アーカイブ:2009年
洛中の町並み その5 三条通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 三条通 2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 三条通は姉小路通の1本南側の通りで、現在では東は山科から西は嵐山まで続く全長約15キロメートルの通り。通りの原型は平安京の三条大路である。江戸時代は三条大橋が東海道の終点となるため、東国からの旅人は三条大橋から続く三条通を歩き洛中に入ることとなる。明治時代に入ると近代建築が相次いで建設され、京都の文明開化をリードしてきた。今もこれらの近代建… ►続きを読む
洛中の町並み その4 姉小路通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 姉小路通 亀末廣 2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 姉小路通は御池通の1本南側の通りで、東は木屋町通から西は西大路通の先まで続く全長約3.7キロメートルの通り。通りの原型は平安京の姉小路である。御池通や三条通に比べると静かな町並みではあるが、町家造りの老舗が多い。 姉小路通 鳩居堂 河原町通から姉小路通に入る。本能寺の南を通り、寺町通に出る。道は鳩居堂の角で北側にクランクす… ►続きを読む
洛中の町並み その3 富小路通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 富小路通 2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 麩屋町通の1本西側の通りが富小路通で、丸太町通から六条通までの約2.8キロメートル。もともとの平安京の富小路を麩屋町通と呼ぶようになり、その西側の道を富小路通とするようになった理由は良く分からない。江戸時代には鍛冶屋、目貫小柄屋、白皮屋、塗師などの職人衆が多く住んでいたと言われている。 富小路通 天ぷら 吉川 富小路通 天ぷら … ►続きを読む
洛中の町並み その2 御幸町通・麩屋町通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 御幸町通 なが田 2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 寺町通の1本西側の通りが御幸町通である。北は京都御苑があるため丸太町通から始まり、南は五条通りまでの全長約2.4キロメートル。寺町通と同様に天正18年(1590)豊臣秀吉が着手した京都大改造によって生まれた通である。 御幸町通 なが田 姉小路通の角にある「なが田」はデリカテッセンとサンドイッチを販売する店である。建物の造り… ►続きを読む
洛中の町並み 寺町通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 寺町通 商店街の中の錦天満宮 2日間、京都の中心部に宿泊できたため、旅館の周りの町並みを見ることができた。まずは南北に四条通と御池通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 寺町通は河原町通の1本西側の通りで、北は鞍馬口通から南は五条通りまでの全長約4.6キロメートル。通りの原型は平安京の東端を南北に走る東京極大路である。天正18年(1590)豊臣秀吉が着手した京都大改造で、洛中の寺院をこの通りの東側に集めたことからこの通りに寺町の名が付いた。 廬山寺や梨木神社、そして新島襄旧邸などがこの通… ►続きを読む
炭屋旅館 その4
炭屋旅館(すみやりょかん) 2008/05/14訪問 炭屋旅館 夕食01 炭屋の食事は、素材も料理方法もそして器を含めて、非常に伝統的な懐石の範囲の中で創られたものという印象が残っている。懐石の形態をとりながら洋風の素材を用いたり、あるいは和食と異なる料理方法で作られたものを輪食器に装うこともなく、非常に忠実な懐石料理であることは、初心者の私にも伝わってきた。妻もお茶事に出される懐石料理を思い出したと言うことなので、おそらく私たちの得た印象は作り手の意図したものに近かったと思う。その反面、あまり驚かされるような料理も現れず、淡々と夕食が進んで行き、気がついたらデザートを迎えていたという… ►続きを読む
炭屋旅館 その3
