徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2009年

島津創業記念資料館

 

島津創業記念資料館(しまづそうぎょうきねんしりょうかん) 2008/05/15訪問 島津創業記念資料館  善導寺の斜め前には国登録有形文化財の島津創業記念資料館が建つ。建物は明治27年(1894)竣工の北棟と明治21年(1888)竣工の南棟から構成される。  島津製作所の創設者である初代島津源蔵は天保10年(1839)に京都の醒ヶ井魚棚、現在の堀川六条付近で仏具師であった島津清兵衛の次男として生まれる。源蔵は万延元年(1860)21歳で木屋町二条に出店している。この時、家業の仏具師ではなく鍛冶工であったようだ。この地は高瀬川の終着点に近く、重要な流通拠点であった。京都府は殖産興業のため明… ►続きを読む

 

高瀬川源流庭苑

 

高瀬川源流庭苑(たかせがわげんりゅうていえん) 2008/05/15訪問 高瀬川源流庭苑 門の中ににある山縣有朋第二無鄰菴跡の碑  島津製作所の前には、現在は「がんこ 高瀬川二条苑」となっているが、かつてここには山縣有朋の第二無鄰菴があった。無鄰菴の項でも書いたように、山縣は普請道楽で造園好きとしても知られ、生涯で無鄰菴という名の邸宅を三つも造っている。 最初の無鄰菴は長州下関の草庵であった。閑静な場所に建てられ、隣家がない様から無鄰菴と名付けられた。 2番目は慶長16年(1611)、豪商・角倉了以によって作られた木屋町二条の鴨川近くの邸宅跡を明治24年(1891)に購入し、第二無鄰菴と… ►続きを読む

 

吉村寅太郎寓居址

 

吉村寅太郎寓居址(よしむらとらたろうぐうきょのあと) 2008/05/15訪問 吉村寅太郎寓居址の碑  木屋町通三条上るの武市瑞山先生寓居跡の碑が建つ金茶寮の南側隣地に、吉村寅太郎寓居址の碑がある。1階部分が道路から少しセットバックし、前庭のように設えられている中に置かれているため、少し見づらい状況になっている。また何故だか分からないが、狸の焼き物も置かれている。 この碑も含めて「吉村寅太郎」と書かれたものを多く見てきた。しかし自ら虎太郎という文字を多用していたと言われているので、ここでは虎太郎という表記を使う。  吉村虎太郎は天保8年(1837)土佐国高岡郡芳生野村(現在の高知県高岡郡… ►続きを読む

 

武市瑞山先生寓居跡

 

武市瑞山先生寓居跡(たけちずいざんせんせいぐうきょのあと) 2008/05/15訪問 武市瑞山先生寓居跡  木屋町通三条上るにある京料理・金茶寮の門前には、ちりめん洋服発祥の地 の碑とともに武市瑞山先生寓居跡の碑が建っている。先斗町通は三条通で終わっているため、木屋町通の東側にあるこの金茶寮は鴨川に面し、納涼床を売り物としている。この店のHP(https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na081.html : リンク先が無くなりました )には、この地に武市半平太が在洛中に滞在していた料亭・四国屋丹虎があり、その… ►続きを読む

 

桂小五郎・幾松寓居跡

 

桂小五郎・幾松寓居跡(かつらこごろう・いくまつぐうきょあと) 2008/05/15訪問 桂小五郎・幾松寓居跡  三条小橋から木屋町通を北に進むと大村益次郎卿遭難碑と象山先生遭難碑が高瀬川の西岸に建つ。丁度2つの碑の正面に料亭旅館幾松があり、その門前に桂小五郎・幾松寓居跡の碑がある。 弘化3年(1846)新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門し、剣術を学ぶ。嘉永元年(1848)元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となる。これ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始める。  小五郎は嘉永2年(1849)吉田松陰に出会い、兵学を学んでいる。この時期、松陰は長州沿岸の防備視察を行って… ►続きを読む

