都における再興に協力を惜しまなかったとされている。江戸時代には毛利家および加藤家と姻戚関係があった。
明治時代になると上冷泉家の冷泉為紀は伯爵に、下冷泉家の冷泉為柔は子爵に両家とも華族に列せられた。そして下冷泉家は明治天皇に従い東京に移住し、上冷泉家はその後も京都の屋敷に住み続けて現在に至っている。
徳川家康から上冷泉家に与えられた敷地は、京都御苑の北側、相国寺の南側の現在の冷泉家の地であった。ここに屋敷を建てたのは慶長11年(1606)のこととされている。寛永5年(1628)頃には冷泉家伝来の古書を収めていた御文庫は、封印が施されて京都所司代の管理下に置かれるようになっている。冷泉家の当主といえども勝手に出入りすることはできなくなってしまう。天明8年(1788)の大火により、冷泉家の屋敷は焼失したが御文庫は火災を免れる。冷泉家は寛政2年(1790)に再建されている。
大正6年(1917)に今出川通の拡幅が行われ、冷泉家の敷地の南側が道路となった。屋敷は曳家を行ったため天明の大火後の再興された建物を現在も維持している。昭和56年(1981)に財団法人冷泉家時雨亭文庫が設立され、現在は公益財団法人冷泉家時雨亭文庫が時雨亭文庫を護っている。
国指定文化財等データベースによると、冷泉家時雨亭文庫が所有するものには、5件の国宝と48件の重要文化財が含まれている。「古今和歌集〈藤原定家筆/〉」、「古来風躰抄〈上下(初撰本)/自筆本〉」、「後撰和歌集〈藤原定家筆/〉」、「明月記〈自筆本/〉」そして「拾遺愚草〈上中下/自筆本〉」が一番新しく平成15年(2003)に登録されている。重要文化財としては、「伊勢物語〈下/〉」を始めとし47件の美術品と冷泉家住宅が建造物して登録されている。
藤原定家の京極邸は平安京左京二条四坊十三町にあったと伝えられている。その邸地より定家は京極中納言と称されている。現在の中京区寺町通二条上る西側に藤原定家京極邸址の碑が建つ。この碑は定家の京極邸跡を示すものである。定家は一条京極の地に貞応年間(1222~24)頃より棲み始めたと考えられている。定家の時雨亭の所在地については諸説ある。寛文5年(1665)に書かれた「扶桑京華志」(「京都叢書 第2巻 扶桑京華志 日次紀事 山城名所寺社物語 都花月名所」(光彩社 1967年刊行))には以下のようにある。
時雨亭 即藤原定家之私第也 乃詠二時雨冬始之歌一之処也
或曰在二相国寺林光院一也 或京極之観喜寺[在二今出川北一]
或曰厘之観喜寺 或曰遣迎院也[厘之西二町一条北可二五町一]
或曰千本引接寺也 衆説紛然 按遣迎院有二定家之墳云者一
引接寺有二千本桜一 京極有二亭之舊址者一
林光院亦隣二京極観喜寺一 唯於厘之観音寺更無二遺物一也
世以二無遺之地一称二亭之舊址一 必當レ有レ故乎蓋
按京極観喜寺曰在レ厘移二徒京極一故無二舊址一乎
「京羽二重」にはさらに「千本ゑんま堂の内白毫院」「般舟院の内」を上げているように、時雨亭の旧址だけでも諸説ある。
そこで時雨亭から定家の山荘に絞ると、「出来斉京土産」では寂光寺(常寂光寺)、「京羽二重」も寂光寺(常寂光寺)、「山城名勝志」は中院、「山城名跡巡行志」は、二尊院の南あるいは常寂寺(常寂光寺)仁王門の北、「山州名跡志」でも、二尊院の南あるいは常寂寺(常寂光寺)仁王門の北としている。
そして「都名所図会」では以下のように記されている。
京極黄門定家卿の山荘 あるひは時雨亭と号くる舊跡ところぐにあり かの卿の詠歌により又は少しき因になづみて後人これを作ると見えたり
続拾遣
いつはりのなき世なりせば神無月
誰まことより時雨そめけん 定家
〔此歌を種として謡曲を作したり、時雨亭も是より出たり、実あるにあらず〕
以上のように断ったうえで、現在の厭離庵を「小倉の山荘」として説明している。厭離庵は冷泉家が修復し第112代霊元法皇により厭離庵の号を得ている。明和9年(1772)、霊源禅師開山の臨済宗天龍寺派の寺院となっている。ちなみに「都名所図会」が刊行されたのは安永9年(1780)であり、上記の「京羽二重」から「山州名跡志」までの地誌は厭離庵が創建される以前に刊行されている。
昭和の時代に名所図会を作成した竹村俊則は、最初の「新撰京都名所圖會 巻二」(白川書院 1959年刊)で、厭離庵を以下のように記している。
こゝは鎌倉時代の歌人藤原定家が、小倉百人一首をえらんだ山荘址とつたえ、久しく荒廃していたが、近年再興して今は臨済宗天龍寺派の尼寺となっている。西南の竹林は善光寺山といゝ、もと時雨亭のあったところといわれ、柳の水(硯の水)は定家が小倉百人一首を染筆するときに用いた水という。また書院の背後に定家塚というのがあるが、いずれも後世好事家によってつくられたものであろう。
言い伝えに従って再興された厭離庵にある謂れのある品々は藤原定家が没した後に作り出されたものと竹村は推定している。その上で次のように続けている。
定家が書きとゞめた日記「明月記」に、彼の嵯峨山荘は常寂光寺の北方、小倉山麓にあったものと思われ、この地は定家の嗣子為家の妻の父にあたる宇都宮入道頼綱(蓮生入道)の中院山荘址という。
竹村は常寂光寺の項で、「歌人藤原定家が嘗つてこの付近に山荘を営み」とするに留め、二尊院の項では定家に触れていない。
竹村は「新撰京都名所圖會」を刊行した昭和34年(1959)から二十数年後に再び「昭和京都名所圖會」を執筆している。「昭和京都名所圖會 洛西」(駸々堂出版 1983年刊)の厭離庵の項は、ほぼ「新撰京都名所圖會」と同じ記述となり、柳の水も定家塚も後世の仮託によるもので、宇都宮頼綱の中院山荘の地としている。常寂光寺の項では、歌僊祠の説明として定家・家隆両歌人を祀った祠堂が仁王門の北にあったという表現に留めている。さらに時雨亭跡と記した石碑があることを付け加えている。そして「新撰京都名所圖會」と同じく二尊院の項では定家に触れていない。
山折哲雄監修・槇野修著の「京都の社寺505を歩く 下 洛西・洛北[西域]・洛南・洛外編」(PHP研究所 2007年刊)では、厭離庵、常寂光寺そして二尊院の説明を行った上で下記のように記している。
この時雨亭跡は常寂光寺と厭離庵にもあるが、それらは後世の好事家による建築といわれている。
とまとめている。これは「都名所図会」から「新撰京都名所圖會」そして「昭和京都名所圖會」で指摘されてきたことを再び現在に繰り返したとも読める。時雨亭にあやかって建物を建てた好事家に対して、歴史の捏造というのはやや酷ではあるが、何ら歴史的な根拠無いものを観光資源として喧伝することには大いに問題があると思う。
この記事へのコメントはありません。