仙洞御所 その2
仙洞御所(せんとうごしょ) 2008/05/13訪問
仙洞御所の北池に続き南池とともにこの庭園を造営させ、おそらく自分の好みに変更させた後水尾上皇と徳川幕府について書いていく。
しかし慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開くと情勢に変化が出た。徳川幕府は、京都を離れ東の江戸で権力基盤の形成を行った。室町幕府以降秀吉まで政権を京都あるいは大阪に置き朝廷の距離をなるべく近づけていたのに対して、徳川幕府は一定の距離を朝廷との間にとる政策に変更してきた。そして権威の抑制をはかるため、朝廷に対する干渉を強め、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となった。
一旦は出奔するが、再び都へ戻り公家仲間を誘って女官と不義密通を重ねていた。これが後陽成天皇の寵愛深い広橋局を巻き込んだ大人数の乱行となっていった。慶長14年(1609)7月後陽成天皇の知るところとなった。激怒した天皇は全員を死罪を命じたが、公家の法には死罪は無かったため、それは叶わなかった。
慶長10年(1605)に将軍職を辞し駿府城で大御所として幕府の制度作りに勤めていた徳川家康のもとにもこの情報は伝えられた。既に公家に対する捜査権も掌握していたため、京都所司代 板倉勝重とその三男重昌が調査に当たることとなった。しかし調査が進むにつれ、多くの公家が関わった事件であることが明らかになり、全員に断罪を下すことは世情の混乱を招く恐れを懸念する事態になっていった。後陽成天皇の生母 新上東門院からも寛大な処置を願う歎願が出され、勝重は駿府の家康と諮り、公家および女官達に対する処分を死罪2名、遠島10名、恩免2名という処分を下した。日向に潜伏していた猪熊教利は捕らえられ、京都へ護送され歯科医の兼安備後とともに斬首に処せられた。
自らの全員死罪ではなく、幕府の処分案に同意せざるを得なくなった後陽成天皇は、これ以降しばしば譲位を口にするようになる。もともと後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を跡継ぎとしていた。しかし秀吉が亡くなるとこれを嫌って自らの弟である八条宮智仁親王への譲位を望むようになる。智仁親王は家領の下桂村に別業として桂離宮を造営する人物である。これは豊臣家との距離を置くために行ったとも考えられるが、智仁親王もまた秀吉の猶子となった経歴があるため、幕府は難色を示した。関ヶ原の戦いで家康が勝利した後、良仁親王を仁和寺で出家させ、慶長16年(1611)第3皇子政仁親王に譲位し、仙洞御所へ退く。
即位した2年後の慶長18年(1613)に公家衆法度が制定される。これは先の猪熊事件の再発防止を図るために行われたもので、公家統制に踏み込む第一歩となった。この5か条の内容は、第一条に公家が家々の学問に励むのを勤みとすること、第二条に法令に背く者は流罪となることを示し、第三条に禁裏での勤務励行を、第四条、第五条はかぶき者的な行為の禁止を求めたものであった。ただし運用に関しては五摂家並びに武家伝奏より幕府に対して申し出があった場合に限り、幕府の沙汰として実施に及ぶということに留めておいた。つまり朝廷側から幕府に申し出ない限り効力を発揮しない法律であった。またこの時、紫衣事件の元となる勅許紫衣之法度と大徳寺妙心寺等諸寺入院法度も制定されている。
慶長20年(1615)5月8日に大阪城が落城し、豊臣氏が滅亡する。同年7月禁中並公家諸法度が二条城において大御所 徳川家康、将軍 秀忠、前関白 二条昭実の連署をもって公布された。これは家康が金地院崇伝に命じて起草させたもので、これにより天皇までを包含する徳川幕府の基本方針を確立した。太古より天子は法を越える存在であるとされ、大宝律令、養老律令をはじめとする公家政権の法制においても天子に関する条文は存在しなかった。これによって初めて法の枠組みの中に入れられてしまったのである。
元和2年(1616)家康が亡くなるが、幕府と朝廷の関係は変わらない。家康の生前から計画されてきた秀忠の5女和子の入内が秀忠によって受け継がれた。お与津御寮人事件が発覚するなど紆余曲折があったが、元和6年(1620)6月に後水尾天皇の女御として入内する。元和9年(1623)に女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。しかし和子との間に出生した2男5女のうち、2皇子はすべて早世している。 寛永3年(1626)には秀忠・家光が上洛し後水尾天皇の二条城行幸が行われる。この時小堀遠州によって行幸御殿と二の丸庭園が造営された。
この事件とともに、徳川家光の乳母である春日局が無位無官で朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行いに耐えかねた天皇は寛永6年(1629)11月、二女の興子内親王に譲位した。病気の天皇が治療のために灸を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために退位して治療を受けたと言われているが、天皇が灸治を受けた前例もあり、譲位のための口実であるとされている。