 

大村益次郎卿遭難碑

 

大村益次郎卿遭難碑(おおむらますじろうきょうそうなんひ) 2008/05/15訪問 大村益次郎卿遭難碑  三条小橋の東橋詰の「佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町」の道標に従い、木屋町通を進むと象山先生遭難碑の左脇に大村益次郎卿遭難碑が建つ。木屋町通から高瀬川を隔てた対岸、すなわち高瀬川の西岸の高台にある。高瀬川沿いには桜の木が植えられているので、桜の開花時期から新緑の季節に訪れると碑が隠れていて見えないかもしれない。前から象山先生遭難碑も含めて碑の近くに出る経路がないか対岸から探してみているが、どうも通行の許されるものは、無いらいしい。そのためこの2つの碑は木屋町通の歩道から眺めるも… ►続きを読む

 

象山先生遭難碑

 

象山先生遭難碑(しょうざんせんせいそうなんひ) 2008/05/15訪問 象山先生遭難碑  三条小橋の東橋詰に、「佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町」の道標が建つ。三条通と木屋町通の交差部分にあるため、多くの人の目に触れるものとなっている。私が初めてこの碑を見たのはかなり昔のことになるが、道標としてはかなり立派なものであったためか、この場所で暗殺が行われたと思い込んでいた。この碑は昭和10年(1935)老舗料亭・新三浦の白井凌三が建てている。御池通の先にある「象山先生遭難碑」が大正4年(1915)、その脇にある「大村益次郎卿遭難碑」が昭和9年(1934)に建立されている。年代的には、… ►続きを読む

 

池田屋騒動址

 

池田屋騒動址(いけだやそうどうのあと) 2008/05/15訪問 池田屋騒動址  三条通が高瀬川に交わる三条小橋から西に4軒目(空地があるので実質的には5軒目となる)、明治屋京都ビルディングの東隣の店先に池田屋騒動址の碑が建つ。訪問したときも店は閉じられ、管理地の看板が出ていた。確か以前訪れた時はパチンコ屋だったような記憶が残っている。碑のほかにも三条小橋商店街振興組合の設置した説明板が建てられていた。ここは現在、「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」となっていると聞く。なお店内には映画などの階段落ちのシーンで知られる7メートルの大階段とともに、東映の監修で当時の池田屋旅館の帳場が再現されている… ►続きを読む

 

本間精一郎遭難地

 

本間精一郎遭難地(ほんませいいちろうそうなんのち) 2008/05/15訪問 本間精一郎遭難地  四条通から高瀬川の流れを見ながら木屋町通を北に入る。三本目の橋が紙屋橋と呼ばれているように、高瀬川の西側は紙屋町、東側は下樵木町となっている。現在、紙屋橋の正面にはガレージと小さな木戸がある。その北側の小野という表札のかかる町家の脇に本間精一郎遭難地と書かれた碑が建つ。 本間精一郎は天保5年(1834)越後国三島郡寺泊で酢・醤油の醸造を営む「かくほん」という屋号の豪商の長男として生まれる。嘉永6年(1853)6月ペリーが4隻の軍艦を従えて浦賀に来航したのは、精一郎が20歳の時であった。 郷里… ►続きを読む

 

一保堂茶舗

 

一保堂茶舗(いっぽどうさほ) 2008/05/15訪問 一保堂茶舗 寺町通の店構え  京都御苑から寺町通を南に下ると、夷川通の先に一保堂茶舗の大きな建物が現れる。言わずと知れた日本茶の専門店である。まず贈答品でお茶となれば最初に思いつく店でもある。 一保堂が扱うお茶は、いわゆる京銘茶と呼ばれるものである。特に木津川、宇治川両水系の気候で栽培され、宇治発祥の宇治製法でつくられたお茶を中心としているため、穏やかな香りと上品な甘み、まろやかな味わいを特徴としている。お茶は自然の産物であるため、同じ産地でも年毎に異なる気候により茶葉の風味も変わる。そのため吟味して仕入れた茶葉でも1年を通して味が… ►続きを読む

