吉村寅太郎寓居址
吉村寅太郎寓居址(よしむらとらたろうぐうきょのあと) 2008/05/15訪問
木屋町通三条上るの武市瑞山先生寓居跡の碑が建つ金茶寮の南側隣地に、吉村寅太郎寓居址の碑がある。1階部分が道路から少しセットバックし、前庭のように設えられている中に置かれているため、少し見づらい状況になっている。また何故だか分からないが、狸の焼き物も置かれている。 この碑も含めて「吉村寅太郎」と書かれたものを多く見てきた。しかし自ら虎太郎という文字を多用していたと言われているので、ここでは虎太郎という表記を使う。
吉村虎太郎は天保8年(1837)土佐国高岡郡芳生野村(現在の高知県高岡郡津野町)の庄屋・吉村太平の長男として生まれる。12歳で父の跡を継いで北川村の庄屋となり、後に須崎郷浦庄屋となる。土佐の三奇童と呼ばれた間崎哲馬は、江ノ口村小川淵で私塾を開いており、虎太郎はここで間崎から学問を学んでいる。同門には中岡慎太郎や能勢達太郎、上田楠次、三瀬八次、島本審次郎らがいた。さらに虎太郎は武市半平太から剣術を学んでいる。既に尊攘思想に傾倒するようになっていたことは明らかである。
文久元年(1861)武市半平太が土佐勤王党を結成すると姉の夫である上岡胆冶とともに加盟する。しかしどのような理由からか分からないが、虎太郎の名前は加盟者名簿から削除されている。文久2年(1862)2月虎太郎は時勢探索ということで長州に向かっている。武市の命を受け、久坂玄瑞に手紙を渡し、筑前国で平野国臣とも出会っている。この時、虎太郎は平野から、薩摩藩の島津久光の上京とこれに合わせた浪士たちによる挙兵計画を聞く。安政5年(1858)28代藩主島津斉彬の死後、久光の長男である島津忠義が29代藩主となっている。久光は藩主の父、すなわち国父という立場で薩摩藩の実権を握っていたため、久光の上京は薩摩藩の中央政局への積極的な参加ということとなる。虎太郎は急ぎ土佐へ戻り、土佐藩もこれに賛同することを訴える。土佐勤王党の主宰・武市半平太の考えは挙藩勤王であり、虎太郎の意見を退けた。文久2年(1862)3月6日虎太郎は宮地宜蔵ら少数の同志とともに脱藩を決行する。ほぼ同じ時期に坂本龍馬も土佐藩を脱藩している。土佐勤王党の那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵らが吉田東洋を暗殺したのが文久2年(1862)4月8日であるので、虎太郎や龍馬らの脱藩後に生じた事件となる。
虎太郎は宮地とともに長州の久坂玄瑞を頼り、海路大坂へ入り、長州藩邸で越後国の志士本間精一郎と合流している。上方には平野国臣、真木和泉、清河八郎、藤本鉄石ら有力な浪士たちが集結し、島津久光の上洛を待っていた。しかし久光の上洛は公武合体と一橋慶喜の復権を目的としたものであり、平野達が望んでいた九条尚忠と京都所司代酒井忠義を討ち倒幕挙兵を行うためのものではなかった。これら浪士達と有馬新七ら薩摩藩精忠組の突出の動きを知った久光は大山綱良、奈良原繁、道島五郎兵衛らに鎮撫を命じた。文久2年(1862)4月23日伏見の寺田屋で過激尊攘派藩士の粛清が行われた。 翌日、虎太郎と宮地は捕えられ薩摩藩邸に誘致され、4月30日に土佐藩に引き渡された。平野国臣、真木和泉、藤本鉄石らも同じく、それぞれの藩に引き渡されている。しかし引取りを拒絶された浪士達の末路は悲惨だった。同年5月1日中山家家臣・田中河内介父子は薩摩に向かう船の中で殺害され、海に投げ捨てられた遺骸は小豆島に漂着したと言われている。また但馬多気郡出身・千葉郁太郎、肥前島原出身・中村主計、秋月藩士・海賀宮門は、5月7日薩摩に上陸した日向細島で斬殺されている。このあたりの経緯は桐野作人氏の南日本新聞に書かれたエッセーさつま人国詩(http://373news.com/_bunka/jikokushi/56.php : リンク先が無くなりました )に詳しく説明されているのでご参照ください。 虎太郎が獄囚を解かれたのは文久2年(1862)12月のことであった。文久3年(1863)藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。同年6月には虎太郎は松本奎堂、池内蔵太らとともに長州へ下り、藩主毛利慶親、世子定広に謁見し上京を説いた後、7月には京へ戻っている。
