白峯神宮 その4
白峯神宮(しらみねじんぐう)その4 2010年1月17日訪問
白峯神宮 その3では、では白峯神宮の最初に祭神となった崇徳天皇について、鳥羽法皇との関係を中心に近衛天皇の崩御と後白河天皇の即位まで見てきた。この項では鳥羽法皇の崩御から保元の乱までの経緯、そして崇徳上皇の讃岐国への配流までを調べてみる。
保元元年(1156)5月初旬頃より鳥羽法皇は体調を崩していたらしく、同月21日には食事の摂れない症状を治療するため灸を施されている。しかし容態は回復することなく、日一日と悪化していく。そして6月1日には病気回復の祈祷を取り止め、臨終を迎えるための万歳の沙汰が取り計られるようになっている。既に法皇は自らの死を悟り、浄土往生を遂げるための行業に専念すること決している。この2日後の3日に崇徳上皇が鳥羽殿を見舞いに赴いている。しかし法皇への面会がかなわなかった。一般的には死の直前の息子の見舞いを法皇によって拒絶されたため空しく帰還したとされているが、河内氏は既に万歳の沙汰に入った法皇は俗人との交わりを断つために面会を断ったと見ている。人々は崇徳上皇が面会を果たせずに法皇の御所を後にしたのを見て、法皇の命がもう長くないことを感じたのであろう。
同月12日美福門院が出家し、21日には危篤状態に陥った。そして7月2日の午後に息を引き取った。鳥羽殿の中の安楽寿院御所で崩御された法皇の遺体は納棺され安楽寿院の塔(安樂壽院陵)に納められた。これは近衛天皇の安樂壽院南陵の北西、白河天皇の成菩提院陵の東にあたる。
病床についた鳥羽法皇は三条公教に執行を任せるなど生前から葬儀の手順を事細かに遺詔として指示していた。恐らく自分の最後の儀式を誰からも邪魔されること無く整然と執り行うことを望んでいたのであろう。そのためか葬儀に参列した者の数は意外なほど少なかった。当日の夜の参列者は僅か6名に過ぎなかった。これは上記の遺詔によって定められていたためである。翌3日も内大臣以下公卿・侍臣とあるがそれ程多くの参列者ではなかったようだ。時の関白である藤原忠通や多くの公卿を始め後白河天皇も参列していない。これは身内だけで葬儀を行うという法皇の意思の現われであったのかも知れない。
崇徳上皇は法皇の臨終に際し安楽寿院御所に駆けつけている。6月3日も対面できなかったので、恐らく生前は叶わないものの、臨終した後に父の遺骸に対面できると考えての行動であろう。しかし死後の対面も法皇の意を受けていた藤原惟方によって阻止され虚しく鳥羽殿を後にしている。これを法皇による崇徳上皇排斥と見るかどうかは判断の分かれるところである。一般的には、このような仕打ちを受けた崇徳上皇が憤り、後白河天皇に対して反抗の挙に出たとされている。もし上皇が憤ったとしても、その対象は鳥羽法皇であり後白河天皇でないことは明白である。つまり保元の乱の始まりとなる出来事は7月2日夜の鳥羽殿で生じた訳ではなかった。
後白河天皇は同月5日に京中の武士の取締りを検非違使に命じている。これは上皇と藤原頼長が謀反を起こすという風聞があったからである。これにより忠実・頼長そして崇徳上皇方の武士が京内に入ることが出来なくなった。そして初七日の法要が営まれた同月8日には忠実・頼長方が軍兵を動員し謀反を起こしたと認定し、頼長の邸宅である東三条殿を没収した上で頼長を没官に処している。実際のところ忠実・頼長方が兵を動かしたかを確認出来ないが、後白河方は防衛措置という名目で前関白と氏長者の父子に謀反罪を宣告している。河内氏は、摂関家の内訌、すなわち藤原忠通と藤原忠実・頼長との対立構造に対して後白河天皇が決着を着けるために行った措置と推測している。鳥羽法皇が最後まで何れを排斥するかの選択を行わなかった。その法皇が亡くなった直後に、後白河天皇が忠通と組んで忠実・頼長父子を追い落としたということであろう。天皇にとっては一触即発の状況にある摂関家に政治を委任することへの不安があったし、忠通にとっても弟に奪われた氏長者を奪還しないことには権力を掌握することが出来ないと考えていたであろう。このような謀反計画を口実にした排斥は、天皇と忠通の何れが主導となって行ったかは分からないが、両人が連携しなければ実行は不可能であった。ここまでは天皇と忠通の標的は忠実・頼長であり、崇徳上皇に対しては何等の武力的行為を施していなかった。あくまでも狙いは摂関家の秩序の回復であり、忠実と頼長の政治的引退と隠棲に追い込めれば全てが終結する予定であった。