 

瑞泉寺

 

浄土宗西山禅林寺派 瑞泉寺(ずいせんじ) 2008/05/15訪問 瑞泉寺 秀次の墓所  三条通から木屋町通に入った所に瑞泉寺がある。木屋町三条の歓楽街の真ん中にある寺院であるが、境内は嘘の様に静寂である。 瑞泉寺 関白の墓所とは思えないほど小さな山門 瑞泉寺 提灯には政権担当者の紋章である五七桐  天正14年(1586)豊臣秀吉は奈良の東大寺に倣い大仏建立を開始した。文禄4年(1595)には、ほぼ大仏殿方広寺が完成し高さ6丈(約18メートル)の木製金漆塗座像が安置された。しかし翌慶長元年(1596)畿内を襲った大地震のため大仏は大破、そして秀吉も慶長3年(1598)に死去す… ►続きを読む

 

高瀬川

 

高瀬川(たかせがわ) 2008/05/15訪問 高瀬川 一之舟入  高瀬川は慶長19年(1614)に、京都の中心部と伏見を結ぶために角倉了以・素庵父子が開削した運河である。高瀬川の名前は、輸送に使われた平底の舟を高瀬舟と呼んでいたことから付けられたものであり,角倉川ともいわれていた。 角倉家は室町幕府に仕える医者の家系であったが、了以の祖父・宗忠が商人の手腕を発揮し、帯を独占的に販売する組合である帯座の座頭職を手に入れ、その資金をもとに現在の金融業である土倉業を営むようになった。その後、次男の宗桂は土倉業を引き継ぐ傍ら、天文年間に2度も明に渡り、中国の先進医術を学んでいる。 角倉了以は天… ►続きを読む

 

原了郭

 

原了郭(はらりょうかく) 2008/05/15訪問 原了郭 既に店を閉めた後 2008年5月12日撮影  四条大橋を渡り、八坂神社に向う四条通の北側、有名な一力茶屋の斜め向かいに原了郭の店舗がある。それほど間口の広くないビルの1階の片隅に入った店舗であるため、四条通を探しながら歩いても通り過ぎてしまうことがある。ビル名称が祇園了郭ビルとあるので、自社ビルなのかもしれない。実際に何回か四条通を東西に行き来した記憶がある。またこの店は木曜定休日なので、時々定休日に訪れ、店を見つけることが出来なかったのかもしれない。今回も訪問日が木曜日だったので、お土産は四条河原町の京都高島屋の地下売場で購入… ►続きを読む

 

三嶋亭

 

三嶋亭(みしまてい) 2008/05/15訪問 三嶋亭  葵祭を堺町御門の前で見終えた後、富小路を南に下り三条通に出る。12時少し前に三条通と寺町通の角にある三嶋亭に入る。現在は寺町通と三条通のアーケードに囲まれているため、建物は壁面しか見ることが出来ないが、明治の名残りをとどめるガス燈がこの店の歴史を語っている。 三嶋亭 玄関の横には肉の販売店もある 三嶋亭 左へも店舗は続く  江戸時代まで肉食はタブーとされていたが、幕末となると長崎などから徐々に流入していた。そのような時代に三嶋亭の初代三嶌兼吉は妻と共に長崎で牛鍋を学んだ後、明治6年(1874)現在の寺町通三条角で三嶋亭… ►続きを読む

 

洛中の町並み その8 寺町通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 寺町通 一保堂茶舗  南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。 寺町通は河原町通の1本西側の通りで、北は鞍馬口通から南は五条通りまでの全長約4.6キロメートル。通りの原型は平安京の東端を南北に走る東京極大路である。天正18年(1590)豊臣秀吉が着手した京都大改造で、洛中の寺院をこの通りの東側に集めたことからこの通りに寺町の名が付いた。 寺町通 一保堂茶舗 寺町通 一保堂茶舗 仁丹の番地表示板 寺町通 一保堂茶舗 店頭には茶箱が積まれている  夷川通を過… ►続きを読む