炭屋旅館(すみやりょかん) 2008/05/14訪問 炭屋旅館 安宅 主室の床の間方向 主室は8畳間、右手窓側に床の間が造られている。畳敷きの床の間には掛け軸が掛けられ、丸い盆の上に載せられた花器にはお花が生けられている。床の右側は床脇となっており、棚が設えてある。この棚の前に置かれた台の上に電話機がある。床脇の棚の右手にはクロークとなっており、浴衣が用意されている。床の間の正面の壁の腰には、文字の書かれた紙が貼られている。近づいて読むと安宅の謡本であることが分かる。小舞を組んだ窓の下から始まり、床の間と床脇を除いてほぼ主室の中を一周している。もともと長押のない部屋であるため、これを除… ►続きを読む
炭屋旅館 その2
炭屋旅館(すみやりょかん) 2008/05/14訪問 炭屋旅館 安宅 次の間から客室ドアを眺める 本日泊まった部屋は「安宅の間」、能の安宅から名付けられた客室である。玄関から客室をつなぐ廊下を進むと中庭が現れる。さらに進むと照明も明るく、新しく作られた部分に入る。安宅の間はこの増築部分の1階にある。 炭屋旅館 安宅 客室ドア 炭屋旅館 安宅 炭屋旅館 安宅 部屋の開き戸を開けると、板の間の踏込みがある。正面の壁に和風の照明器具が設けられ、比較的明るい。天井は部屋内方向へ渡された丸材の竿縁天井となっている。さらに細い角材を横方向にも流しているため、狭い空間ではあるが密… ►続きを読む
炭屋旅館
炭屋旅館(すみやりょかん) 2008/05/14訪問 炭屋旅館 玄関 錦市場を出て、御幸町通を北上し、三条通に入る。三条麩屋町通の角にある あぶらとり紙のよーじや三条店をのぞく。新しいお店と思っていた よーじやも明治37年(1904)に六角御幸町あたりに国枝商店という屋号で店を開いたのが始まりと聞く。この数年の人気の盛り上がりは別としても長く女性に愛されてきた店であることは確かである。 炭屋旅館 三条通からの眺め 炭屋旅館 麩屋町通の外観 炭屋旅館 玄関 三条通の町並みを眺めた後、本日の宿へと麩屋町通を南に入る。 俵屋や柊屋と比較して、炭屋の旅館としての歴史はそれ… ►続きを読む
錦市場 その2
錦市場(にしきいちば) 2008/05/14訪問 錦市場 有限会社 魚力 焼き魚 錦市場は鎌倉時代以降は商工業街として発展した。室町時代には、酒屋をはじめとする多種多様な職種が存在した。しかし文明年代(1469~1486)に応仁の乱により錦小路も衰退する。再興されたのはおよそ100年後の天正年代(1573~1593)のことであった。 錦小路が魚鳥の市場となったのは豊臣秀吉の天下統一後と考えられている。この地の人口が多いこと、御所への納入が容易であったこと、そして清く冷たい地下水が涌き出ることが、この地に市場が生まれるもととなっている。 錦市場の公式HPによると本格的な魚市場となったのは… ►続きを読む
錦市場
錦市場(にしきいちば) 2008/05/14訪問 錦市場 打田漬物商工業株式会社 京漬け物 四条堺町通の市原平兵衞商店から四条通を越え、堺町通を北に進むとすぐに京の台所、錦市場のアーケードに当たる。昭和38年(1963)に京都錦市場商店街振興組合が設立し、現在では寺町通から高倉通までの全長390メートルの道沿いに生鮮食品を中心とした約130の店舗が並ぶ。 東側は寺町に始まり、西は大宮西入るまでの部分に道が作られたのは延暦年代(782~806)のことだと言われている。もと具足を売る店が並んでいたため、具足小路と呼ばれていた。その後訛って、くそ小路と呼ばれたこともあったらしい。 宇治拾遺… ►続きを読む
市原平兵衞商店
市原平兵衞商店(いちはらへいべえしょうてん) 2008/05/14訪問 市原平兵衞商店 四条烏丸の交差点から四条通を徒歩で東へ進む。堺町通を南に曲がった右手に市原平兵衞商店がある。ここへは何回も訪れているにもかかわらず、毎回柳馬場通から高倉通の間を迷って歩くこととなる。どうも四条通の曲がり角のイメージが記憶に残っていないようだ。 市原平兵衞商店は、創業明和元年(1764)のお箸の専門店である。かつては御所に出入りしていた御箸司であり、今でも一流料理人や料亭から支持される老舗である。東京の百貨店の催事でも何回か来ているため、東京でもある程度名前が知られていると思う。 店の外観はごくごく… ►続きを読む
唐長
唐長(からちょう) 2008/05/14訪問 唐長 ポストカード 妙心寺の北総門の前にある市バス 妙心寺北門前停留所から市バス26号に乗車し、四条烏丸へ向かう。一条通を東に進み、馬代一条で南に折れる。市立大将軍小学校と京都府立医大の間を再び東に進むと西大路通に出る。西大路通を右折して四条通まで南下する。四条通を東に進み、四条烏丸で市バスを下車する。妙心寺を出たのが16時前だったので、およそ30分で四条烏丸についたこととなる。 唐長 説明書 唐長 四条烏丸の交差点の東南角に複合商業施設cocon烏丸がある。この京都のオフィス街の中心地に丸紅ビルが建設されたのが昭和13年(1… ►続きを読む
