京都御苑 九條邸跡 その3
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その3 2010年1月17日訪問
文政6年(1823)以来30余年関白職にあった鷹司政通も、ついに安政3年(1856)8月8日、左大臣・九条尚忠に明け渡している。それでも内覧の権限を引き続き保持し、太閤の称号を手に入れたことによって、政通にとって大きな権勢の衰退はなかった。しかし安政5年(1858)正月の条約勅許に至り、孝明天皇と決定的な外交方針の違いが明らかになる。2月22日の久しぶりの出仕で自らの考えを主張し、一時は拒絶一色の宮中を幕府一任に覆すも、主上の方針を変更させるには到らなかった。この日の意見表明が主上との関係修復を不可能なものとし、遂に2月29日に自らの意思とは別に、内覧を辞すこととなった。本来ならばこれを以って鷹司太閤の政治生命が潰えるはずであった。この項では安政5年(1859)3月から、鷹司太閤の権勢を引き継いだ九条尚忠の行動について見て行く。
鷹司太閤が演じてきた宮中政治における主役の座は、ついに関白・九条尚忠に巡ってきた。この安政5年(1859)3月の時点で既に尚忠は関東側に取り込まれていたのだろうか?あるいは鷹司政通が消えた事で全ての決定権を手中に収めた安堵からなのか?関白の意見は2月中旬を境にして次第と変わって行く。
しかしこの奉答を関白・九条尚忠が受入れると宣言する。関白もまた幕府案を一方的に拒絶するのではなく、妥協点を求めようとしていた。だからこそ、家近良樹氏が「中公叢書 幕末の朝廷 若き孝明帝と鷹司関白」で指摘するように、「無責任な立場にある一般廷臣を動員して自分の思いを実現する孝明天皇の方策に暗に抗議した」と考えることも出来る。なおこの事は、主上が近衛左大臣に送った3月6日の下記の宸翰に記されている。いずれにしても、主上にとっては関白に信頼を置くことができない状況になった。
ここに於いて武家伝奏の東坊城聡長が関白の了解を取らずに、御三家への問い合わせが困難であるならば「大樹公御引き受け遊ばし候はば御安心の御事」といった主旨の発言を堀田に対して行ったとされている。武家伝奏として朝廷と幕府の板挟みとなった東坊城が、関白の方針に沿って関東にとって受け入れ易い提案を行ってしまったようだ。これは武家伝奏の職務逸脱であるが、朝廷側の代表者として九条関白は堀田との交渉に積極的に対応する必要性が発生した。
なお東坊城については、この先の3月9日に襲撃未遂事件に遭っている。この日、議奏の徳大寺公純が御所から帰宅する途上で襲われ危害が加えられそうになっている。これは東坊城と間違われたものであった。もともと東坊城は「風聞宜しからず」の鷹司太閤の側近であった。襲撃の理由としては、東坊城が廷臣等の発言を阻害してきたということ、武家伝奏として幕府から多額の賄賂を受け取っていたという噂、さらに下記の青蓮院宮・近衛・三条の三公に参内を停止させたことなどによっている。最初の理由を別にすれば、恐るべきことに全くの風聞によって襲撃が企てられたのである。同日夜に三条実萬は九条関白に、風聞の悪さから東坊城を排除するように申し込んでいる。関白は風聞だけで辞職させることはできないと拒否したが、襲撃未遂事件が発生したことで11日には所労を理由に参内を見合わせるように自ら東坊城に忠告している。このような経緯を経て、3月17日に武家伝奏の重任に堪えざるを理由に辞任を申し出ている。
左大臣・近衛忠煕は3月6日に、「昨夕当職(九条関白)より広橋を以って青蓮院宮、内府(三条内大臣)そして忠煕等の会合と参内の禁止が命じられた。天下大乱の基となるためという理由による。青蓮院宮へも御世話卿をより申し渡されたので、宮は里御殿から本坊に戻られた」という旨の上書を「極密々謹言上」として主上に提出したところ、同日付で以下の宸翰を賜っている。