 

洛中の町並み その7 富小路通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 富小路通 京都ハリストス教会  南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。  麩屋町通の1本西側の通りが富小路通で、丸太町通から六条通までの約2.8キロメートル。もともとの平安京の富小路を麩屋町通と呼ぶようになり、その西側の道を富小路通とするようになった理由は良く分からない。江戸時代には鍛冶屋、目貫小柄屋、白皮屋、塗師などの職人衆が多く住んでいたと言われている。 富小路通 京都ハリストス教会 富小路殿公園側から眺める  丸太町通から車屋町通に入り夷川通を過ぎると、京の… ►続きを読む

 

葵祭

 

葵祭(あおいまつり) 2008/05/15訪問 葵祭  この日は1日市内を廻る予定であった。旅館の人から葵祭を勧められたので、午前中の予定を変更して見物しに行くことにした。三条通、石黒香舗そして亀末廣を回り、車屋通を北上して堺町通の正面に到着したのが10時30分であった。朝早くから順番待ちしただろう人の後ろから見ることができた。 葵祭 警察の騎馬が準備をする 葵祭 葵祭 葵祭 内蔵寮史生  葵祭は5月15日に賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われる例祭で、正式には賀茂祭と呼ばれている。太古別雷神が上賀茂神社の北北西にある神山に御降臨された際、… ►続きを読む

 

洛中の町並み その6 車屋町通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問 車屋町通 左:西島家住宅 右:伊可田屋  南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。  車屋町通は烏丸通の1本東側を南北に走る全長約800メートルの通りである。長い伝統を受け継ぐ老舗の風格のある看板や暖簾を多く目にする。その中に新しい施設も生まれつつあり、新旧が共存できる町並みが魅力となりつつある。 車屋町通は天正18年(1590)に豊臣秀吉の京都改造によって、烏丸通と東洞院通の間に開通した。当初は、北は出水通から南は姉小路通まで貫通していたが、宝永5年(1708)の京都の… ►続きを読む

 

亀末廣

 

亀末廣(かめすえひろ) 2008/05/15訪問 亀末廣  中京郵便局を過ぎてさらに三条通を西に進むと烏丸通に出る。右手にNTT西日本と新風館を見ながら北に行くと姉小路通に当たる。この道を東に入ったところに亀末廣の建物が現れる。 亀末廣 間口だけでなく奥行きからも店の規模が分かる 亀末廣 わざわざ郵便ポストを置かなくても…  亀末廣の創業は文化元年(1804)のことである。伏見・醍醐の釜師であった初代・亀屋源助が京に店を出し、二条城や御所に菓子を納めてきた。御所や二条城からの注文はその度毎に新作を作るものであったため、木型師が専用の木型を作成しても一回だけ使って用済みとなるこ… ►続きを読む

 

石黒香舗

 

石黒香舗(いしぐろこうほ) 2008/05/15訪問 三条通  三条通と柳馬場通の西南角から西に3軒目に石黒香舗がある。創業安政2年(1855)の全国で唯一の「にほひ袋」専門店と石黒香舗の公式HPでは謳われている。京都でも鳩居堂のようにお香を扱う店の作った匂い袋は多くあるが、こちらは匂い袋を専門としたお店である。炭屋の女将の紹介で開店時間の前に店の中に入れてもらうことが出来た。 石黒香舗 右は今は扱わなくなったスティック状の香 左は防虫香 石黒香舗 昔の包装紙と防虫香  匂い袋の歴史は古く奈良時代まで遡る。正倉院の宝物の中にも現在の匂い袋の原型となる裛衣香が… ►続きを読む

 
 

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