崇徳上皇は法皇の臨終に駆けつけて以来、鳥羽殿の中の田中殿に引き籠もっていた。その上皇が7月9日夜、少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出、一旦洛東白河にある統子内親王の御所に入り、そして白河北殿に移るという行動に出た。この摂関家内での対立状況の中で、上皇自らが動くとは誰も考えていなかっただろう。そのため後白河方も武士を慌てて呼び寄せたが、彼等が集まったのは翌日の夜であった。宇治を発った頼長が白河北殿に入ったのも同じ10日の夜であった。蜂起計画に従った行動であれば、上皇と同じ9日の夜、あるいはその少し後でなければならない。事前に申し合わせがあったならば、かなり杜撰な計画と言わざるを得ない。
それぞれの陣営は新興の武家集団を引き込む。上皇方には、源為義、平忠正等がつき、天皇方には源義朝、平清盛等が加わる。しかし崇徳上皇の行動が突発的なものであったことから、忠実・頼長の従者である宇治の荘園の軍兵や大和国の武士を召集はしたものの動員することができていない。上皇方の兵力は貧弱なものであったことからも綿密な謀反計画に従った蜂起とは考えがたい。それでも崇徳上皇が守りづらい北白川殿での挙兵を決行したのには、全面的な武力衝突には至らないという楽観的な見通しがあったのではないだろうか?つまり太上天皇である自分に対して、天皇方も武力攻撃を仕掛けてくることなどないという思い込みがあったのかもしれない。河内氏は崇徳上皇が自らの復権の可能性を残すことを目的に、忠実・頼長父子の失脚を阻止するため亡き法皇の所有であった白河殿を占拠したと推測している。つまり武力衝突のための橋頭堡獲得のための占拠ではなく、朝廷内の公卿の参仕を取り付けるため、故法皇の権威を利用しようとした示威行動であった。
上皇が占拠した白河北殿の位置と規模は、京都市遺跡地図提供システムで遺蹟番号:417-08を検索すれば確認できる。鳥羽上皇が元永元年(1118)に造営した院御所で、現在の聖護院(蓮華蔵町・川原町)・東竹屋町・東丸太町に及ぶものである。1辺の長さが凡そ277メートルの正方形の敷地で、大路を挟んで南側には同じ規模の白河南殿があった。現在の丸太町通は丸太町橋で鴨川を渡り東山の鹿ケ谷通まで伸びるが、かつての春日小路(丸太町通)は鴨川を渡った直ぐ先で突き当たっていた。この突き当りの箇所が丁度白河北殿の西面の中間点にあたる。白河一帯の開発は藤原師実が藤原氏代々の別業を白河天皇に献上したことから始まる。承保2年(1075)6月13日、白河天皇はすぐに法勝寺造営に着手している。つまり摂関家と天皇の私的な関係から寺院や院御所の造営が始まり、やがて政治の中心となる街になっていった。
白河街区は平安京の二条大路を東に延長した二条大路末が東西方向のメインストリートとなり、その突き当りに法勝寺が建設された。そして法勝寺以外の六勝寺も、この二条大路末から展開するように計画された。この街区にある東西大路は二条大路末から北側に大炊御門大路、中御門大路があり、2つの大路間には冷泉小路末、春日小路末、勘解由小路末などの小路が各1本ずつ設けられた。南北の大路としては法勝寺西側の法勝寺西大路(車通)と今朱雀が造られた。南北の大路間には3本の小路が敷かれるなど平安京の条坊と類似しているが、上記の通り東西路は大路の間に1本の小路が造られるなど平安京とは異なる構造になっている。平安京の地割については「平安京提要」(角川書店 1994年刊)が詳しく解説している。同書では条坊遺構数99箇所を採用し、この調査結果を元に最新の造営尺と造営方位そして平安京の基点を求めている。造営尺 1尺=29.846668センチメートル、造営方位=マイナス14分27秒、朱雀大路心と四条大路南築地心の交点を平安京の基点とすると、その位置は平面直角座標系のX=マイナス110,862.52メートル、Y=マイナス23,233.31メートルとなる。
平安京の条坊地割については長年にわたる研究と数多くの発掘調査により上記のような数値に収束しつつある。白河街区の地割については福山敏夫や杉山信三等によって復元案が提唱されたが、道路などの地割を特定できる遺構の検出も少ないため不明な点が未だ多いようだ。「平安京提要」でも造営尺を1尺=30.1~30.3センチメートル、造営方位=プラス30分から50分の間の値と推定しているのにとどまる。また、濱崎一志氏の「都市空間の変遷に関する歴史的考察」(博士論文 1994年)においても、造営尺=0.3013メートル、造営方位を真北から東に0°30′~0°50偏っていたとほぼ同じ推定を行っている。
このように造営尺も造営方位も平安京造営時のものとは異なったものを採用しているということから、単純に平安京の大路小路をそのまま東に延長して白河街区を造ったのではないということが分かる。また、白河街区の一町の大きさは平安京と同じ40丈四方と考えられてきたが、発掘調査により40丈、55丈、32.5丈と規模や形状が異なる不整合な個所が多々発見された。