私一身玆に極、不慮之発念難レ計候間、何卒其辺御推察にて、青門へも得と御教諭、是非是非願入候事。
主上が自らの思召しを実現するためには、中川宮朝彦親王、近衛忠煕そして三条実萬の支援が必要である。この仕組みを関白に見透かれ、主上との連絡網を遮断されてしまったということだ。ただ、この強硬措置は長くは続かなかったようで、青蓮院宮日記によると3月12日には内命は解除されている。この策を果たして誰が考えたのか?武家伝奏の東坊城聡長の独断か、関白自身及び九条家か、あるいは長野主膳と井伊家なのか?このあたりが、次に控える安政の大獄の処罰の対象へとつながって行くことは明らかである。
徳富蘇峰が「近世日本国民史 朝幕交渉篇」(時事通信社出版局 1965年刊)謂う様に「而して此れが朝廷の大勢であり、此れが在京志士の与論であり、而して此れが一般的に云へば、京都の雰囲気である。斯る雰囲気の中にありては、其の一呼一吸さへも、容易に和親条約・開国通商の論を容る可き余地はあるまい。」である。公家達の高揚感は、彼等に入説している所謂有志の人々の異様な熱気でもある。このようにして京都の地熱は次第々々に沸騰に向って上昇してきた。
出来之上ハ、三公両役以下過日勅問之人々召設、得ト書付ニテ為レ見、両様何レ可レ然哉、又ハ趣意モ可レ有レ之、御尋問之上、猶其趣ヲ尊公ヨリ承リ、又々御相談申可レ然哉ト存候。此度之儀ハ一大事故、弘ク趣意尋可レ然、非常ノ事ト存候。
関白はこれに従い9日に鷹司輔熙右大臣と逢い、自らが作成した勅答草案を開示している。さらに鷹司輔熙は、これを父の政通に見せている。9日の夜に草案を見た政通は「かようの仰せにあい成り候得ば、実にく毛頭所存これ無く、恐悦に存候」と受け止めたようだ。さらにその上で、「大樹公え御頼み」云々の文言を加えた方が良いとの政通の考えが、輔熙より関白に伝えられている。9日の朝議に欠席した近衛忠煕左大臣に対して右大臣と二条斉敬が使者となり二条邸を訪れ、勅答草案を見せている。近衛左大臣も「至極の御趣意」だと同意している。これを以って宮中の最上層部は関白が作成した勅答草案に悉く同意したこととなる。朝議での決定は3月11日の夕刻であった。恐らく主上は関白の勅答草案に対して満足してはいなかったが、最終的には同意したと思われる。3月11日に近衛左大臣が賜った宸翰は下記のようなものであった。
先刻関白面会仕段々及数談候所頓ト頓ト無全方先々過日以右府御所存承候一紙ニテ治定右ニ添書ニテ来十四日堀田参内申付両役列座ニテ申渡ニ先々成候事ニ候色々申候へ共無差ト余リ強申候テハ堀田之身体ニ可掛左候テハ不憐慇之至且ハ対大樹無申訳間柄ニモ可掛之次第誠ニ以必至難渋之儀ニ候
主上は交渉相手の堀田の身をも心配する程の気の使いようである。望んでいない関白案に同意せざるを得ない状況に際し、諦めの意味も含めて堀田のことに言及したのかもしれない。いずれにしても宮中の意思決定者は誰も関白に対して、勅答草案が否であることを述べることはなかった訳である。そして、このまま3月14日を迎えることとなるはずであった。
中山忠能と正親町三条実愛等7名連署の墨夷一条書留の建白書、武家伝奏の東坊城聡長に対する襲撃未遂事件など、朝議で発言できない廷臣の憤懣は次第に高まり、ついに3月12日に爆発の時を迎えた。「孝明天皇紀 第二」(平安神宮 1967年刊)の安政5年(1858)3月17日の東坊城聡長辞任の条の後半「按」に明治32年(1899)12月の久我建通付箋に云うとして、当日の様子が記されている。11日夜二更頃に富小路左馬権頭を以って内々の勅書を賜っている。「今度返答之事国家ノ安危ニモ候ヘハ御心配之旨何トカ宜敷勘考ヲ加ヘ書改ニ可相成様御沙汰也」との旨を受けてすぐに大原重徳、岩倉具視等と協議し多人数集まり一同列参して伝奏と関白に書き改めを嘆願することとした。その晩の内に手配しなるべく多くの人数を揃えた。結局翌日に88人が集まり伝奏に迫り関白邸に列参に及んだ所、人数に驚愕し書面の変更が為されたとしている。なお久我は議奏に就いていたため、88人の連署には加わらなかったとしている。つまり、3月12日に88人の公家が許可なく御所に集合し、14日に老中・堀田正睦に渡す予定の勅答書中の「此上ハ於二関東一可レ有二御勘考一様御頼被レ遊度候事」の削除を求め、それに成功した事件である。廷臣八十八卿列参事件が発生したことは、既に京都御苑 賀陽宮邸跡その2で触れているので、そちらもご参照ください。岩倉等の作成した諫疏の文は以下のような勅答案の修正要求でであった。
