梨木神社
梨木神社(なしのきじんじゃ) 2008/05/13訪問
廬山寺から寺町通に出て、南に下るとほどなく京都御苑の清和院御門が現れる。梨木神社の鳥居は清和院御門の手前右手にある。
梨木神社の祭神は三條実萬と三條実美の父子である。三條実美を祀る神社ということから明治以降に創建された新しい神社であることが分かる。梨木神社の公式HPによると明治18年(1885)に三條実萬を祭神として旧邸の地名 梨木町にちなみ、現在の地に梨木神社として創建された。三條実美が第二座の祭神として合祀されたのは大正4年(1915)の大正天皇即位式のことだった。
九条尚忠は幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環として和宮降嫁を積極的に推し進めた人物である。尚忠は日米修好通商条約の勅許を得るため、安政5年3月12日(1858年4月25日)に条約の議案を朝廷に提出した。これに対して岩倉具視・中山忠能等合計88名の堂上公家たちが条約案の撤回を求め、抗議の座り込みを行った。続いて、官務壬生輔世と出納平田職修より地下官人97名による条約案撤回を求める意見書が提出された。その結果、孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、20日には参内した老中 堀田正睦に対して勅許の不可を下し、条約の勅許を頑強に拒否することとなった。この公家によって行われた抗議行動が廷臣八十八卿列参事件と呼ばれた。
勅許を得られなかった堀田正睦は老中辞職に追い込まれ、九条尚忠も孝明天皇により関白職を罷免されなかったが、内覧職権一時停止という事実上の停職処分が行われた。
そして参内停止を命じられた三条実万と近衛忠煕も孝明天皇によって3月9日に参内の勅命が下されている。右大臣鷹司輔煕と権大納言二条斉敬の摂関家を勅使として派遣するという異例の処置によって政治的に非力であった清華家出身の三条を出仕させた。
しかし安政5年(1858)4月23日、江戸幕府の大老に就任した井伊直弼は、6月19日孝明天皇の勅許を得られぬまま、アメリカと日米修好通商条約に調印した。この後に朝廷の政治関与に対して行われた安政の大獄により、三条実万や廷臣八十八卿列参事件に関係した公家たちは処罰されることとなる。謹慎の処分を受けた実万は出家し、失意のうち安政6年10月6日(1859)に57歳で死去する。
三條実美は天保8年(1837)に生まれた。安政元年(1854)兄の三条公睦の早世により三条家を継いだ。安政の大獄で父実万が処罰されたころから尊王攘夷派の公卿として活動を始める。文久2年(1862)に勅使の1人として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促する。この年、国事御用掛となる。長州と密接な関係を持ち、姉小路公知と共に尊皇攘夷激派の公卿として幕府に攘夷決行を求めるため、孝明天皇の大和行幸を企画した。
しかし文久3年(1863)8月18日、公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩・会津藩らが連動した八月十八日の政変により朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移る、いわゆる七卿落ちとなった。病没した錦小路頼徳と生野の変で挙兵した澤宣嘉を除く実美ら五卿は、元治元年(1864年)の第一次長州征伐後に福岡藩へ預けられ、太宰府へと移送される。実美は3年間の太宰府天満宮の延寿王院で幽閉生活を送った。そして慶応3年(1867)12月の王政復古で赦免され、表舞台に復帰、成立した新政府で議定となる。
明治6年(1873)の征韓論をめぐる政府内での対立では、西郷隆盛らの征韓派と、岩倉具視や大久保利通らの征韓反対派の板ばさみになり、収拾に窮した実美は病に倒れた。これによって、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野することとなった。
実美は明治2年(1869)に太政官制が導入されて以来、名目上は常に明治新政府の首班として処遇されてきた。しかし明治18年(1885)に太政官制が廃止されて内閣制度が発足する時に内閣総理大臣に選出されたのは伊藤博文であり、三条実美は内大臣となった。内大臣府は三條処遇のために創られた名誉職であり、実美は内大臣として宮中にまわり、その後は天皇の側近としてこれを「常侍輔弼」することになった。明治24年(1891)55歳で死去する。