以上のような事柄から、平安京造営前後に白河の地割が行われたと考えることは難しい。その造営時期は法勝寺造営の頃が妥当であろう。また上記のように一町の規模と大きさが異なっていることや大路、小路の幅や位置に不整合がある点から、街区全体の地割の施工が法勝寺造営時に全て完成したとも考え難い。恐らくマスタープランはあったものの、寺院や御所の造営が進むにつれて暫時周辺の地割施工も行われたのであろう。さらに寺院や御所とその御堂の規模が四町、二町、一町と異なった規模の街区が生まれたのも各敷地の所有者の力関係によっていたと推測される。
北側を中御門大路、南側を大炊御門大路に面する四町規模の白河北殿は、保元の乱において後白河天皇方の攻撃により焼失する。平安時代末期には崇徳上皇の怨霊を鎮めるため粟田宮と崇徳廟が造営される。
もともと摂関政治が衰退し院政政治が興ってきたのと同時に白河街区の開発が始まったのであるから、平氏が台頭してくると徐々に白河の都市としての衰退が始まる。それでも南北朝の頃までは法勝寺などの寺院もその機能を保ってはいたが、応仁の乱の戦火が白河に及ぶと大半の寺院は遂に廃絶してしまう。そして大寺院や御所の跡は畑地や水田へ戻っていったため、道路や宅地の痕跡が洛中のように残らなかった。これが白河街区の全貌を解明する上での障害となっているようだ。
再び話を保元の乱に戻す。どのような目論見があったとしても、互いが武力を前面に据えて対峙したため武力衝突を回避する事はできなくなりつつあった。7月11日の深夜、天皇方の平清盛300騎、源義朝200騎、源義康100騎が白河殿の南、西そして北へと出撃した。第二派は源頼政、源重成、平信兼等の軍勢で、第一派と合わせて1000騎に達する攻撃部隊であった。この他にも天皇方には源頼盛率いる守備部隊も編成されており、若干召集に遅れがあったものの最終的には兵力でも上皇方を圧倒した。この兵力差を使い忠通は上皇方と交渉し武力を用いずに解決する道も模索したようだが、結局は源義朝と信西の突き上げを喰らい、攻撃部隊の出撃を認めざるを得なかった。摂関家の地位を以ってしても武士の暴発を抑えることが出来ず、以後の主導権を信西に握られる様になった。つまり、この7月11日が摂関家の衰退と武家の台頭を示す分岐点となった。
出撃した清盛や義朝等は11日の早朝から白河殿を攻め、凡そ4時間程度の戦闘によって白河殿は火が懸けられ陥落している。この戦闘で戦死した首領級の武士はいない。ただ藤原頼長が流れ矢に当たり3日後に死去している。重傷を負った頼長を始め上皇や武士達は炎上する白河殿より脱出している。恐らく逃げ口を作った上での攻撃であったのであろう。最初から上皇方の殲滅を目指したものではなく、白河殿から上皇を追い出すことが目的であったと考えるのが現実的である。これが保元の乱である。
藤原頼長は白河北殿を落ちる際に矢を受け奈良坂において客死する。頼長の父である忠実も罪に問われ流罪になりかかるが、忠通のとりなしで幽閉の後、洛北知足院で隠棲することとなる。これは肉親への情愛ではなく、忠実の所領が没収され摂関家の権益が失われることを防ぐための処置と見られている。このように乱の発端となった摂関家の内訌は忠通の勝利で終わり、摂関家の権益もある程度守ることができた。これに対して武家への処罰は苛酷というべき厳しさがあった。薬子の変の後公的には行われなかった死刑が復活し、源為義、平忠正、平家弘ほか有力武将は、一族もろとも斬首されている。為義の八男で勇猛な武将として知られていた源為朝も捕らえられ、伊豆大島に流刑となっている。この保元の乱によって源為義、為朝父子を始めとして清和源氏の多くが死罪・流罪となり、摂関家の武力低下は著しいものとなった。それが平治の乱から平家の台頭を許すこととなった。
この保元の乱の敗戦により崇徳上皇は讃岐に配流される。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。出家した皇嘉門院はそのまま京に留まることとなった。中宮という立場から上皇に随侍し身の回りの世話を行うことはできないのが通例であったようだ。いずれにしても讃岐への同行は、新たな権力の中枢に留まった藤原忠通が許すはずもなかった。
保元物語では崇徳上皇は仏教に深く傾倒し、五部大乗経の写本作りに専念したとしている。そして完成した写本を京の寺に納められることを願い、朝廷に献上した。しかし呪詛が込められていると疑われ、写本は崇徳上皇の元に送り返されている。この処置に激しく怒った崇徳上皇は、舌を噛み切り写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。崇徳上皇は二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164)46歳で崩御した。
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