御返答御文面之内、御返答之儀、被レ遊方無レ之、此上ハ於二関東一可レ有二御勘考一様、御頼被レ遊候ト申所之文面、御差除ニ相成候様、伏テ奉レ願候事。
「岩倉公実記 上巻」(皇后宮職 1906年刊)によると、中山忠能が諫疏の草案を集まった公卿達に示したところ異議無しとの事で、これを小奉書4つ折に清書し各々の名を手書きする。関白・九条尚忠の参内を待ったが病のため参内が無いとのことなので、中山は広橋光成に諫疏を披露する様に頼んだ。この時、青蓮院野宮、近衛左大臣、鷹司右大臣、三条内大臣が参内したので、中山等は右大臣に謁し諫疏の旨を陳述し勅答案の改作を懇求した。右大臣は中山等を慰諭し命を俟たしめた。
この抗議がどのようなものであったかについては、「野史台 維新史料叢書 雑4」(東京大学出版会 1975年刊)の「銘肝録」が詳しい。この書は伊勢松坂の人・世古恪太郎が自らの幕末維新の行動を通じて書き上げたものである。解題にもあるように、一部いかがわしい内容も含まれているものの、当事者の手記として評価が高い。参内した公卿達は番所、番所に集まり評議を行っていたが、武家伝奏の東坊城は不宣と憎しみ、国賊と罵り打殺せと叫ぶ者も出て騒乱とする。三条実萬は東坊城を呼び、所労と称す様に言い含め退出させた。その後公卿達は評議決し九条関白邸に嘆願連名書を持参し、聞き入れられなかったら本能寺に向かい堀田正睦に詰腹を切らせると息巻き、太刀を下げて徒歩で九条邸に押し掛けた。仰天している諸大夫を尻目に多勢で居丈高となった公卿は燭台火鉢等を打倒し、殿下への取次を求める。諸大夫が出て、「申立ての儀勘考の上修正するか決める」としたが、「こんな切迫した時に勘考の上修正するか決めるというようなことならば帰ることはできない」と云い出す。結局、「修正するように取り計らう」という言葉を得るまでは立ち退かず、邸内には数百人が充満していた。
「岩倉公実記」にはその後のことも記されている。翌13日に中山忠能等は参内し広橋光成に勅答案改作の諾否を確認したところ、光成から示された関白の命は以下の文であった。
申立之趣、関白殿ヨリ被レ及二言上一候所、不二無理一趣意ニ思召候間、御評議之上可レ改儀モ可レ被レ為レ在旨関白殿被レ命候事。
さらに13日には非蔵人57人の嘆願が発生している。以後、より下層の地下官人まで抗議活動は広がって行く。「如此皇国之大事雖賤臣卑識者蒙朝恩候面々難黙止」は、自らも参政できるという高揚感から溢れ出たものでもあろう。廷臣たちをこの集団示威行動に導いたのは、間接的には孝明天皇であり三条実萬であったが、指導したのは、議奏久我建通、大原重徳、中山忠能、正親町三条実愛、長谷信篤、大炊御門家信、五条為定そして岩倉具視等であったと考えられる。これはまた摂家対非摂家の階級闘争でもある。
この3月13日には有栖川宮熾仁親王が下記の建白書を提出している。
仰願クハ早ク勅を征夷府ニ賜リ、外賊ヲ征伐シ、四海無事ナラシメンコトヲ。地ノ利ハ人ノ和ニ不レ如。速ニ干城ノ諸藩ニ勅旨ヲ布告セシメ、士民心ヲ一致ニシ、努力厳戒シテ、天威ヲ万国ニ照耀シ、永世不易之洪基ヲ保護セシメンコトヲ奉レ願。 熾仁謹言。
確かに徳富蘇峰の言うとおり、これは明らかな攘夷論である。果たして主上はここまでの戦闘を前提とした攘夷を望んでいたのだろうか。
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