妙心寺 退蔵院
妙心寺 退蔵院(みょうしんじ たいぞういん) 2008/05/14訪問 妙心寺 退蔵院 余香苑 妙心寺の塔頭である退蔵院は三門の西側にある。 応永11年(1404)越前の豪族 波多野重通は、深く帰依していた妙心寺第三世住持 無因宗因を開山として千本通松原に退蔵院を創建する。 応永6年(1399)守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こし、堺に籠城するという応永の乱が起こる。3代将軍足利義満は有力守護大名の弱体化と将軍家への権力の集中を図るため、守護大名の相続問題への介入や討伐を積極的に行ってきた。応永の乱により大内義弘は討死、大内氏は政治的影響力を失うこととなった。妙心寺第6世住… ►続きを読む
妙心寺
臨済宗妙心寺派大本山 妙心寺(みょうしんじ) 2008/05/14訪問 妙心寺 三門 仁和寺の二王門を潜り、きぬかけの道に出る。龍安寺方向にきぬかけの道を戻ると、仁和寺の東南の角で一条通に当たる。この一条通を東に進むと京福電鉄北野線の踏切と妙心寺駅に出会う。そのままさらに進むと右手に妙心寺の北総門が現れる。 妙心寺 仏殿 妙心寺は臨済宗妙心寺派大本山で山号は正法山。 平安京の北西部に12町の敷地を占め、三門、仏殿、法堂などの中心伽藍と共に山内塔頭36箇院を持つ大寺院である。この他にも龍安寺などの境外塔頭10箇院を加え、現在妙心寺の塔頭は46箇院に及ぶ。また日本の臨済宗寺院 約6… ►続きを読む
仁和寺
真言宗御室派総本山 仁和寺(にんなじ) 2008/05/14訪問 仁和寺 御殿北庭 再び北野天満宮の一の鳥居を潜り、今出川通に出る。北野天満宮前停留所から市バス10号に乗り、10分ほどで6つ先の御室仁和寺に着く。 仁和寺は真言宗御室派総本山で山号は大内山。平成6年(1994)に世界遺産に登録される。 仁和寺 二王門 仁和寺 参道と中門 仁和寺 五重塔 仁和寺 五重塔 相輪部分 仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886)に建立が始められた。 北野天満宮の項で触れたように、元慶8年(884)藤原基経によって陽成天皇が廃位された後に光孝天皇は即位する。天長7年(83… ►続きを読む
北野天満宮
北野天満宮(きたのてんまんぐう) 2008/05/14訪問 北野天満宮 三光門 とようけ茶屋の前の今出川通を横断すると北野天満宮の一の鳥居が目の前に迫ってくる。 北野天満宮 一の鳥居 北野天満宮 参道 北野天満宮 三の鳥居越しの楼門 北野天満宮の祭神は菅原道真公である。相殿に道真の長男・中将殿(高視)、夫人の吉祥女を祀る。梅宮大社や八坂神社と同じ二十二社の下八社の一社で、旧社格では官幣中社。 菅原道真の大宰府への配流やその後の怨霊話しは有名であるが、改めてまとめてみる。 道真は承和12年(845)父 菅原是善、母 伴氏の三男として生まれる。菅原氏は野見宿禰を先祖と… ►続きを読む
とようけ茶屋
とようけ茶屋 (とようけちゃや) 2008/05/14訪問 とようけ茶屋 看板 龍安寺の山門を出て、きぬかけの道に戻ったのは11時45分。この近くで昼食を摂り、仁和寺、妙心寺方向に向かうことも考えたが、観光客も多いので、一度北野白梅まで戻ることとした。龍安寺前の停留所から市バス59号に乗り、4つ目の金閣寺道で下車する。ここから市バス101号に乗り換え3つ目の停留所である北野天満宮前で下車する。この間30分程度であった。目の前には北野天満宮の大鳥居が見える。今出川通を挟んで北野天満宮に面する とようけ茶屋で本日の昼食を頂く。 とようけ茶屋 北野天満宮の正面 とようけ茶屋は京豆腐の… ►続きを読む
龍安寺
臨済宗妙心寺派 龍安寺(りょうあんじ) 2008/05/14訪問 龍安寺 方丈庭園 鹿苑寺の黒門を出て、金閣寺前の停留所から京都市営バス59号に乗り、きぬかけの道を西に向いおよそ10分くらい進む。3つ先の龍安寺前で下車し、参道を北に入っていくと龍安寺の山門が現れる。総門は龍安寺前の停留所より南側にあるため、きぬかけの道によって境内を分断された形となっている。山門潜ると左手に鏡容池が広がる。 龍安寺 龍安寺前停留所 龍安寺 総門内の境内 鹿苑寺は臨済宗妙心寺派寺院で山号は大雲山。平成6年(1994)に世界遺産に登録される。 永観元年(983)円融天皇はこの地に円融寺を勅願… ►続きを読む