この時、後水尾院はまだ33歳であった。以後、霊元天皇までの4代の天皇の院政を行う。その後も院と幕府との確執が続く。院政の否定は徳川幕府の基本政策であったが、後水尾院の院政を認めざるを得なかった背景には東福門院(徳川和子)が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したことと徳川幕府のから東福門院に対する配慮があったと考えられる。また和子との間に生まれたの興子内親王に譲位することにより、古代より「天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない」という不文律を盾に、徳川家の血筋を皇統に入れること防いだ。そして後光明天皇以降の3代の天皇は和子以外の女御や典侍から生まれた皇子を据えた。また慶安4年(1651)後水尾院は突然落飾し法皇となる。その半月前に徳川家光が没していたため、幕府は二重の驚きを隠せなかったようだ。おそらく幕府への当て付けというか、幕府の制限を受けず自由に動けること示したのだろう。
幕府からの多くの干渉を受けたにも関わらず、最後まで抵抗の姿勢を貫き、朝廷の威厳を護ったとも言える。
延宝8年(1680)85歳の長寿で崩御し、泉涌寺内の月輪陵に葬られた。後水尾院と寛永寛文文化サロンについてはまたいずれの場所で書くこととする。
仙洞御所の北庭は自然を表現したものであるとすれば、南池はもう少し人の手をかけて自然を模していることが分かる庭となっている。順路では、藤棚に覆われた石橋の八ツ橋を渡り、中島経由で再び東岸に出ることとなる。ここでは八ツ橋を含め意匠の異なる4つの橋と鷺の森の南にある雄滝を見ることが出来る。
八ツ橋については、「京の名庭散歩」の名庭37号 仙洞御所庭園の北池(http://www003.upp.so-net.ne.jp/hata0913/niwa-4.htm : リンク先が無くなりました )の中で、
「明治28年頃、板橋から石橋にかわり、藤棚もその頃に作られた。」
という記述を見かけた。雁行した橋の形状から、伊勢物語の九段その一で在原業平が杜若の歌を詠んだ三河の国八橋に架けられた橋に由来していることが分かる。現在の我々の八ツ橋のイメージの大部分は尾形光琳の八ツ橋図屏風によって出来上がっているのではないだろうか。そうすると欄干のある石橋は少しイメージから離れているようにも思える。
そういう意味でも中国風にも見えるこの石橋は藤棚を含めて、他の橋と比較しても明らかに異なった存在であり、この庭にとって必要でないもののように思えてならない。
鷺の森の南にある幅80センチ、高さ180センチの雄滝はこの仙洞御所の庭園の中で唯一の動きのあるものでもある。今回は残念ながら鬱蒼とした樹木の中、気がつかずに通り過ぎてしまったようだ。列についていくだけでなく、もう少し注意深く見ていかなければならないと一人で反省。中島から東岸に渡る石橋は反橋となっており、左手に切石で作られた土佐橋、右手に池中の葭島越しに醒花亭が見える絶好のポイントとなっている。
そのまま東岸を歩いていくと醒花亭の前に出る。その名は李白の詩から取られたもので、庭園の最も南に位置する茶亭である。すでに現存しないが止々斎、鑑水亭とともに庭園内にあった3つの茶亭の一つである。
醒花亭から南池に目を移すと、緩やかな曲線で八ツ橋まで続く洲浜が現れる。楕円形の平たい粒のそろった石が11万1千個並べられていると聞く。この石については、文化14年(1817)光格天皇が恵仁親王(仁孝天皇)に譲位し、上皇となり仙洞御所に入られる時、当時京都所司代であった小田原藩主大久保忠真が、湯河原町吉浜の海岸から、3寸から4寸の長楕円形の石を米一升与えて集め、真綿に包んで2000俵を海路京都まで運び献上されたと伝えられている。このことから一升石の名が付けられたと「webゆがわら」のHP(http://www.yugawara.or.jp/maku_koen.htm#po : リンク先が無くなりました )で紹介されている。
万葉の歌人 柿本人麻呂が祀られてる柿本社の前を通り、再び洲浜に沿って直線に伸びる桜の馬場と呼ばれる道に出る。そのまま道なりに進むと再び又新亭の前に戻る。ここまでおよそ1時間の参観である。
「仙洞御所 その2」 の地図
仙洞御所 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 大宮御所 | 35.0224 | 135.765 |
02 | ▼ 仙洞御所 北池 | 35.022 | 135.7661 |
03 | ▼ 仙洞御所 鷺の森 | 35.0216 | 135.7665 |
04 | ▼ 仙洞御所 もみじ橋 | 35.0216 | 135.7662 |
05 | ▼ 仙洞御所 八ツ橋 | 35.0212 | 135.7662 |
06 | ▼ 仙洞御所 南池 | 35.0213 | 135.7664 |
07 | ▼ 仙洞御所 土佐橋 | 35.0214 | 135.7667 |
08 | ▼ 仙洞御所 中島 | 35.021 | 135.7664 |
09 | ▼ 仙洞御所 葭島 | 35.0208 | 135.7665 |
10 | ▼ 仙洞御所 洲浜 | 35.0206 | 135.7662 |
11 | ▼ 仙洞御所 醒花亭 | 35.0202 | 135.7663 |
12 | ▼ 仙洞御所 柿本社 | 35.0208 | 135.7659 |
13 | ▼ 仙洞御所 又新亭 | 35.0217 | 135.7654 |
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