文書と写真・地図による「記憶」の再現

アーカイブ:2014年 12月

京都御苑 橋本邸跡

 

京都御苑 橋本邸跡(きょうとぎょえん はしもとていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 橋本邸跡  伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院の四世襲親王家と賀陽宮邸跡に次いで、公家邸跡を巡る。最初の橋本邸跡は京都迎賓館の西側、学習院の北側、御所の東側築地に面する位置にある。 橋本家は藤原北家閑院流、西園寺流の公家で西園寺公相の子西園寺実俊を祖とする。その創設は鎌倉時代末期に遡る。実俊は冷泉、橋本、入江などを称していたが、孫の橋本実澄の代から橋本の家名が定まる。6代目の橋本公国まで父子相続が続いたが、公国に跡継ぎがなかったため同じ西園寺家一門の清水谷家から橋本公夏が養子に入った。公夏は播磨国で出家し、彼の後は孫で養子の橋本実勝が継いだが、天正16年(1588)横死して家系は一旦中絶する。 江戸時代初… ►続きを読む

 

京都御苑 貽範碑

 

京都御苑 貽範碑(きょうとぎょえん いはんひ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 貽範碑 2014年10月8日撮影  京都御苑 賀陽宮邸跡 その3で記したように明治元年(1868)8月16日、朝彦親王は広島に流謫されている。奇しくも文久3年(1863)8月18日から丁度15年となる2日前の出来事であった。翌3年(1870)閏10月20日の見邸帰還までの凡そ2年間を広島で過ごしたことになる。人より疎まれていると感じていた親王が冤罪と訴えることなく広島に去って行った背景には、恐らく安政の大獄で感じ得たものがあったと思う。 賀陽宮邸跡には昭和6年(1931)に貽範碑が建てられている。貽範と難しい言葉であるが、貽は残や遺などと同じ「のこす」という意味を持つ。つまり模範となるものを将来の人々に贈り残… ►続きを読む

 

京都御苑 賀陽宮邸跡 その3

 

京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 賀陽宮邸跡 貽範碑  京都御苑 賀陽宮邸跡 その2が条約勅許と将軍継嗣問題の行方で紙数が尽きた。ここでは更に進めて朝彦親王を中心とした安政の大獄について書いてみる。 安政5年(1858)4月23日、彦根藩主・井伊直弼は大老が就任すると、翌24日には堀田正睦をハリスに会見させ条約調印の延期を申し込んでいる。そして25日に調印期日を7月27日まで延期することに成功する。6月朔日、幕府は養君一件を公式に発表するが、誰を世子としたかは明かさなかった。幕府閣僚たちが世論の反発を憚ったためであるが、内実は既に紀州藩徳川慶福に確定していた。 調印が延期された日米条約であったが、6月13日に下田港に入港し… ►続きを読む

 

京都御苑 賀陽宮邸跡 その2

 

京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 賀陽宮邸跡 2014年10月8日撮影  京都御苑 賀陽宮邸跡では安政年間に入るまでの朝彦親王の事蹟について書いてきた。ここでは親王の周囲に集まってきた有志の人々とそれが親王自身に与えた影響について考えてみる。  「野史台 維新史料叢書 雑3」(東京大学出版会 1975年刊)に所収されている「唱義聞見録」によれば、池内大学は四条通の商家に生まれ、儒学者で書家そして文人画家の貫名海屋に学ぶ。その学問詩文は人の知るところとなり、知恩院宮尊超親王に仕えるようになる。宮に従い関東に下り3年を過ごす。その後、家来を辞し浪人となり三条家や東坊城家に出入りし、縉紳の若殿の侍講となる。さらに朝彦親王の侍講と… ►続きを読む

 

京都御苑 賀陽宮邸跡

 

京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 賀陽宮邸跡  出水の小川の苑路を挟んで東側に貽範碑と賀陽宮邸跡の駒札が残されている。西側の烏丸通からこの一帯にかけて、かつての朝彦親王の邸宅があった。そしてその庭に榧の巨木があったことから賀陽宮と称したとある。親王は青蓮院門跡、天台座主をつとめ孝明天皇の信任厚く天皇を助けてきたが、その公武合体政策は尊皇攘夷派から敵視され、明治維新後は広島に移されたと駒札は記している。最後に貽範碑建設に名を連ねた梨本宮守正王が朝彦親王の第4王子であることを付け加えている。 中川宮朝彦親王が元治元年(1864)京都御所南方の現在の地に屋敷が与えられた際に宮号を中川宮から賀陽宮に改めている。しかし駒札の記述通り、明治… ►続きを読む

 

京都御苑 閑院宮邸 その2

 

京都御苑 閑院宮邸(きょうとぎょえん かんいんのみやてい) 2010年1月17日訪問 京都御苑 閑院宮邸  四世襲親王家の最後は、東山天皇の第6皇子・直仁親王が享保3年(1718)正月に創設した閑院宮。すでに2008年5月に京都御苑 閑院宮邸として一度書いているのでそちらもご参照下さい。 閑院宮の宮号は霊元上皇より賜ったものであるが、清和天皇の皇子・貞元親王の号であった閑院に由来する。宮家創設にあたっては新井白石の建議があった。すなわち、伏見宮・有栖川宮・桂宮の宮家がいずれも当時の天皇家とは遠縁になっていることより、皇統の断絶が危惧されるならば天皇の近親者によって新たな宮家を創設するべきという考えである。 閑院宮は第5代まで順調に父子相続が続く。第2代典仁親王は、寛保2年(1742)2月、桜… ►続きを読む

 

京都御苑 有栖川宮邸跡

 

京都御苑 有栖川宮邸跡(きょうとぎょえん ありすがわのみやていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 有栖川宮邸跡 現在の猿ヶ辻も元治元年までは有栖川宮邸内  有栖川宮は後陽成天皇の第7皇子・好仁親王によって寛永2年(1625)に創設されている。当初の宮号は高松宮で、親王の祖母・新上東門院の御所である高松殿に由来する。好仁親王は、福井藩主松平忠直の娘で徳川秀忠の養女となった寧子を妃とした。寧子は明子女王と女二宮の二女をもうけたものの嗣子はなかった。好仁親王は寛永15年(1638)に薨じたためしばらく空主となる。 正保4年(1647)11月、後水尾天皇の第8皇子・良仁親王が明子女王を娶り、高松宮第2代を継承している。良仁親王は花町宮と号した。しかし承応3年(1654)9月20日、後光明天皇が… ►続きを読む

 

京都御苑 桂宮邸跡

 

京都御苑 桂宮邸跡(きょうとぎょえん かつらのみやていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 桂宮邸跡  京都御苑内に残る親王家、摂関家とその他の公家の邸宅跡を見て行く。先ずは、伏見宮、有栖川宮、閑院宮、桂宮の四世襲親王家について。そもそも世襲親王家とは、江戸時代においては代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた上記の四つの宮家をいう。しかし世襲親王家のシステム自体の歴史は古い。院政期以降、天皇の子女で親王宣下を受けられない者には、臣籍降下をするか出家する道しかなかった。 しかし鎌倉時代に入ると、いくつかの宮家が新たに成立するようになる。第84代順徳天皇の皇子忠成王を祖とする岩倉宮、その兄弟の善統親王を祖とする四辻宮。第90代亀山天皇の皇子恒明親王を祖とする常盤井宮、第94代後… ►続きを読む

 

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