もともと梨木神社のあたりは明治までは公家屋敷が建ちならび、西側の京都御所との間の梨木通りは朝夕参内する公卿たちの参内道であった。国際日本文化研究センターに保管されている文久3年(1863)に作られた内裏圖に、仙洞御所の北、清和院御門び外側、二階丁通に面して三条殿と記され、黄色く塗られれた一画を見つけることができる。ここに幕末の三条邸があったのであろう。二階丁通の東側の道にはナシノ木丁と書かれているように見える。三条殿はこの二階丁通と梨木丁通に面した敷地であった。この梨木丁通は現在の梨木通よりは西側にあったが、北は石薬師御門から南は仙洞御所があるため清和院御門までの短い通りだった。なお、「ヌクレオチド」さんのHPには、梨木通の名称は京都府地誌に通り沿いの梨木町内に梨の大木があったことによると記されている。今は残っていないが、かつてこの地は梨木町と呼ばれていたことが分かる。
また京都迎賓館建設のため、平成11年(1999)に財団法人 京都市埋蔵文化財研究所によって行われた発掘調査 「平安京左京北辺四坊-京都御所東方公家屋敷群跡-」から三条殿の北隣の今城殿の様子が分かる。
明治2年(1869)天皇が東京へ移ると、多くの公家は天皇とともに東京に移り住むこととなり、御所周辺の施設や公家屋敷も取り壊され荒廃していった。明治10年(1877)に京都に還幸された明治天皇は、京都府に御所の保存・旧慣を維持する御沙汰を下した。京都府は、直ちに屋敷を撤去し、外周石垣土塁工事、苑路工事を行い、樹木植栽等の内裏保存事業を開始した。そして明治16年(1883)当初の予定より早くに完了している。御苑の管理が京都府から宮内省に引き継がれた後も整備は続けられ、ほぼ現在の京都御苑の姿が整ったのは、大正大礼の行われる大正4年(1915)のことであった、。
これらのことから現在の梨木神社の敷地は三条殿とは一致しないが京都御苑に隣接する地に創建されたことが分かる。
梨木神社は明治以降に創建されたため、当然延喜式による社格はない。
官社は祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社である。官社はさらに官幣社と国幣社に分けられ、それぞれに大・中・小の格が定められている。官幣社は神祇官が祀る神社、国幣社は地方官が祀る神社と定義された。主として官幣社は二十二社や天皇・皇族を祀る神社など朝廷にゆかりのある神社、国幣社は各国の一宮を中心に列格された。
後に、当時の国体に功績を挙げた人物を祀る神社など官幣社にも国幣社にも分類できない官社として別格官幣社の制度が導入された。明治5年(1872)に楠木正成を祀るために創建された湊川神社が初の別格官幣社に列格した。また靖国神社もその成立の過程から別格官幣社とされている。待遇の上では官幣小社と同じとされた。
一方の諸社は府県社・郷社・村社・無格社に分類される。府県社は府県から奉幣を受け、郷社は府県または市から奉幣を受けた。村社は郷社に付属するものとして設定され、無格社は、法的に認められた神社の中で村社に至らない神社であり、社格を有する神社と区別するために設けられた呼称である。
社格の順位は下記のとおりである。
官社 官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社
諸社 府社=県社=藩社>郷社>村社>無格社
伊勢神宮のみ、国家神道の頂点に位置する神社として位置づけられているため、格付けはなされていない。
以上のような近代社格は第二次世界大戦後、政教分離によって廃止されたが、今日でも「旧社格」などの名称で神社の格を表すのに用いられている。
梨木神社の境内は、梨木通と寺町通に挟まれ南北に細長い。そのため正面の石鳥居から、二の鳥居、神社門、拝殿、本殿と一直線上に並ぶ。手洗舎に使われている染井は、祐井、縣井とともに御所の三名水であるため、水を汲みに来る人が絶えない。宮中の女官が衣服の染物用に使ったと言われる。なお京都御苑側にも染殿井の遺構がある。こちらは摂関政治の礎を築いた藤原良房の娘明子の染殿院に井戸を復元したものである。
ちなみに明子は文徳天皇の后であり、子は後に第56代清和天皇となる。陽成天皇に譲位した後、この地に移られ清和院と称された。現在も残る清和院御門はこれによっている。
梨木神社◆1
ウィキペディアを見ると萩の宮とも呼ばれてるらしいです。 なんだか萩って難しいです。