文久3年(1863)8月13日大和行幸の詔が発せられる。もともと前年の文久2年(1862)12月孝明天皇は攘夷の勅書を将軍徳川家茂に授け、家茂は明年3月には攘夷を決行する旨を奉答している。そして文久3年(1863)3月将軍家茂は上洛し、孝明天皇は攘夷祈願のため上下両賀茂社と石清水八幡宮へ行幸している。幕府は再度、攘夷の期限を5月10日としたため、長州藩は下関海峡を通過するアメリカ船を砲撃し、下関戦争を引き起こしてしまう。それにも関わらず幕府は攘夷に踏み出さないため、三条実美ら長州派公卿によって孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔勅が発せられた。
吉村虎太郎は松本奎堂、藤本鉄石、池内蔵太ら攘夷派浪士と共に、大和行幸の先鋒となるべく大和国へ赴くことを決め、翌14日中山忠光を大将とする天誅組を結成する。中山忠光は権大納言中山忠能の七男で、この時まだ18歳の青年公卿であった。姉の中山慶子は孝明天皇の典侍となり明治天皇を産んでいることから、明治天皇の叔父に当たる人物である。土佐脱藩18人、久留米脱藩8人からなる38人は大坂から船を出し、堺へ向かう。
狭山藩で銃器武具を献上させ、8月17日に幕府天領の五条代官所(現在の奈良県五條市)を襲撃し代官鈴木源内ら5人を斬り、五条天領を「天朝直轄地」とすると布告を行った。
天誅組の過激な行動を危惧した三条実美は平野国臣を遣わし、自重を促そうとした。しかし八月十八日の政変が起こり、三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた。この政局の大転換により大和行幸の詔自体が偽勅とされ、天誅組は完全に孤立してしまう。国臣も急ぎ京へ戻るが、既に京の攘夷派は壊滅状態になっていた。それでも天誅組に呼応するため、但馬国の志士・北垣晋太郎と連携して、生野天領での挙兵を計画する。ちなみにこの北垣晋太郎は後に北垣国道と名を改め、京都府知事時代に田辺朔郎を抜擢し琵琶湖疏水を完成させている。 天誅組は幕府の追討軍に対応するため、尊王の志の厚い十津川郷士に募兵を行い、1000人を超える規模の軍となる。8月26日兵糧の差し出しを断った高取藩に対して、高取城攻撃を仕掛けるが、藩兵200人程度の小藩に惨敗し、天の辻の本陣に敗走することとなる。
9月に入ると周辺諸藩の大軍の攻撃を受けるようになり、中山忠光を逆賊とする詔が下ると遂に十津川郷士も離反していく。天誅組は脱出経路を探るように山中を彷徨し、9月24日に鷲家口(現在の奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と最後の交戦に入る。主将の中山は辛うじて脱出するが、総裁の松本奎堂、藤本鉄石らほぼ全員がここで戦死するか捕縛される。味方の銃撃を受けて負傷していた吉村は一行から遅れ、駕籠に乗せられて運ばれていたが、9月27日に津藩兵に発見され射殺された。享年27。
天誅組
主将 :中山忠光
総裁 :藤本鉄石、吉村寅太郎、松本奎堂
御用人 :池内蔵太
監察 :吉田重蔵、那須信吾、酒井伝次郎
銀奉行 :磯崎寛
小荷駄奉行:水郡善之祐
志士たちは京都霊山護国神社に祀られている。
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